あの猫を幸せに出来る人になりたい

 夏休みの登校日。

 花が登校して席に着くと、友人が近づいて来る。

「ねえねえ、花ってさ二年の倉内先輩と知り合いだよね?」

「ああ、うん、そう」

「こないだの縁日でさ、すっごい金髪美人と一緒に腕組んで歩いてたんだって。超美男美女だったみたいで、すっごい写メ撮られまくったらしいよ」

 ほいと差し出されるスマホ画面に映る、並んでいる倉内とエリーズ。その奥に、花の浴衣の端がちらっと映っている。

 花はちょっと驚いた。はしゃぎまくるエリーズを追いかけるので一生懸命で、周囲の目など気にしてもいなかったからだ。

「その子、従妹だよ。夏休みだから遊びに来てるって」

「やっぱり! 親戚じゃないかなーって言ってたのよ。倉内先輩ってハーフだから。やっぱ美形の親戚も美形で、目の保養だよねえ」

 スマホを自分の方に向け直して、友人が見とれたようにほぉっとため息をつく。うんうんと花も頷いていた。そして、ちょっとだけ良かったと思った。

 あの二人の放つ光が強すぎて、一緒にいた花は他の人の視界に入っていなかったようなのだ。確かに金髪娘がいたら、そっちに意識が集中してしまうだろう。

 そういえば縁日の時に、倉内もデジカメで写真を撮っていたと思い出す。エリーズが来日していた記念に、どれか一枚、写真をもらえないか倉内に聞いてみようと花は思った。

 そんな登校日の朝のホームルームが始まる直前、携帯が震える。メールだった。

 確認するとその倉内からで、『この間の写真、印刷して持って来たんだけど。花さん、よかったら今日一緒に帰らない?』というもの。

 ナイスタイミング。

 花はおおと驚いて、そして喜んだ。すぐさま『ありがとうございます、靴箱のところで落ち合いましょう』と、返事を送ったらチャイムが鳴った。



 登校日は午前中で終わりなので、帰りのホームルームが終わったら、急いで花は教室を出る。あまり大勢に目撃されたいわけではない。年頃の男女が一緒に帰宅となると、いろいろ余計な噂の元になることくらいは、花だって分かっている。

 それは、向こうも同じなのだろう。最初の頃、倉内がゆっくり来るのではないかとドキドキしていたが、彼もダッシュで靴箱にやってきてくれたのだ。

 それを見た時、思わず「倉内先輩、ナイス!」と声をあげそうになった。一応我慢したが。

 そんな彼の呼び方も、いまや『楓先輩』に変わり、一緒にいるのにも随分慣れた気がする。どっちかというと、向こうが花に慣れてくれた気がするのだ。

 靴箱に駆けつけると、既に倉内は到着していて嬉しそうにこちらを見ている。

 慌てて靴を履き替え、「お待たせしました」と合流する。「ま、待ってない……大丈夫、だよ」と、最初のどもりを打ち消すように、倉内が後の言葉をゆっくりと紡ぐ。本当に素晴らしい進歩だと、花は思った。

 真昼の暑い日差しの下を、一緒に帰り始める。

 倉内に差し出された白い封筒を開けると、先日の縁日の写真が何枚も入っていた。エリーズと二人の写真、三人でふざけて、女二人で倉内の腕にくっついて撮った写真。あと、いつ撮られたか覚えていなかったが、花が一人で何を見ているのか分からないような写真まであった。本当にいつ撮られたのだろうと、少し恥ずかしくなる。

