「……」

 校門を出ても、倉内は話し始めなかった。

「猫に名前、つけました?」

 急かすのではなく、話しやすい話題でも振ってみるかと、花は軽く唇を開けることにしたのだ。

「あ、うん……フルール」

「へぇ、フルちゃんですね」

 聞きなれないカタカナが出てきて、花はつい短い愛称で返した。

 ペットの名前に、凝る人は多い。

 病院の方では、ペットの名前の診察券を発行するのだが、たまに覗くと、『さくら』とか『ココア』とかならまだいいとして、『アレクサンダー』とか『ケルベロス』とかは、犬猫にどんな能力を与えようとしているのかと、心配になったりもする。

 けれど、結局は飼い主の愛情の表れに過ぎないので、花が口出しをすることはない。

「フルちゃん、元気ですか?」

「う、うん、元気。か、母さんが貴重品を、全部押し入れにしまいこんでた」

「それ、分かります。猫は三次元で飛び回るから、壊れ物とか気が気じゃないですよね」

 思わず、花はあははと笑ってしまった。まだ小さいので、一生懸命よじのぼったりする程度だろうが、大人の猫は忍者のようだと、常々花は思っている。

 そんな彼女の笑いに、つられたのか彼も笑う。

 少し前が嘘のように、倉内は打ち解けているように見えた。

「あ、あの……お、花さんのお父さんに、ちょ……ちょっと聞きたいことがあるんだけど……寄っても、だ、大丈夫?」

 そんな彼が、ようやく自分の胸の中にあっただろう塊を吐き出したのに気づいた。

 花の父とは言え、余り親しくない人に自分から会おうとする彼の倉内の姿は、とても健気に花の目に映る。

 猫の相談だろうが、良いことに思えた。

「うん、じゃあシェルターの方で待っててもらえますか? お父さんの手がすいたら連れてきますから」

 正式な診察だと、お金がかかってしまうので、暇な時の雑談という形にしようと花は目論んだのだ。

「あ、ありがとう、花さん」

 同世代の男子から、花さんと呼ばれることの少ない彼女は、どうにもその呼び方は落ち着かないが、「いえいえ」と軽く流しておく。

 父に相談となると、予防注射や避妊手術の話かもしれない。あの子猫はメスだったので、近い将来考えなければならないだろう。

 電話でも済ませられることだろうが、彼のこの性格を考えると、電話は難しそうだ。

 前にシェルターに向かった時とは、違う距離。今日は、ほぼ二人並んで歩いている。

 それもまた、彼の勇気の証に違いない。

「あ、あと……」

 倉内は何か言いかけて、そこで言葉を一度止めた。

 大分言葉は出やすくなったが、まだやっぱりつっかえるのだろう。

 黙って待っていると、少し赤くなった頬をキッと強く唇で固めて、花の方へと視線を向ける。

「も、もし、迷惑でなければ……は、花さんのメールアドレスを、お、教えて……も、もらえ……ないか……な」

 強く押し出された声は、後半どんどん圧力を失って小さくなっていく。

 ああ、なるほど。

 花は、心の中で手を打った。

 そうか、と。

 こういう言葉の苦手な人は、ゆっくり考えて書けるメールの方が話しやすいに違いないと納得したのだ。

 猫の相談のために、いちいち一年の教室まで来るわけにもいかないだろう。

「はい、分かりました」

 花はポケットから携帯を取り出して、赤外線通信の画面を呼び出した。

 すると、言葉はあんなにも苦手なのに、倉内は驚くほど滑らかな指先で自分のスマホを操作して、さくさくと通信を完了させた。

「く、ら、う、ち、せ、ん、ぱ、い……っと」

 送られてきたアドレスに、自分で分かりやすい名前をつける。

 高校でようやく携帯を持たせてもらえるようになった花は、何人かの女友達と、何人かの犬猫の飼い主と家族の分しか、まだアドレス帳には入っていない。

 同じ学校の男子生徒は、倉内が初めてだと、改めて気がついた。

