もしもこんな事になっていなければ、きっと二人でゆっくりと過ごしたはずの休日は、たった一人で、つまりどういう意味でも本当に独りになって、そして早すぎる朝に始まった。キッチンで立ったままぼんやりと牛乳を飲みながら、掃除をしよう、と思った。そういえば昨晩は久しぶりに「恋人だった彼女のこと」だけを考えていたような気がする。

大きなゴミ袋に思い出せる限りのものを放り込みながら掃除機をかけていった。二年という月日は彼が思うほど長くもなかったが、彼が思うほど短くもなかった。そう、何にも跡を残していかない程短かくはなかった。配色の可愛らしい水玉のマグカップ。哀しい結末のラブストーリーのDVD。デートスポットを特集した雑誌。小さなオセロセット。クローゼットの中、引き出しの中、げた箱、洗面所。ハンカチや靴下、マフラー、スニーカー、ペンダント、バングル。

燃える物と燃えない物を仕分け、「思い出」が4つ半の袋に入ったとき、彼はやっと自分がループから抜け出したことを知った。思い出せばまだ胸が押しつぶされるように辛い。今頃彼女がどんな風に泣いているのだろうと思うと、自分がそんな目に遭わせたくせに傍に居てやらないのが薄情な気がするほどだった。そうやって渦巻く思い出は胸を押し広げて心臓やら胃やらを押し潰そうとするくらいに胸の中にぎゅうぎゅうになっているのに、あの日から彼を悩ませる想いはどうして追いやられる事も押し潰される事もないのだろう。いま自分の中に混在しているこの面倒くさいものすべて、燃えるゴミみたいに仕分けられたら簡単だろうと思うけど、こんな風に面倒くさく、こんな風に訳が分からない、何歳になってもそういうものなんだと思うと、新しいことを知ったなとおかしな喜びを感じないでもなかった。


逃げとかではなく、ただただ、仕事をした。いつもどおり淡々と、静かな情熱を持って。仕事をしているときは仕事以外のことを思い煩う事はないので、確かにそうやって癒されていくものもあるにはあった。そして、ひと月に一回の楽しみがあった。彼女の横顔や彼女の後ろ姿を見るだけの日もあったし、運良く事務所の入り口で彼女とすれ違った事もあった。本当に短い時間でも(時には本当に秒単位の時もあった)彼女を一目見ることが出来るその日はいつも「胸がときめく」という言葉の意味を思った。そして、ふとした瞬間に可愛らしかった恋人を思い出すこともあった。たとえば、携帯電話の着信を確認する時に。たとえば、水族館の車内広告を見たりした時に。たとえば、彼女が使っていた電車に乗る時に。そんな時、自分はこうやって独りのまま年とって行くのだろうかと思って気弱になる事もあった。


湖山は仕事以外でカメラを構えるということがこれまではあまりなかったけれど、最近新しい休日の過ごし方をするようになった。ある日気晴らしに出かけた公園で木漏れ日の溢れる青葉のトンネルを見たとき、あの人がこの景色を見たらどんな風に目を細めるのだろうかと思った。その考えは急に彼にとりついてしまった。青葉のトンネルを抜けた向こうにコンクリートの山がそびえた児童公園があって、その周りを走り回る子ども達を見てもやっぱり彼女を思い出した。それはこれまでのように「あの時」の彼女を思い出すのではなく、この景色の中に彼女がいたら、と思うのだった。

その日から彼は休日にどこか出かけてはカメラを構えるようになった。彼女と見たい風景。彼女に見せたい風景。彼女に居て欲しい風景。カメラを構えたフレームの中に、どこか彼女を探してシャッターを切る時、いつか彼の中に芽吹いた想いは乾いた土に水を得たようにみずみずしく青々と葉を広げていくように彼を満たした。