 他の人の写メの中では、空気に過ぎなかった花が、この印刷された世界では、ちゃんと彼らと同じ空間にいることがよく分かる。

 キラキラしている二人の横の、いつもは地味めな、でもこの日は浴衣で少しはマシな自分が映っているのを見ると、花は少し照れてしまった。

「ありがとうございます、写真たくさん、嬉しいです」

 お母さんに見せよう。そしてアルバムに貼ろうと考えながら、花は写真が飛んでしまわないように封筒にしまい、そして大事にカバンにしまった。

「エリーズも……本当に喜んでた。あ、あと一週間ほどで帰ってしまうから……お別れパーティをしようと思ってるんだけど、よ、よかったら……花さん……来ない?」

 夜にやる予定。父さんがちゃんと送迎してくれるから。花火とかもしようって考えてる。

 当日の予定を思い出し思い出し、倉内がひとつずつ言葉を紡いでいく。その顔が、とても一生懸命で、花は自然に嬉しくなっていた。

 従妹のために、苦手な言葉を尽くそうと頑張る倉内の姿は、とても好ましいものに見えたのだ。

「日付と時間を、後でメールしてもらえますか? それで母と相談してみますから」

「分かった」

 必ず送るという、強い意思を感じる頷き。

 だんだん、倉内楓が男らしくなってきた気がした。



 家に帰った花が、写真の封筒を母に見せた時。

「あ、これはお父さんには見せない方がいいわね」と言われた。

 倉内の左腕にエリーズが抱きつき、右腕に花が手をかけている例の写真だった。

「エリーズに目がいって、私が何してるか気づかない、とかないかな?」

 思わず、花がそう言うと。

「ないない。お父さんにとっては、花が一番。他の子を見るのは後回しよ」と笑われた。

 それはまあ、そうか。

 花も納得して、他の写真は封筒ごと置いて、問題の一枚だけ持って部屋に戻る。

 ごろんとベッドに転がって、その写真を眺める。

 自分を見たり、エリーズを見たり倉内を見たり。

 でも、気がついたら──倉内の右腕にかけている自分の手を見てしまう。

 ちょっと大胆過ぎたかなあ。


 お父さんに見せられない写真が、生まれて初めて出来てしまった花だった。



『終』
 夏休みも終わりに近づいた頃。

 倉内の従妹、エリーズの送別会に誘われることが決まった花は──悩んでいた。

 せっかくなのでカナダに帰る彼女に、何かプレゼントしようと思ったのだ。和風なものとか可愛いものとか一生懸命考えたが、花はさっぱりいい案にたどりつくことが出来ず、ついに倉内にメールで『エリーズの好きなものって何ですか?』と助けを求めたのだった。

 好きなものという、漠然とした聞き方が悪かったのだろう。倉内から詳細を希望するメールが来たので、彼女は正直にお別れに何か贈ろうと思っていることを告げる。

 しばしの時間の後。

『僕も何か贈ろうと思っていたから、一緒に買いに行く?』という返事をいただく。おおと、花はメールを見て心強い気持ちになった。倉内と花の間に、ひっそりとした互助関係が築けている気がしたのだ。

 手を貸したり貸してもらったり、学生らしいそんなささやかな関係は、花にとって心地のいいものだった。

 よろしくお願いしますとメールを送り、彼と行き先や日程を調整する。送別会の二日前に、電車で6駅ほどの繁華街に買い物に行くことが決まった。

 待ち合わせは、相変わらずの花の家。ちゃんと家まで迎えに来てくれるという、高校生男子にしては出来すぎた紳士っぷりである。花の母とも、毎回顔を合わせて挨拶をしていく。これは、母が必ず顔を出すせいだ。

「え、そんな格好でいくの?」

 倉内と出かける日の朝9時45分。支度を済ませた花が、二階から降りてくると、母がうーんとひとつ唸った。

「何かおかしい?」

 いつものTシャツにジーンズとキャップ。色こそ違え、花の毎日の服装は大体こんなカンジだ。ただし、外に行く時のTシャツは、ちゃんとよれていないものを選んでいるが。

「おかしくはないけど……お出かけなんだから、たまにはスカートにしたら? 今日は、家に行くわけじゃないんだから、スカートでもよくない?」

 微妙な顔で娘を見ながら、母がどうでもいいアドバイスをしてくる。家に行かなければスカートでいいということは、家に行く時はズボンの方がいいというのか。花には、母の理論はよく分からなかった。

「足出せるのって若い内だけなんだから、スカートが腐る前にははきなさいよ」

 お母さん、スカートは腐りません──そんな可愛げのないツッコミを、花は心の中だけで済ませた後、居間の時計を見た。

 約束の10時まで、あと15分。まだ余裕はある。

 確かに、ジーンズだと暑いし。

 花は、ふむと自分の青い両脚を見下ろした後、一度部屋に戻ったのだった。


「おは……」

 迎えが来たので花が玄関を開けると、いつもの倉内の朝の挨拶が、途中で止まった。一度視線が下に下りて、それから上がって来たのだ。

「……よう」

 そして、挨拶の続きが出てくる。

「おはようございます、楓先輩。ちょっと靴履くから待って下さいね」

 さっき靴箱から出しておいたサンダルを履くために、花は一度玄関に腰掛けた。サンダルは、ボタンで留めなければならず、立ってやるとよろける可能性があったのだ。

 せっかく久しぶりにスカートを履いたというのに、そんな無様な姿をさらすわけにはいかなかった。

 スカートと言っても、インド綿の軽いアジアン風で、丈は膝下。学校の制服より長いくらいだ。

 それに合わせるためにサンダルを出し、キャップじゃ合わなかったのでストローハットにした。スカートひとつで、小物ががらりと変わってしまうので、やっぱ面倒だなと、この時の花は思っていた。

