「よし」

 酢飯と具をそれぞれタッパーに詰め、手巻き海苔を忘れずに乗せ、花はそれらを風呂敷で包み込んだ。

 ここまでの過程の八割を、花は自分でこなした。酢飯は三杯酢の分量メモさえあれば何とかなったし、具は簡単なものを食べやすい大きさにカットするだけという手軽さだ。

 具はサーモン、ツナ、レタス、キュウリ、カニカマ、卵焼き、ウィンナー、アボカド、お弁当用のプチハンバーグ。

 見よ、この手のかからないレパートリー。花は、手巻き寿司バンザイと叫びたかった。高校生の料理スキルでも、何とかなるものだ。倉内のクレープ発言からヒントを得たが、本当に気楽に準備することが出来た。しゃもじや、おしょうゆ・マヨなどの調味料は向こうで借りられるようになっている。

 勿論、母の二割の力は大きいものがある。何より適切な助言と、見守りが本当に助かった。結果的に楽々だったが、最初はやはり戸惑いもあったのだ。

 そのお礼も兼ねて、今日の家の夕食分も余分に作っておいた。「今夜は手巻き~♪」と、母が微妙なメロディで歌いながら、晩酌用のビールを冷やしているのを見た。きっと父と二人で飲むのだろう。

 それよりも悩んだのが、服装だ。カジュアルなジーンズで行くか、送別会なのだからちょっと頑張るか。悩みに悩んで、紺色の綿の半そでワンピースにすることにした。フロントが上から下までボタンになっていて、やっぱり長さは膝が隠れる。

 自慢の足というわけでもなく、見栄えのいい体型でもないので、花としては一番おさまりのいい、言い方を変えればセンスのない無難な服装だった。

「うーん」

 支度を済ませて一階に降り、もう一度風呂敷の中身を確認している花を見て、母がひとつ唸る。

「何かこう、いまひとつパッとしないわねぇ」

 そして、自分の娘を眺めながら、ひどいことを言う。確かに、花は派手な顔でもなければ、派手な服も着ない。オシャレに興味がないわけではないが、雑誌の服装を自分が着た姿を想像すると、何故か半笑いになってしまうのだ。

「そうだ、可愛いヘアピン持ってるじゃない。ほら、お花とかついてるやつ。そういうのつけたら?」

 手を打ち鳴らして提案される言葉に、花はふむと考え込んだ。確かに、中学でヘアピンが流行った時期があり、友人たちに付き合って、花もいくらか買ったのだ。黒い髪に紺のワンピース。重たい色ばかりなので、明るい色のヘアピンでもつけるかと、彼女は一度自室へと戻った。

 右サイドに2本、ガーベラのヘアピンは白。蝶々のヘアピンは薄いピンク。花は、鏡で眺めて服との全体をチェックする。確かに、さっきまでとは随分印象が違って明るく見える。

 学校ではつけられないものだし、ずっとしまいっぱなしだったが、これからはアクセントに使おうかと、花は一度ラインナップをチェックして、ヘアピンの小箱を閉めたのだった。

 さて、これで後顧の憂いなし。

 家のチャイムがついに鳴らされ、準備万端の花は手巻き寿司職人として出陣するべく玄関へと向かった。もちろん、エリーズへのプレゼントも忘れずに持って来たが。

「こんにちは、花さん」

「こんにちは、今日はお世話になります、楓先輩」

 玄関先。個人と個人で向かい合って、お互いをちゃんと確認する挨拶を交わす。動物同士が鼻をくっつけあったり、匂いを嗅ぎ合うような大事な仕草。

 それが終わると、すぐに倉内は彼女から風呂敷を受け取ろうと手を伸ばす。倉内父と車で来てくれているようなので、安心してそれを渡す。ご飯が入っているので、結構重いのだ。プレゼントの紙袋は、重いものではないので花が持つと主張した。

「先に乗せてきていいですよ?」

 これからサンダルを履く花としては、その重いものを持ったまま待ち続けるのは大変だろうと思い、そう言葉をかける。

「い、いや、いいよ」

 けれど、倉内はそこから立ち去ろうとしない。重いものを持って待たれると、花としては急いでサンダルを履かないといけなくなるので、少し気になるのだが。

 それをうまく言葉に出来ないまま、彼女はとりあえず玄関先に座って履く作業に入った。

 そうすると、倉内の視線の下の方で、花の頭がえいしょえいしょと動くことになる。それできっと、彼の目に留まったのだろう。

「花……か、かわいいね」

「えっ?」

「そ、そのピン」

「ああ……ありがとうございます」

 一瞬だけ、勘違いした心臓が花の中で飛び跳ねたのを、彼女は一生懸命押さえつけた。彼はヘアピンの花の飾りをほめたのだ。名前が花と同じだったために、一瞬自分に向けられたかと、見事に勘違いしたのである。

 あー、恥ずかし。

 少しおぼつかない手元になったのを、何とか取り戻そうとしていた時。

「こんにちは、倉内くん。今日はよろしくね」

 花の母が、奥からやっぱり出てくる。どうしても出てこないと気がすまないだろう。

「あ、はい! こんにちはっ、花さんをお預かりします」

 折り目正しい倉内が、風呂敷を腕に抱えた状態で、きちんとお辞儀をする姿は不思議な光景だ。見た目は、さっぱり日本人っぽくないのに、いまこの瞬間、誰よりも古き美しき日本を体現しているように見えるからである。

