忘れていた苦しい感覚がよみがえり、嫌悪感に顔がゆがんだ。

車酔いに似た感覚に襲われ、これ以上の乗車は耐え難く、目的地を目の前にし

てタクシーを降りた。

少し寒いと感じたものの、気分の悪さはいくぶん薄らいだ。


あの頃の私は、幸せな振りをした自分に酔っていた。

彼の気持ちをつなぎとめることに必死で、わがままに甘えることもできな

かった。

それは、別れを恐れるあまりの心のブレーキだったのかもしれない。


握り締めていたはずの雑誌をタクシーに忘れたと気がついて、肩の力がふっと

抜けた。

記憶の奥で細々と繋がっていた岡部真一との糸が切れ、しがらみから解放され

た気がしたのだった。





初日二日目と展示会は大盛況で、三日目も早い時刻から来場者が押し寄せて

いた。

会場内はいくつものブースに仕切られ、活気あふれる雰囲気となっている。

最終日であることから、朝からあちこちで商談が始まり、付き合わせる顔も

真剣だ。

我が社のブースを訪れる人も日増しに増え、スタッフの報告以上の盛況ぶりに

対応にも熱が入った。

業者だけでなく一般の来場者が多いのも最終日の特徴で、女性のグループも多

く見受けられた。

夕方近くになり、来場者が潮を引くように去った頃、私に来客があった。



「お席へどうぞとご案内したのですが、ご挨拶だけですのでとおっしゃって」



当惑顔のスタッフから告げられた名前を聞いて、息をのんだ。

反射的に示された方向へ体を向け、間違いないのかと確かめるように目を凝ら

すと、その方は私の顔が見えるとにこやかに微笑み、あわててかしこまった

お辞儀をした私へ、ゆったりとお辞儀を返してくださった。

「平岡さんを呼んでください」 と、隣に立つスタッフに伝えながら、私は

すでに極度の緊張に襲われていた。

お客さまの名前は、近衛塔子さん、宗のお母さまだった。



「お待たせいたしました。本日はありがとうございます」


「こんにちは。懇意にしている方から招待券を頂いておりましたので、旅行の

途中に立ち寄りましたの。

パンフレットにこちらの会社のお名前を見つけましてね、

もしかして、あなたがいらっしゃるのではと、お邪魔いたしました」


「さようでございましたか」


「主人には、余計なことをするなと言われておりましたけれど、

あなたのお顔が見えたらじっとしていられなくて、

お忙しいのにごめんなさいね」


「おそれいります……」



展示会場に足を運んだ理由を懸命に説明する姿は可愛らしく、ごめんなさいね

と困った顔が私を見つめている。

話したいことは他にあるのに、私も彼のお母さまも言葉を選びすぎたのか、

会話が途切れてしまった。

そのとき、後ろに控えていた人が、つっと一歩前にでた。



「先日はありがとうございました。

私、デザインを担当いたしました、平岡蒔絵と申します」


「まぁ、デザイナーさんにお会いできるなんて嬉しいわ。

とても気に入っております」


「光栄です。不具合などございませんでしょうか」


「いいえ、申し分ありません。また、お願いしてもよろしいかしら」


「ありがとうございます。

ご希望の形などおありでしたら、こちらでお伺いいたしますが」



さりげなく間を取り持ってくれた蒔絵さんに感謝したい。

二人が言葉を交わす間に私も落ち着き 「よろしければ、あちらのティールーム

にてお話をお伺いいたします」 と、よどみなく言葉が出ていた。

「えぇ、ぜひ……」 と答えた方もホッとしたようで、少し席をはずしますね

と蒔絵さんにことわり、お母さまと連れ立ってその場を離れた。