「花さん……」

 パチンと、右側のサンダルのホルダーを留めた時、上から呼びかけられる。何ごとかと視線を上げると。

「あ、その……す、すごく、そう、花さんその服、す、す、すごく似合ってるよ」

 少し顔を赤らめた倉内に、いつも以上にどもりながらも一生懸命そう伝えられ、一瞬花は固まった。

 ほんの耳かき一杯分くらいのおしゃれをした花を、褒めなければならないという使命感でもあるのだろうか──固まりから戻ってきた花が、最初に考えたのはそれ。

 しかし、前回の浴衣の時には言われなかったことを考えると、倉内の好みは、和服よりこういうスカートなのか。安上がりでいいなとか、余計なことも考えてしまった。

 結局。

「あ、ありがとう、ございます」

 褒められたのは間違いないのだろうから、素直にお礼を言っておくことにした。

 何だか、彼をちゃんと見られなくなって、花は視線を落とすと、左足のホルダーのボタンを、出来るだけゆっくりと留めた。

 よしと、準備完了の自分を確認して、花が立ち上がろうとしたら、目の前にすっと手が差し出される。

 倉内の、花の手よりも一回り大きい手だった。

 あー、うん、さすがだよね。

 花は、何とも言えない気持ちを、一度だけ胸の内でぐるりとかき混ぜた後、その手に自分の手をかけ、立ち上がらせてもらう。

 倉内と一緒にいると、異性との些細なスキンシップが、ごくごく当たり前のように思えてくるから不思議だ。ただの日常のヒトコマに見える。

 そうして、花が立ち上がって、いざ出かけようとした時。

「あ、おはようございます」

 花の目の前に立つ倉内が、彼女の肩越しに後方に挨拶を投げたのだ。振り返ると、母が台所から顔を出して手を振っている。

 倉内が来たというのに、母が出てこないはずがないと、花は苦笑いを浮かべてしまった。

「暑いから気をつけて。水分補給も忘れずにね」

「は、はい、気をつけます。ぶ、無事、花さんは、お、お返ししますので」

 一度真面目な顔になって、倉内が母に頷きを返す。

「いやねえ、倉内くんの方を心配してるのよ。花はマイペースだから心配してないわ」

「おかーさん」

 ジョークなのか本気なのか、しょうもないことを言い出す母を花が牽制すると、「いってらっしゃい」と言葉を残して、にまにまと台所へ引っ込んで行くのだった。

 まったくもうと、母を追い払うことに成功した花が、前に向き直る。

「行こうか」と、倉内の手が、そっと彼女の背に回って軽く押し出すような動きをした。

 本当に、スキンシップ慣れしていることを実感する。この人が、完全に対人恐怖症を克服したら、学校中の女を陥落させることも可能かもしれないと、花はほんの少しだけ恐れを覚えた。しかし、おそらく女性陣の猛アタックに、倉内の神経がもたないだろうとも思った。

 これで、いいのかなあ。

 家を出ると、当然のように車道側を歩く倉内に、些細なこととは言え守られていることに気づく。花は、自分が女なんだなあと、ぼんやりと思った。当たり前なのだが、意外にこういうことを改めて感じることは少ない。

 女性が一人で歩き回っても、危険なことが少ない日本だけに、明るい時に迎えに来てもらったり送ってもらったりすることが当然という風潮はない。男性が、女性のために尽くすのが当たり前という風潮もない。

 だからと言って、倉内にそれをやめろというのは酷い話である。何が『普通』であるかというのは、本人の基準でしかないのだから。

 問題は、彼の『普通』と日本社会の間には確かに乖離があり、それが結局倉内自身に跳ね返って対人恐怖症になっているのは、皮肉なことだったが。

 バランスの難しい話に、花がうーんと唸りかけた時。

「どうしたの……花さん?」

 隣に倉内がいたのを思い出した。本人を目の前に悩むという、馬鹿なことをしていたのだ。はっと気がついて、「なんでもないです。大丈夫」と手を振った。

 そんな彼女に一度首を傾げた後、倉内が「そ、そういえば、花さんと出かけると聞いて……エリーズが、一緒に来たがって困った」と話を振ってきたので、花はそれにぷっと笑ってしまった。話が切り替わってほっとしたのもあるが、純粋にエリーズのモーレツなアタックと、倉内が本当に困っていただろう姿が、容易に想像出来ておかしかったのである。

