「ふざけんなよ、知景」
「……ふざけてねーよ」
さっきまで、仲良く二人でおかゆを作ってたキッチンに。
黒い空気が漂う。
"澪、違うんだよ。知景は私をかばってくれてるんだよ"
その言葉が出てこない。
「それくらいって思ってても、万が一があったら……分かってんだろ? 俺はキキをそんな目には合わせたくない」
少し切なそうに、澪は知景に問う。
掴まれた知景の胸ぐらに、ぎゅっと力が入っている。
「分かってるよ。でも、いつまでもこのままってわけにはいかないだろ? 澪。今日のことがあって、お前も本当は気づいてるだろ?」
「…………」
「今回はたまたまお前だったし。薬で治るくらいの症状だったよ。だけど、もしキキがそうなったら……」
「……やめろよ」
「もしも俺らだけで手におえない状態にキキがなりでもしたら……」
「うるせー」
「救急車なんて呼べねーぞ? 病院になんて連れて行けねーぞ?」
「黙れっつってんだよ……知景」
「なぁ、澪……その時お前は、どーすんだよ」
────────ガッシャッッン!!!!
静まり返ったキッチンに、そんな音が響きわたる。
「……もう帰れよ、知景」
それは澪が彼を殴った音。
ではなく、シンクの上に置いてあった土鍋を、澪がフローリングに叩きつけた音だった。
まだほんのり湯気の上がった白いおかゆが、割れた土鍋の破片と一緒に床一面に散らばる。
それを澪は、虚しそうな瞳で見つめていた。
「……薬、ちゃんと飲めよ」
「…………」
怒ってしまったのか。
呆れてしまったのか。
そう心配したが、知景は案外あっさりした表情でそう残し、リビングから出ていった。
「……澪、薬飲もう」
緊迫した空気のなか。
やっとでた私の一言は、そんなものだった。
────────────
頼むから声を出さないで
頼むから動かないで
だけど笑って
僕を安心させて
矛盾が重なり合って
僕の感情は拗れていく。
────────────
その日の夜。
澪はいつも通り、お酒を片手に庭の椅子に座って涼んでいた。
お風呂上がりで少し元気のない赤毛が、夜風にふわふわと踊らされている。
「……怒ってごめん」
そんな彼を見ながらベランダに腰かけている私に、聞こえるか聞こえないかの声で澪は呟いた。
「ううん……ごめんね、澪」
「分かってる、キキが悪いわけじゃないんだ」
「違うよ、澪。知景はね悪くないの。知景は私をかばって……」
「……それも、分かってる」
「……え」
予想外の言葉に、思わず聞き返した。
澪は表情ひとつ変えずにお酒の入ったグラスに口をつける。
「キキは理由もなく俺の言いつけを破る子じゃないだろ。知景だって、まるわかりだよ。キキをかばってることくらい」
「じゃあ……どうして」
そう言った私は、無意識に視線をキッチンへと向けた。
そこにはまだ、きちんと処分されていない割れた土鍋が片づけられてある。
私は、てっきり知景に怒ってあのお粥の入った土鍋を割ったのだと思っていたのに。
その原因は、私でも、知景でもなく。
「……無力というものほど、必要のない力はないね」
「……無力?」
「キキにはよく分からないだろうけどね。知景に本当のことを言われて、思い知ったのさ」
「………?」
「あの時、自分にムカついてしょうがなかったんだ。びっくりさせてごめんな」
やっぱり、澪の言葉はよく分からないのだけど。
少し眉尻を下げて謝る彼に、私はそれ以上何も聞けなかった。
────────────
寝室にあるモノクロの時計。
銀色の針が、深夜の2時を指している。
眠いような眠くないような、ゆっくりと開け閉めを繰り返すまぶた。
あぁ、早く朝がこないかな。
そしたら、また澪とお話できるのに。
一緒に遊べるのに。
ふと、横を見るとこちらに背中を向けて眠る彼の背中があって。
なんだか分からないけど、寂しさが込み上げる。
「…………澪」
呼びかけに反応しないとは分かっていても、つい口から出てしまった彼の名前。
なぜだか分からないけど、不安なの。
どうしてか知らないけど恐いの。
理由もなく、貴方の瞳を見たいの。
「……寝れないの?」
「……!」
思いが届いてか届かずか。
低い声でそう呟いて、隣の彼は寝返りをうった。
「起きてたの……?」
「いや……キキの声で起きた」
「そっか……ごめんね。でも良かった」
「良かったって?」
澪の綺麗な黒い瞳が私を覗く。
開いたTシャツの胸元から見える鎖骨に、ドキリとした。
「分からないけど……」
「分からない?」
「……不安で、恐い」
「怖い夢でも見たんじゃない」
「そういうのじゃないんだもん……」
ぷくりと頬を膨らませる私に、澪は少しだけ笑った。