「うんうん、どんどん預かって。この子、ほっとくとあんまり家を出ないから」

「おかーさん」

 そろそろストップと、花は母の口を止めるべく言葉を挟む。「はいはい」と、母は空気を読んで「じゃあ、気をつけてね」と引っ込んだ。

 その頃にはサンダルの準備も済み、花が立ち上がろうとすると。

 重い荷物を片腕に乗せ、もう片方の手を花に差し出す男がいる。困った紳士予備軍だ。

 花の母に挨拶したり、彼女を助けたり──そういう理由もあって、彼はここから立ち去らなかったのだろう。ありがたいことだが、紳士になる道は大変だなと花は思ったのだ。

 出来るだけ体重をかけないように彼の手を借り、ようやく玄関を出る。車には、運転手の倉内父だけでなく、二人の人が乗っている。20代くらいの男の人と女の人だ。そのため、花は後部座席、倉内が風呂敷を持って助手席に座ることとなる。

 こんにちはと、後部座席の人たちにご挨拶して花が座ると。挨拶を返した後、「わーあ、女子高生だあ」とうらやましそうに隣の席の女性が花を見る。おそらくこの人も、女子高生時代はあったはずだが、懐かしいのだろうかと花は曖昧に会釈で返す。花にしてみれば、彼女の胸の大きな盛り上がりにこそ、何ともいえないうらやましさを感じるのだが、さすがにそれは口に出さない。

「女が女子高生って言っても許されるけど、俺がそれを口に出すと犯罪者みたいな目で見られるのは、どうにかなんないかな」

「どうにもならないわ」

 奥の男性の軽口に、女性が「入ってくんな」とばかりに容赦なく戸を閉める。あははと、花は力なく笑った。

 彼らは、倉内の母方の従兄姉だという。倉内の母は末娘で、日本の従兄姉は全部倉内より年上らしい。

「従兄姉が集まると、いつも楓ちゃんはだんまりで……」

「ち、千恵ねぇ……」

 倉内の昔話をしようとする女性に、慌てた彼が助手席から振り返って止めようとする。

「あらやだ照れちゃって、楓ちゃんったら」

 そこだけわざとらしいオバサンボイスで、彼女は前からの横槍を「ほほほ」とへし折る。

 楓ちゃんかあ。

 花にしてみれば、その発言の方が気になった。昔からの親戚が集まると、いつまでも子供の頃の呼び方をされるものだ。その洗礼は、倉内であったとしても逃れられないようである。まだ、カナダの親戚の方が『ちゃん』づけはしないので、本人としてもありがたいだろう。

「いやあ、あの引っ込み思案なかーくんが、彼女を連れてくるようになるなんてなあ」

 男性側は、かーくんと来た。年上の二人が、楓をいじり回す様は珍しい光景だ。倉内の両親は、息子の対人恐怖症を見守っているように思えたが、それよりは年の近い二人には、余りそんなことは気にならないらしい。

「コウにぃ、な、な、なななな、何、いいい言ってるの!」

 倉内は更に動揺したらしい。言葉が七転八倒を始める。これは大変だと、花も加勢することにした。

「彼女じゃないですよ?」

 女性を乗り越えるために、花はちょいと身体を前に倒して、向こうの男性の方を見る。

「「え?」」

 不思議なことに、反応したのは女性もだったが。

「ええと……じゃあ、何?」

 勢いを削がれた男性が、不審な箱を開けるかのごとき、そーっとした声で問いかけてくる。そこで、花ははたと止まった。そういえば、自分と倉内の間につける名前を考えていなかった、と。

 互助関係であり、一緒にいて楽しい時間を過ごせる相手。

 そんな関係につける名前は、そうは多くない。一番適切なものを、花が掴み取ろうと脳内の蝶々を追い回していると。

「……だよ」

 ぽそりと、助手席から声が聞こえた。

「花さんは……一番大切な友達、だよ」

 ひとかけらのどもりもない、それでいて少しの切なさを含む声が、花をそう評した。

 う、うわぁぁぁぁ。

『彼女』と言われても、照れる気にもならなかった花は、倉内のその言葉に全身がカァッと燃え上がった。

 ああどうしよう、嬉しい。

 倉内楓という人間が、自分に大きく門戸を開け放っているのが、目で見えた気がしたのだ。最初の頃は開きもせず、それが少しだけ開いて、そこからこちらを伺っていて、その扉が開いて姿が見えて。

 手を伸ばしていたと思っていたら、いつの間にか逆に彼の手を借りるようになっていた最近。

 もう本当は、既に花の手は必要ないのではないかと思うほど、彼は前を向いて歩いている。そんな彼に、『一番大切な友達』と言われたのだ。彼女の手が、必要とか必要じゃないとか、そんなことはどうでもよくて。

 大切な友達だから、一緒にいたいと言われたのである。

「そ、そうです。楓先輩は大事な友達です。すごくすごく大切な!」

 この嬉しさを胸に抱いているだけでは勿体無く、そしてせっかく言葉を尽くしてくれた倉内にも伝えたくて、花は隣の二人を見ながら、嬉しさを隠さずにそう言ったのだ。

「あ、ああ、そう」

 微妙な表情の男性と。

「う、うう? うう……何かこう、ああ、私も年を取ったのかしら。現役高校生の気持ちがよく分からない」

 頭を抱える女性。

 けれど、そんな他の人の反応など、どうでもよかった。


 花はいま── 一番幸せだったのだから。