「確かに、一緒に行くわけにはいきませんね」

 彼女への贈り物なのだから、本人に来てもらって欲しいものを選んでもらうという手もあるが、こっそりああでもないこうでもないと悩んで、当日に驚いてもらう方が花の好みだった。

「そういえば子供の頃、お父さんが私の誕生日プレゼントに悩んで、私に相談してきた時、『誕生日をもう一日後にして』って言って困らせたことがありました」

 贈り物つながりで思い出した話は、笑ったついでに自然に花の口から零れ落ちていた。

「誕生日……ど、どうかしたの?」

「子供の頃は、自分の誕生日がひやかされるから嫌いだったんです。今はもう平気ですけどね」

 にまっと笑って、花はその時の自分を笑い飛ばした。くだらないことにこだわっていた、小さな自分を、だ。

 それで話は終わりかと思っていたら、「いつ?」と倉内に食いつかれた。まあ、ここまで話したら気になるのが当然だろう。

「4月1日ですよ。4月バカの日。学年で一番年下で、誕生日の話になるといつもからかわれてました。でも、実際は春休みの真っ最中なので、当日にバカにされることはなかったです」

 春休みということは同時に、学校の友人から誕生日プレゼントを、ほとんどもらえないということでもある。当時は、夏・冬休み生まれの子とかと慰めあったりもしたが、一番不幸なクリスマス生まれの子だけは、上手に花も慰めることが出来なかった。冬休みな上に、誕生日とクリスマスのプレゼントをまとめられてしまうのだから。

「そっか……多分、は、春生まれだろうって思ってたけど、そっか、4月1日か……まだまだ遠いね」

 多分春生まれというのには、花も納得する。植物の花は、冬以外には大抵咲くが、日本人のイメージとして最初に浮かぶのが春だから。

 あ、ということだ。

「楓先輩は、秋ですか?」

 思わず、花も誕生日論争に食いついた。カナダ出身の父がいるから楓だと思っていたが、もしかしたらそれに季節もセットなのかもしれないと、思わず隣の彼を見上げる。

「あ、うん。11月5日。り、立冬の直前で……秋の一番最後」

 それは、自分の名前の由来を、親に聞いたことがあるのだろうと想像させる返答だった。自分の誕生日に、特別な名前がついていない場合、些細なことでもいいから意味づけをして一緒にしまっておくものである。

 彼の場合は暦上(こよみじょう)冬になる立冬の直前としてしまいこまれていたようだ。

「へぇぇ」と。普段は意識しない立冬の日が、こうして花の頭に焼きついたのだった。

 それから、しばらく立冬について倉内の説明を聞きながら歩くことになる。

 大抵は11月7日が立冬になるが、場合によっては8日。日本の古い暦だと、11月6日となるそうで、11月5日は、今の人が見ても昔の人が見ても「秋」として認められると、珍しく熱弁が振るわれたため、ちょっとだけおかしくなった。

 話の内容がというより、倉内の「秋」に対するこだわりが面白かったのだ。本当に、こういうことは話をしてみないと分からない、と。

 しゃべるのが苦手な人は、何も考えていないわけではない。たくさんのことを考えてはいるけれども、それを表に出すのが苦手なだけなのだ。

 こうして、倉内の口から新しい話が出てくる度に、花の中の倉内楓という人間が最新版に更新されていく。

 そんな最新版倉内と話しているうちに、あっという間に駅へとついてしまった。

 楽しい時間というのは、過ぎるのが早いとアインシュタインという偉い人も言っていたが本当だと、花は少し名残惜しく思ったのだった。

 花は、電車が余り得意ではない。

 目的地につくまで、電車に自分を合わせなければならないからだ。何分に乗って、何駅で降りて。そんなことを、常に頭のどこかに置いていないと、失敗しそうな気がして落ち着かない。

 徒歩で通える高校を選んだのも、結局のところ電車通学は『面倒』ということが大きかった。家と学校を往復し、たまに近所のスーパーへ行き、親の買出しにくっついて車でスーパーに毛の生えた程度のデパートに出かけるくらいという彼女のこれまでの外出履歴は、女子高生にしては余り花のないものだった。名前負けもいいところだ。

