ある晴れた日曜日の朝。

俺はこの町に引っ越してきた。

それは、まだ幼稚園児だった5歳の頃。

仲の良かったやつらと別れるのは本当に寂しかったし、この町で新しい友だちができるかも、正直なところ不安でいっぱいだった。


なんで転勤断らなかったんだよー、親父ー。

夢の一戸建てかは知らないけれど、俺は団地でも全然よくて、というか、そこで育ったからかな、むしろ団地のほうが落ち着くくらいだ。


ああ、近所の公園に埋めたどんぐりの種、ちゃんと芽を出してくれるかなぁ……。

引っ越しのトラックに揺られながら、そんなことばかりをぼんやり考える。

窓の外を流れる景色は、いつの間にか、初めて見る町並みにすっかり変わっていた。

と、そのとき……。


「着いたぞー」


親父の声がして、トラックが止まった。


「……」


ここかぁ。

ウキウキとトラックを降りて家を眺めに行った親父とお袋とは対照的に、俺はなかなか降りられず、今さらながらに胃をキュッとつままれるような緊張が走る。

友だち作りも、幼稚園も、近所で遊び場を見つけるのも、全てが最初から始まる、新生活。

団地での生活がとたんに懐かしくなった。
 
 
俺たちのこと、忘れるなよ!と、別れの最後に友だちからもらった泥だらけの野球ボール。

それをきつく握りしめる。

すると。


「朝からお騒がせしちゃってすみません、向かいに引っ越してきた長谷部です」

「いえいえ、花森と申します。何か分からないことがあったらおっしゃってくださいね、お手伝いさせていただきます」

「ご親切にありがとうございます」


何やら外が急に騒がしくなって、窓から少し身を乗り出して様子を窺うと、なぜか手に持った木刀を恥ずかしそうに背中に隠す、花森と名乗った向かいの家のおじさん。

と、その母親の陰に隠れるようにして、今にも泣き出しそうな顔で大人たちの会話を注意深く聞いている女の子が目に入った。


顔の半分以上が隠れていてはっきりとは分からなかったけれど、色の白い肌と、それによく合う薄茶色の髪が緩やかな風にときおり揺れる。

目はおそらく、たれ目気味。

一瞬でかわいいと思った。


「稜ー、稜ー?」

「……っ、お、おー!」


その女の子に見とれていると、俺を呼ぶお袋の声が聞こえて、慌てて返事をする。

いよいよ俺も、引っ越しのあいさつらしい。

心臓うるさい。黙れ。
 
 
緊張からくるものではないそれは、確実に、相変わらず母親の陰に隠れたままこちらを見ている女の子に向けられたもの。

このうるさい心臓の音の名前を、前の幼稚園の先生から聞いて、俺は知っている。

だけど今は、早く早くと手招きする親父とお袋に急かされて、思い出す余裕もない。

そして、思い出せないまま女の子の家族の前に立った俺は、とっさにこう叫ぶ。


「僕の夢は甲子園で優勝することだ!」


手には泥だらけの野球ボール、ほっぺたには2日前に試合の真似事でついた擦り傷の勲章、頭にはお気に入りのプロチームのキャップ。

そんな俺を見て、目の前の女の子も、その両親も、もちろん俺の両親も、一瞬ぽかんと口を開けて俺を凝視した。

けれど、次の瞬間には笑い出す両親たち。


野球に夢中になっていたけれど、今までそういった“夢"を口にしたことはなかったし、俺自身もまさか言うとは思ってもみなかった。

ただ、目の前の女の子を甲子園に連れて行きたいという思いが急に芽生えて、その夢を本格的に追い始めるきっかけになったことは明白。


野球の話で急に盛り上がりだす大人たちのかたわら、俺は野球ボールを前に突き出し、ニシシと女の子に笑ってみせる。

女の子はまだ、緊張からなのか表情は固い。
 
 
でも、いい。

野球でこの子を笑顔にするのが俺の夢。

まだまだ下手くそなうちに笑われても困る。





13年後、春。


「はぁ、いいよなぁ、あのヤカン……」


グラウンドの真ん中で50メートル走のタイムを測っていると、膝の上にヤカンを抱いてベンチから桜を見ている“あのときの女の子"が目に入って、俺は思わずそう声をもらした。