 それに花は、居心地悪く、でもへらっと笑ってしまう。

 同じように、へへっと隣から聞こえて、驚いて顔を上げると、倉内が赤い顔で嬉しそうにスマホの画面を見ていた。

 彼のアドレス帳も、おそらくそう豊富でないことが伺えるので、嬉しいのだろう。

 これを期に、対人恐怖症が少しは治るといいな。

 そんなことを思って歩いている内に、気がつけば花は自宅へと帰り着いた。

 あっと。

 病院の脇の柵を開けかけて、花はそこで思い出す。

 次の瞬間。

 思わず彼を置いて、彼女は駆け出した。

 ドッグランスペースを抜けて、彼女が最初に見たのは、犬舎。

 今朝と変わりない、三匹の犬が「かまってかまって」と、彼女に向けて愛を表している。

 そこにタロがいないことに気づき、ひとまずほっとしかけるが、まだ気を抜いてはいけないと自分を律し、花は自宅へと続く裏口を開けた。

「お母さん、お母さん!」

「あら、今日はそっち? おかえり」

 花のせわしない声とは真逆の穏やかな声に、花の焦りが加速する。

「タ、タロは? 連絡来た?」

 トライアルの最終日。

 タロの運命の日。

 そんな娘の焦った顔に、母は一瞬あっけにとられた後、ぷっと笑って。

「タロは……飯島タロくんになりました」

 ピースつきで、母は高らかにそれを宣言したのだ。

 二週間、タロと暮らした家の名字が、その名の頭について、一瞬花はその意味を把握しそこねた。

 しかし、母の晴れやかな表情で、かろうじて朗報であることに気づく。

「そ、そっか、よかった」

 一瞬にして、目の内側が熱くなったのが分かって、花は思わず裏口から再び外に出て、扉を閉めた。

 母を目の前に、泣いてしまうのが恥ずかしかったのだ。

 そっか、飯島タロか。飯島さんちのタロくんか。

 さっき聞いた言葉を、噛み締めるように反芻して、花はただぎゅっと胸の奥から湧き上がってくる気持ちを抱きしめた。

 よかったよかったと繰り返す度に、目の前がにじんでいく。

 こんなに心を砕いた犬は、いなかった。そのタロが、ちゃんと幸せになれるのだと分かったら、嬉しくて、でも少しだけ寂しくて、目からこぼれそうなものを我慢出来なかった。

 そのまま、裏口前の段差に座り込んで、花はポケットから出したハンカチに顔を埋めて存分に泣いた。

 うれし涙というものは、こんなにたっぷり出るものなのかと、自分でもびっくりするほどだ。

「はぁ……」

 ぐすぐすと鼻をすすりながら、ようやく涙が落ち着いて、彼女が顔を上げた時。

 視界に、奇妙なものが映って、花の背中の毛が総立ちした。

 少し離れたところに、倉内が黙って座っていたのだ。

 一緒に来たはずなのに、タロのことで頭がいっぱいになって、すっかり彼の存在を忘れてしまっていたのだ。

「す、すびばぜん、倉内先輩」

 ハンカチでごしごしと顔を拭き、花は慌てて立ち上がった。

 そんな彼女を、倉内は心配そうに見上げている。

「こ、これはですね……う、そう、嬉し涙なんです。すごく臆病な犬がいたんですけど、今日、無事にもらわれて行ったって連絡が来て。だ、だから、あんまり嬉しくて……すみません、ほったらかしてしまって」

 きっと、とても悲しいことがあったと誤解されているに違いない。花は、必死に弁明に努めた。

 そうしたら。

 倉内は。

 嬉しそうに微笑んでくれた。

「……良かったね」

 どもらなかった一言が、優しく花の心まで届く。

 詳しいことは何も知らない彼が、ただ花の言葉を素直に信用して、そして嬉しい気持ちを少しでも分かち合おうとしてくれるのが、伝わってきたのだ。

「はい、ありがとうございます」

 花も、心の底から笑顔を浮かべた。

 涙でぐちゃぐちゃの顔で笑ったところで、見られたものじゃないだろうが、──そんなの、いまの彼女の気持ちの前では些細なことに過ぎなかった。