 前に、倉内に猫の映画に誘われた時は、日曜日だったこともあって、倉内の父が送ってくれたので、苦労することはなかったのだが。

 そんな彼女でも、自分のためではなく、人の贈り物を選ぶという理由であれば苦手な電車にも乗る。ただし、一人でだったら、絶対行こうとは考えなかっただろう。

 母が花をマイペースと言ったのは、ある意味当たっているかもしれないと、電車を前にしながら彼女は思っていた。

 動物に合わせるのは得意でも、機械に合わせるのは億劫。もし、電車に尻尾がついていて、花の方をつぶらな瞳で見つめてきたら、その考えを改めないでもなかったが。

 改札に入りかけた時、「もう来るね」と、倉内に言われて慌てて花は早足になった。ああ、やっぱりスニーカーにしておけばよかったと、早速サンダルを後悔しかけた時。

 すっと、倉内の手が伸ばされ、足元のおぼつかない彼女の手を取り、支えてくれる。

 何と自然な助けだろうと、花は感心するより他にない。こうした態度に不慣れな日本の女子高生代表としては、これを断るのはただの自意識過剰に思えるのだ。

 倉内にとっては、それが当たり前。花としては、助けになることは間違いないので、素直に受け取っておくことにする。倉内も男として助けたいと考え、花も助かる──これで断る方がおかしいのだから。

 無事電車に乗って花が一呼吸つくより前に、電車がすぐに扉を閉めて動き出した。彼女は、自分の背中に倉内の手が当てられたのが分かった。

 いや逆だ。慣性の法則で、花はほんの少しだけ背中の方に身体が傾いだのである。触れない程度に手を出していた倉内に、その背が勝手に当たっただけだ。

 恐るべし、倉内楓。

 花が、思わずそんな目で倉内を見てしまった後、慌ててそうじゃないと思い、「ありがとうございます」と言った。

 座席はほどよく埋まっており、二人掛けられる場所はない。それでも倉内は、自然に空いている場所に彼女を座らせ、目の前に立つのだ。

 帽子を取って膝に乗せ、花は座った状態で前に立つ倉内を見上げる。

 こうして見ると、倉内がとても大きく感じた。マッチョでもないし、顔の綺麗さを除けば、彼は標準より少し高い程度の身長と、やや痩せ型の体型の持ち主に過ぎない。

 それでも、女性を気遣う紳士的な態度が、花の目にフィルターでもかけているのか、前より一回り大きく見えるのだ。

 花の見上げる視線に気づいたのか、彼がはにかむように笑いかけて、失敗して、少し恥ずかしそうに横を向く。

 この辺がまだ、やはり倉内なのだが。

 そして、ようやく花はこの時に気づいた。

 あ、すっごい見られてる。

 向かいの席の女性が、隣の席の男性が、少し離れて立っている人が。みな、あからさまにガン見はしていないが、ちらちらと、しかし断続的に彼に視線を投げ続けるのである。

 黒髪ではなく、日本人的顔立ちではないハーフの彼は、いつもこうして人に見られているのだろう。

 縁日の時は、花も浴衣でエリーズを探し回っていたため、周囲に気を配るほど心に余裕がなかった。しかし、それでも知らない内に、彼の写真が撮られていた。大勢の人がいる中で、彼はとても目立ってしまうのだ。

 大変だなあ。

 慣れているのか、彼はまったく視線を気にすることなく、花の膝の上の帽子に目を落としている。ストローハットについている、小さな花飾りを見ている気がした。多分、見るものが他に余りないので、何となく視線を向けているだけだろう。

 そんな電車での移動を乗り越え、無事目的の駅に到着し、倉内の勧めで駅ビルに入っている雑貨中心のデパートへと入る。一階から五階まで、全部雑貨と言っていいその店に、花は「おお」と驚いた。最近出来た店で、地元のテレビではよく取材されていたが、実際来たのは初めてだ。

 まずは一通りざっと見てみようかと聞かれ、花はもはやただ頷くしか出来なかった。不慣れな環境に陥ると、自分が頼りなく心細い存在だと思い知る。

 そんな花に、次にすることを示してくれる人がいるのは、本当に助かることだった。ただ、人間はいつまでも不慣れではない。フロアを一つずつ上がり、面白い雑貨に埋もれていると、だんだん花の肩の力も抜けてくる。

