見ていました。
 サーカスの綱渡りのピエロが、血まみれの肉の塊になったその瞬間を、見ていました。彼の最期の微笑みを、見ていました。
 
 私は幼い頃から、サーカスが好きでした。狂ったようなステージが好きでした。学校へ通うのをやめてからも、サーカスへ通うのはやめませんでした。
 舞台の上で繰り広げられる狂った物語は、夢と現の境界線を曖昧にして、つかの間の一時にどっぷりと溺れる夜は、私の至福の時間でした。

 綱渡りのピエロが現れたのは、一年半程前でした。彼は綱渡り意外何もしません。ただ、笑って綱を渡るだけ。そんなピエロを気味悪がる客や、笑う客がほとんどでした。最後はいつも、ピエロが団長に怒られ、客席から笑いとブーイングが起こって終わります。拍手が起きたことは一度もありませんでした。
 でも私は、他の何よりピエロの綱渡りが好きで、死さえも厭わない笑みが大好きでした。もしかしたら、狂っていたのは、ピエロより私の方だったかもしれません。

 その日もサーカスはいつも通りに始まりました。息を飲むほどの大技が何度も披露された後、またピエロの綱渡りが始まりました。
 不安定な足裁き、楽しそうに歪んだ口元。その姿がどこか誇らしげで思わず見入ってしまうのもいつもの事でした。
 もう少しで綱を渡り終えるというその時、ピエロの体が大きく揺れました。それなのにピエロは少しもジタバタしません。それどころか、表情だっていつもの微笑みを浮かべたまま。あっと言う間に下へ下へと落ちて、血まみれの肉の塊になりました。
 静まり返る客席。慌てて駆けつけてきたサーカス団の人々。二度と動かないピエロ。その全てをただ見ていました。

 凍りついた雰囲気のままサーカスはお開きになりました。団員たちも皆何処かへ行ってしまって、辺りはガランとしていました。
 ふいに誰かに呼ばれた気がしました。そのまま吸い寄せるようにステージへ登り、気がつくと目の前には綱がありました。
 そうだ。今日から私がここのピエロ。ピエロは死んでなんかいない。
 「ショータイムを始めましょう?」
 誰もいない客席に向かって微笑みながら、綱の上に一歩足を踏み出しました。