なんで?
どうして?
私が早く立ち上がらないせいなのか、彼は少し呆れたようにため息をつく。
「俺にはなつかないな、お前は」
あ れ ?
なんか、前にも同じようなこと言われなかったっけ?
気のせい?
澪?
私は精一杯の力で手を伸ばす。
離れていきそうな彼に、震える手を伸ばす。
……澪?
どうしてこの手を掴んでくれないの?
澪?
視界に映る。
伸ばした私の手。
……あれ
私の"手"じゃない?
滅多に日向に出ないからか、真っ白いはずの私の手が。
今は真っ黒で、毛むくじゃらで。
これじゃあまるで……。
まるで……。
ふと、隣を見る。
「 」
言葉を失う。
何故かそこにいる、私の姿。
何故? どうして……?
私は……ここにいるのに?
「キキ」
彼は私を見て、またそう呼んだのだ。
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ある空間のなかで
男が「キキ」と
呼びかけたのは
一匹の黒い猫
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──────
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「キキ」
彼女がそう呼びかけると、そこにいた仔猫は"ニィー"と、か細い声を出した。
「おいでなさいな、キキちゃん」
今度はふざけて、そう言いながら柔らかい笑みを浮かべる。
庭で座っていた黒い仔猫は、差し出された彼女の腕のなかへと駆け寄っていった。
「可愛いやつめ」
「……なんかむかつく」
「あれ、ヤキモチか澪」
いじわるっぽく白い歯を見せた彼女の笑顔があまりにも愛しくて。
照れ隠しにムニッとその頬をつまんだ。
「あ、図星?」
「……そうだけど」
夕日が沈み始めた、彼女の家の庭で。
俺とアヤノはいつもみたいにのんびりと、ただ流れていく時間を過ごしていた。
「お母さんは仕事?」
「たぶん……。キキに餌だけあげて、いつもみたいに出ていったから」
「……そう」
「キキちゃん、ニ゙ァー」
"ニ゙ァー"なんて、変な鳴き真似。
アヤノは庭の縁側に腰掛けながら、黒猫の"キキ"と変な声を出してじゃれている。
俺はそんな彼女の隣に座りながら、オレンジ色の夕日を背景にその光景を眺めていた。
「澪も仲間に入る?」
彼女が首を傾げながらこちらへ視線を向ける。
ちょうどこちらを向くと夕日が影になって、よく表情が見えない。
「はいんねーよ」
「あー、拗ねた!」
「拗ねてないっての」
実に平凡で、ごくごくありきたりなこのやり取りを。
僕は何度も何度も思い出すことになる。
「ニァー」
キキは、少し前にアヤノの母親が拾ってきた仔猫だった。
言い方は悪いが、"金"と"欲望"以外に全くとして興味のない彼女の母親が飼うと言ったのだ。
……とアヤノから聞いたときは、心底驚いた。
自分の娘に対して、情も繋がりも持っていないあの人が仔猫を飼う?
あり得ない。
なんの気まぐれかは知らないが、あの人にとって仔猫を飼うなんてことは、きっとただの暇潰しでしかないのだと。
その時の俺は思っていた。
しかし、キキを飼い始めて数ヵ月。
アヤノの話によると、彼女の母親はしっかりとその仔猫の面倒をみていたのだというのだ。
仕事の行きと帰りには、ちゃんと餌をあげていた。
トイレのしつけも、アヤノが手を貸すことなくできたし。
いつの間にか"キキ"と呼ばれていたその仔猫を、愛しく抱いては可愛がっているのだと。
「良かったね、キキ」
彼女は今にも泣きそうな顔をしながら、精一杯の笑顔でそう言うのだ。
俺は胸が痛くなった。
喉の奥で、出かかる大きな言葉の塊を。
必死に飲み込んだ。
だって、彼女は"同情"を嫌うから。