 自然にエリーズの話も出せるようになり、二人でこれはどうだろう、いやでもと商品を前に考え込んだり、突拍子もない商品に、これはないと笑ったりする。

 新撰組を含めた幕末と、オシャレと制服とポップカルチャーが大好きなエリーズ。ここが京都なら、新撰組もどきの法被(はっぴ)でもプレゼントしたのにと言うと、「もう持ってる」と笑われた。

 可愛い雑貨はいろいろあったが、いまひとつインパクトの強いエリーズに負けている気がして、花は納得しきれず、店巡りの2周目に入る。

 そんな彼女の目に、1周目では気づかなかったものがふと入り、通り過ぎかけて足を止め、そして二度見してしまった。

「花さん?」

 怪訝に呼びかけられ、それでもすぐには倉内に反応出来ないまま、花はそれを見ていた。

 価格を見る。

 1,980円。

 花の財布事情からすると、お高い買い物だ。しかし、花はその商品の前から動けなかった。

「な、何? ああ、ああ……うん、これは……エリーズがすごく喜びそう」

 最初こそ怪訝だったものの、花が目を奪われている商品に、倉内も微妙な笑みを浮かべながら納得している。

 倉内のお墨付きが、尚更花を悩ませた。彼女は、アルバイトをしていない、家族に養われている一人の女子高生に過ぎない。毎月のお小遣いをやりくりしている立場としては、結構厳しい額だ。

 けれど、エリーズとは次にまたいつ会えるか分からない。彼女の喜ぶものを送って、ささやかな日本の思い出にしてほしかった。

「……花さん」

 随分真剣に悩んでいたのだろう。少し遠く聞こえた自分を呼ぶ声に、花はハッと視線を商品から外して彼を見る。

「ええと……これ、ぼ、僕たち二人からの、贈り物ってことに……しない?」

 倉内が、天使に見える瞬間だった。いや、見た目だけなら十分に天使とやらの素質があるのだろうが。

「あ、ありがとうございます……」

 口から出るのは、間抜けなお礼。まずは「はい」か「いいえ」からだろうと、後になって自分に突っ込みを入れたが、いまの花の脳内環境では、これが精一杯だった。

 本当は、嬉しさの余り彼の両手を握ってブンブン上下に振りたいくらいだったのだが、さすがにそれは花の中の普通には入っていない。

 二人でそれをレジに持って行き、半分ずつ支払う。綺麗にラッピングもしてもらえてほくほくだった。その荷物は、倉内が持ってくれたのは、もはや言うまでもない。

「ど、どうする? 他にも何か見る?」

 時計を見ると、もう正午直前だった。反射的に、花は首を横に振っていた。最高の贈り物が選べて満足していたし、正直疲れてもいた。

「じゃあ……ご飯でも食べようか、花さん」

「安い店なら……」

 ご飯と言われ、花は空腹に気づいた。現金な胃袋だ。

「ファストフードでいい?」と言われ、コクコクと頷く。地元にも勿論あるので、気を遣わなくていい分助かると、花は思った。

 混雑し始めた店内で、適当にハンバーガーと飲み物を決めて席に座る。倉内は、それにポテトもつけていた。

 ようやく席に座って、花は安堵の吐息を落とす。

 地元の店の、三倍の客がいるのだ。気楽でいいだろうと思っていたが、そこまでではなかった。

「花さん……疲れた?」

 口には出さなかったその言葉は、倉内に捕まえられてしまう。苦笑いしながら「少し」と答える。

「人混み、苦手?」

「多分そうです……人は好きなんですど」

 人は好きだし、犬も猫も好きだ。けれど、たとえば犬が100匹いる中に放り込まれたら、きっと花は疲れてしまう。人でもやっぱりそうなのだ。

 犬の個、猫の個、人の個が好きな彼女としては、一匹、一人とじっくり向き合える環境の方が落ち着く。

「僕は逆……だったよ」

 コーラのカップを持ったまま、ぽつりと倉内が呟いた。えっと、花は顔を上げた。

「ひ、人混みだと……僕はただ、見られるだけだから。それなら、いい……んだけど、向こうが一人になると、うん、色々言われるし……」

 彼のとつとつとした言葉は、花を納得させた。ああそうか、と。

 電車の中での彼を思い出したのだ。みなチラチラとは見るが、遠巻きだった。そしてもう一つ思い出したのが、彼との出会いだ。体育館裏で、女生徒に言い寄られていただろう場面。前者が人混みで、後者が一人を相手にした時というわけだ。

