「ごはん食べに行きませんか?」
これは無理。急すぎる。
「先日お見かけしました」
うまくすれば
「半分持ちますよ」とか。

そんな風に気軽に声を掛けてみたらいいじゃないか、と思うけれど、言えない。先がないって思うからなのか。先がない、そんな風に思うと、先とかそんなの関係ないじゃんと思う自分もいたりする。でも、それより前に片付けないといけないこともある。

あの日、屋上で彼女が微笑んで見つめていたのは彼女によく似た少女だった。少女は何度も彼女のテーブルと乗り物のコーナーを行ったり来たりしていた。少女の頭を撫でる彼女の小さな手や、少女を抱きかかえる時に袖口から見える細い手首、早い春の風に靡く髪を見たとき、湖山は思春期に初めて女の子を意識した頃の気持ちをまざまざと思い出した。胸の中で何かがこんがらかっている気がするのは、今更味わう気持ちのせいだけではなくて、つまり、少女の存在だった。

他人であるわけがない、と一目で分かった。笑顔がそっくりだったし、髪質も似ているように見えた。何よりも彼女の少女に向ける表情や彼女のしぐさの一つ一つは単純に愛しいものを愛でている幸福感で一杯だった。そう、子どもがいてもおかしくない。


コンピューターが立ち上がる。湖山は先日撮影したディスクをリーダーに入れ、一枚一枚丹念にチェックし始めた。そうやって仕事を始めるともう何もかも思い出さなくなるのでありがたかった。何か作業する時にもてあました手を首筋に当てるのは湖山の癖だ。右手でマウスを動かしながらコンピュータースクリーンとにらめっこする彼の左手は、いつものように襟足を行ったり戻ったりしていた。

ランチタイムが近くなって事務所内がざわつき始め、湖山は急にトイレに行きたかった!と思い出して席を立った。カーペットの敷いてある事務所の部屋から廊下に出ると、彼の茶色い革の紐靴がキュゥキュゥと鳴った。

「おう!湖山、メシは~?」
「あぁ、後にするわ」

後ろから声を掛けてくる同僚にそう答えて、心臓がどきんとひとつ大きく鳴ったのが分かった。シャツの胸元をぎゅっと握り締めた彼の細い肩が丸まって少しの間猫背になった。今の作業を終えたら仕分けた分をとある所に持ち込む事になっている。その事務所に例の彼女が居るはずだった。


昼休み中作業を続けて午後早めにやるべきことが終わった。事務所名の入った書類封筒にROMと書類を入れて、いつもよりも少し慎重に事務所名の横に自分のハンコを捺した。ショルダーバッグを斜めにかけて書類封筒を持ち、ホワイトボードに17:00 と書き込んだ。書類封筒を持った方の手に挟んだキャップに、一度はペンを戻したが、彼は少し首を傾けるようにして何かを考えると 17:00 を消して「直帰」と、しっかりした文字で書くとペンを押し付けるようにホワイトボードのラックに置いて事務所を出て行った。

何かを期待したわけではなかったけれど、期待してなかったわけでもない。希望とか願望とか、そういう気持ちがあったことはあった。でも、それだけではなくて、片を付けなければいけないこと、というのも頭にあった。