彼女は今、俺たち青雲高校野球部のマネージャーの仕事をほとんど1人でやっている。

ヤカンをひっくり返したり、何もないところでつまずいたり、少々ドジで危なっかしい面もあるけれど、俺たちのためにいつも走り回ってくれる彼女がみんな好きだ。


「ああ、いい天気だ」


こういう日はつい想像してしまう。

例えば、甲子園の切符をかけた県大会、決勝。

その試合でホームランを打った俺は、ダイヤモンドを1周し、ベンチに入っている彼女とハイタッチで喜びを分かちあう。


「今年こそ……今年こそは百合を甲子園へ」


そう呟いた声を聞いていたのは、グラウンドを囲むようにして植えられた桜の木が散らす無数の花びらだけ。

俺の夢が叶うのは、もう少し先のこと。


ーENDー
 
 
クラスメイトたちがガヤガヤとおしゃべりをしている教室の中、ひときわ大きな学級委員長の声が響いて、わたしたちは教壇に目を向けた。


「ちょっと、みんな静かに!! アンケート結果が出揃ったということで、今年のクラスの出し物はお化け屋敷でいいと思う人、挙手して!」


10月上旬。

もうすぐ文化祭ということで、わたしたちのクラスでもホームルームが開かれていて、部活を引退して、次は卒業後に向け受験や就職でめいめいが忙しいこの時期に、久しぶりにクラスみんなで楽しく過ごせるイベントがやってきた。

黒板には、さっき無記名で取ったアンケート結果が書き出されていて、お化け屋敷に票が集まっていることと、手を挙げている人が大多数なことから、どうやら今年のクラスの出し物は、お化け屋敷に決まったみたい。

ココちゃんとわたしも、例にもれずに手を挙げていて、委員長は「お化け屋敷」と書かれた上に、赤のチョークで花丸をつけた。


「百合、あんた大丈夫? 子ども向けのお化け屋敷でもダメなくらいの、超怖がりなのに」

「大丈夫だよ。呼び込み係とか、お墓作ったりとか、そういうのだったらできるし!」


すると、こちらを振り向いたココちゃんが心配そうな目をして聞いてきて、けれどわたしは、そう自信を持って答え、笑った。
 
 
怖いものが大の苦手で、お化け屋敷なんてもってのほかなわたしだけれど、おどかすほうじゃなければ、大丈夫なように思う。

実際、不器用でも何か物を作るのは好きだし、少しだけ、お化けの仮装にも興味はある。


「そういえば、野球部の出し物も手伝うんだったよね? じゃあ、ずっとクラスの出し物に縛られるわけじゃないから、大丈夫か」

「うん。ココちゃんも手伝いに行くんでしょ? 吹奏楽。楽しみだなー、トランペット」

「もちろん!後輩がちっとも放してくれなくてさ、毎日、音楽室に行ってるよ」
 
「さすが部長!」

「元、だけどね」


そう言うと、ココちゃんは肩をすぼませて舌を出し、わたしもつられて笑う。

部活を引退しても、文化祭の時期はいろいろと駆り出されるのが我が青雲高校で、クラスの出し物のほかに部活ごとの出し物もあって、父兄の皆さんには毎年大盛況で、生徒は大忙しだ。


今年の野球部は、甲子園に出場したこともあって、毎年の食べ物屋から一変し、グラウンドで球速対決をするイベントに変わっていた。

大森君の最高スピード、149kmを目指してのピッチング対決案が部内で決定し、生徒会にも受理され、ココちゃんのところの吹奏楽部は、例年通り体育館でのミニコンサート。