 そんな彼が、こうして花と一緒に行動するのは、彼女が倉内に突撃していかないからだろう。突撃とは、女性の一部が持っている病気のようなものではないかと、花は考える。可愛い犬や猫を見つけると、突撃する女性たちがいるように。

 花は、突撃するほど好きなものがない。いや、突撃という因子そのものが彼女の中にないだけなのかもしれないが、どっちにせよ、好きで好きでしょうがないものがない。

 どちらかというとタロの時のように、長い時間をかけて育てたものに、気づかない内に執着している性質なのだろう。だからこそ、タロがもらわれていく時に、嬉しさと寂しさでぐちゃぐちゃになってしまったのだから。

「私も、色々言うかもしれませんよ?」

 ふと、花は思った。彼女がこれまで突撃しなかったことで、倉内が花のことを好ましく思っているというのなら、これからもし突撃するようなことがあったら、彼は離れていくのだろうか、と。

 そうしたら。

 そうしたら、だ。

 倉内が恥ずかしそうに笑って、彼女の目を見つめかけて、でもやっぱり出来なくて視線をそらしてこう言ったのだ。

「い、いいよ……花さんなら」

 どこか嬉しそうだ。

 もはや、花程度の突撃なら受け流せると思っているのだろう。

 ちょっと悔しい。

 ストローにオレンジの液体を上らせながら、花は少しばかりやるせない気持ちになった。

 どうやら倉内にも──花の中に突撃因子がないことは、バレているようだった。

 ファストフード店で、ゆっくり話をして休んだ後、二人で帰りの電車に乗るべく改札へ向かった。

 またも、乗りたい電車がホームにいるようだ。しかし、今度は倉内は何も言わずに、ゆっくりと歩いた。

 あ、と花が心当たりに気づいて、少し恥ずかしくなる。

 食事後の会話の中で、電車の話もしていたのだ。花が人混みが苦手なことを聞いた倉内が、「花さんでも苦手なものがあるんだね」と、とんでもないことを言い出したので、思わず苦手なものを羅列してしまったのだ。

 化学、数学、電車、アリ、ナメクジ、蚊──その他、思いつくものを色々あげた。

 何でと理由を聞かれて、ひとつずつ仲良く出来ない理由を話した。

 化学や数学は、筋道をたてて正しい道順を辿らなければ答えにたどりつけないので、しょっちゅう道を見失って迷子になるから、と。難しい問題を前にすると、すぐに森の中で一人ぼっちになってしまうタイプだった。見当外れの方向に、さまよい続けてしまうのだ。

 アリとナメクジは、よく犬の餌入れにたかられて苦労したせい。蚊は、フィラリアという病気を連れてくる、など。

 そんな話の中で、電車についても説明したので、『きっちりかっちりしたもの』が苦手だと、倉内も十分分かっただろう。

 花の話が、倉内の行動を変えたのだと、歩いてホームへ向かう倉内を見て、花は気づいてしまった。何だかんだ言って、気を遣われているなあと。

 ちなみに、倉内の苦手なものを聞いたら、「複雑だし多すぎて答えられない」と言われて、ちょっと笑ったのだ。

 多すぎることではなく、『複雑』という言葉が引っかかって、少し突っ込んで聞くと。

「雨に濡れた冬服の匂いとか」と言われて納得した。確かに単純ではない、と。

 その他、「縦に裂かないと開かない菓子の袋」「ホッケーのゲームで、パワープレイなのに点数を入れられない時」と続き、そこからはアイスホッケーの話になったので、苦手話は終わったのだ。

 要するに、倉内の苦手というのは、非常にファジィなものであることが分かった。やっぱりこういうことも、個人として話してみないと決して分からないことだ。

 そして倉内もまた、花の苦手な電車のことを理解し、彼女のことを考えて急ごうとはしなくなった。彼女としては非常に助かるが、自分もまた倉内にちゃんと個として尊重されていると理解すると、胸の中がこそばゆくなる。

 手を貸してもらったり、自然に支えてもらったりというのは、彼が誰にでも自然にすることだと思っていた。けれど、今こうしてゆっくり歩いていることは、それではないのだ。

 えへへと、花は自分でも気づかない内に笑ってしまった。

「ど、どうしたの、花さん?」

 その笑い声が聞こえてしまったらしい倉内に問いかけられるが、花はへらっと笑ったまま「何でもないです」と答えていた。


 電車が行ってしまった直後のホームは、がらんとしている、待合の席も空いていて、二人でのんびり座って待つことにした。

 うん、と花は思った。次の電車が来るまで、少し空いてはいるが、後は帰るだけだ。その間、こういう何もない時間というものは、彼女は苦手ではなかった。

「エリーズ、喜んでくれるでしょうか」

 倉内の持つ紙袋を見て花が呟くと、「僕が、保証する」と返された。彼女の従兄である倉内のお墨付きに、花はにまっと笑った。

 こうなると、待ち遠しいのが明後日の送別会だ。花は母と一緒に、何か料理を作って持って行こうと思っていると話すと、倉内は自分の母が作りそうな料理を挙げてくれた。かぶらないように、だ。

