「倉内フルールちゃん、か」

 予防接種のために病院の方に来た倉内家のお姫様の名を、父親が夕食のときにふと呟いた。

 花は病院の方にはいなかったが、診察の前と後で倉内が裏に回ってきてくれたので知っている。

 あれ以来、花と倉内は、前よりももう少し近い感じになっていた。

 たまに、一緒に帰るくらいだが。

 そういう時は、昼休みくらいにメールが入るのだ。

『花さん。今日、よかったら一緒に帰らない?』

 メールの中の彼は、勿論どもったりしない。沈黙も無い。

『了解しました。下駄箱のあたりで会いましょう』

 そんな彼の言葉を、花はシンプルに打ち返す。

 そういえば最近、会話のどもりが減ってきた気がする。

 倉内も、少しずつ前に進んでいるのだろう。

 時々、夜にメールが来ることもある。何度か写メで、フルールの写真が送られてきた。スマホの待ち受け画面も、フルールになっていた。

 すっかりあの白い猫に、彼はデレデレのようだ。

 そんな彼のことを思い出して、花はご飯を口の中に押し込んでいたら、父の複雑な視線に気がついた。

 もぐもぐもぐ。

「どうしたの? お父さん」

 飲み込んで、問いかけると。

「お前たち……付き合ってるのか?」

 おそるおそるという風に父に問われて、花は目を見開いた。

 突然、何を言い出すのか。

「ち、違うよ。突然、何てこと言い出すの、お父さんのバカ!」

 気が動転してしまい、目を白黒させたまま、花は一気に父の罵倒まで駆け抜けた。

 ぷぷっと母が、お茶碗の陰で笑っている。

「あ、いや、だって……なあ、フルールなんて名前だったから」

 父がしどろもどろになりながら、花に弁明する。

 意味が分からない。

「フルールが、どうかしたの?」

 もはや米粒は口の中に入れるまいと、一度お茶碗を食卓に下ろした花は、父に険しい表情で問いかけた。

「だってなあ……フルールって、ほら、あれだろ?」

 指を持ち上げて、視線で母に救いを求めた後、はぁとため息をついた花の父は、観念したようにこう言ったのだ。

「だってフルールって……フランス語で、『花』のことじゃないか」

 ぱちくり。

 花は、席で固まった。

「…………は?」

 ようやく、喉からこぼれ落ちたその声は、自分のものとは思えない、間抜けな音をしていた。

「猫に、お前と同じ名前をつけるんだから、父さんちょっと心配で……なあ、母さんも笑ってないで、何とか言ってくれよ」

「知りませんよ。変なこと言って、花に嫌われるか、馬に蹴られても、私はなーんにも知りません」

 にまにまと笑う母は、父の救助を乞う声を遠くへと押しやるばかりだ。

 え?

 花の心の中で、そんな音が生まれた。

 え? え? え? えええええええーーーーっ!?

 その音は、一瞬にして大音量になり、花の内側で猛烈なスピードで跳ね回るピンボールと化す。

 気がつくと、食卓で真っ赤になった花と、笑う母と焦りまくる父という、これまでにない斉藤家の情景が出来上がってしまったのだった。


 ※


 花が、猫の名づけについて倉内楓に聞くことは出来なかった。

 しかし、二度、一緒に帰ろうという倉内のメールを、恥ずかしさの余り断ってしまったせいで、事態が動きだしてしまう。

 すっかり気落ちした彼から、夜に『やっぱり、僕のことが嫌になった?』というメールが届いた時には、花は一人で無言の絶叫をしてしまったのだ。

 そうじゃない、そうじゃないの、と。

 部屋で一人、携帯を見つめたまま焦った彼女は、返信画面を開いて、ぽちぽちとボタンを押し始める。

『倉内先輩の猫の名前が、フランス語で花という意味だと父から聞いて、何だか恥ずかしくて、倉内先輩の顔がちゃんと見られなかっただけです』

 多くの勇気を総動員して、花はその文章を書いた。

 そして、震える指で送信ボタンを押した。

 いつの間にか息を止めていたのか、はぁぁと深い深い吐息をつく。

 倉内やタロが、花の方へ一歩踏み出した時も、こんな勇気が必要だったのだろうか。

 ばくばくする心臓に手を当てて、花はそんなことを思った。深刻さで言えば、比較してはいけないのだろうが。

 少しの間を空けたあと、メールが届いた。

『父がフランス語圏のカナダ人だったので、僕に幸福をくれた花さんにちなんで、フルールにしたんだけど、イヤだった?』

 文字を見て、花は恥ずかしさと脱力で肩を落とす。

 だーかーらー、ああもう、この人はぁ。

 男子高校生に、『僕に幸福をくれた花さん』なんていわれたら、奥歯の方がかゆくなってしまう。

 本人が、至って真面目なのがタチが悪い。

 それでもまあ。

 花は、はぁとため息をついて、返信画面を開く。

 それでもまあ、これが倉内楓という人なのだ。

 犬も猫も十匹十色。

 人もまた然り、だ。

 それを普通じゃないからとか、おかしいからとか、そんな言葉で枠の中に入れても、幸せにはなれないだろう。

 タロがそうだったように、倉内もやっぱりそうなのだ。

『倉内先輩が気に入っているのなら、それでいいです。明日は、良かったら一緒に帰りましょう』

 二回のお断りの埋め合わせをするように、花はメールの返事を書いた。

『ありがとう、花さん』

 とても彼らしい返事が来る。

 倉内の表情と声で、脳内に再生されそうになって、花は慌ててそれを追い払った。


 ※


 夏が来て、衣替えの季節になる。

 すっかり日差しが強くなった、夕焼けの帰り道。

 白いシャツから伸びる倉内の腕には、小さなひっかき傷が見える。

 フルールのじゃれた跡だろう。

 幸せな傷だなと、花はそれを見てふふと笑った。

「花さん」

 彼の呼びかけのどもりも、かなり減ってきた。

 最近、大人しいインドア系の男子と友達になったと話してくれた。相手もあがり症だが猫を飼っているらしく、その話題で少しは話せるようになったらしい。

 良い傾向の彼に、花はついにっこり笑いを彼に向けていた。

「あ……」

 そんな彼女と目が合って、倉内は少し頬を赤くする。

 おっといけないと、彼女は視線をそらした。まだ、目と目を合わせるのは、得意ではないようだ。

 何事もゆっくりが一番と、花が視線を落とすと。

「は、花さん……あ、あ、あの……」

 目が合って緊張してしまったのか。

 久しぶりに、盛大にどもられた。

「と、友達に、いい映画があるって、そ、その、勧められたんだけど……ね、猫の! そう、猫の出る映画……よ、良かったら、こ、今度……一緒に……」

 ああ、なるほど。

 倉内は、その猫の映画が見に行きたいらしい。

 人がいっぱいいる映画館に一人でい行くのは、彼にはまだつらいところがあるので、花が一緒に行けば心強いのだろう。

「分かりました。いつにしましょうか」

 彼を見ると、もっと緊張させてしまうと思い、花は夕焼けの空を見上げながら返事をする。

「ありがとう……花さん」

 定型句と化した、彼のその言葉の羅列を、くすぐったく耳で受けながら、花は照れ笑いを浮かべてしまった。



 花の心の扉の前に、立ちつくしたままの倉内の思いは、ノックの仕方が下手過ぎて──まだ、その扉を開けてはもらえないようだった。



『終』