「何を作るか決まったら、メールしますね」

 何がいいかなあと母と悩んでいたので、ありがたい助言だった。参考にして、明日までに料理を決めようと思った。とはいうものの、花も料理は得意というわけではないので、母の助手をして頑張るだけだったが。

「う、うん……楽しみにしてる」

 倉内もまた、よその家の料理に興味があるのか楽しそうだ。確かに、家庭料理というものはその家の独特の「家風」が出る。花は、倉内の家で夏カレーをご馳走になったことがあるが、逆はまだだった。

「が、頑張ります」

 言葉とは裏腹に、余り期待されても困るなと思いながらも、心だけは込めるので許して下さいと、こっそり呟く花だった。

 そしてまた、待ち時間も過ぎていく。気がついたら、ホームには人が増えていて、まもなく電車が来るというアナウンスが流れ始める。

 数学の授業の、何倍のスピードで時間が流れている気がした。アインシュタイン先生も残酷だと、くだらないことを考えながら花は、先に立ち上がった倉内の手に自然に手をかけて立ち上がったのだった。



「この贈り物、花さんに……預けてて、いいかな?」

 花の家への帰り道。

 紙袋を軽く持ち上げて、倉内が言った。

「いいですけど、どうしてですか?」

 倉内の家にあった方が、当日忘れる可能性もないので安心だと花は思っていたのだ。

「ええと、エリーズが、勝手に部屋を漁る時があって、あと……フルールが」

「分かりました、預かります」

 倉内が言わんすることに気づき、花も全力で同意することにした。家の中には、エリーズとフルールという二匹の猫がいるので、明後日まで安全に置いておくのに不安があると言いたいのだ。

 猫は紙袋に入りたがるし、贈り物を受け取る本人に先に見つけられては意味がない。花は、明後日まで丁重に贈り物を預かることに決めた。

「あ、明後日も、ちゃんと迎えに来るから」

「分かりました、お願いします」

 倉内が来てくれれば、せっかく買ったものも忘れることはないだろうと、花も安心する。

 贈り物の袋を眺め、母と料理を考えて──明後日までは、花の頭の中はエリーズを含めた倉内家のことでいっぱいになるだろう。

 犬と猫は、そんな彼女の脳内のことは知ったことではないので、いつも通り世話をする。今日も帰ったら、このスカートをはきかえなければならない。可愛い犬の足跡を、つけるわけにはいかないからだ。

「花さんは……な、何か食べたいものない? 母さんに言っとくよ」

「大体何でも大丈夫です。でも、何かおすすめがあれば……」

 自分の家で普段食べられないようなものには、花も興味がある。難しいことを言っては相手も困るだろうから、花は逆に倉内のオススメを聞き出そうとした。

「え? あ、うん……好きなものを挟めるクレープとか、いいかも。苦手なもの、食べなくていいし」

 聞き返されたことに一瞬戸惑った倉内だったが、その返事は花を「おお」と感嘆させるものだった。苦手なものの多い倉内でさえ、それをこっそり避けられるという素晴らしい仕様だったのだ。

「手巻き寿司みたいなものですね……あ、それいいかも」

 日本のものにたとえようとして、花はぱんと手を打った。海苔と酢飯があればあとは何の具でもいいのだ。エリーズが苦手なものは避けられるし、他の人もそうだろう。

「日加巻物対決、なんてどうでしょう?」

 別に対決でも何でもないのだが、クレープVS手巻き寿司というのは、何だか微笑ましくて花も笑ってしまった。クレープがカナダで発明されたお菓子ではないことは知っているが、そんなことはご愛嬌だ。

 何を挟むかと、わいわいみんなで顔を付き合わせるのも、きっと楽しいに違いない。

「た、対決……母さんに言っおくよ」

 花が珍しく熱心に語ったことがおかしかったのだろう。倉内は少し笑った後、そう言った。

「あ、対決は言っちゃ駄目ですよ。別に張り合おうとか、そういうんじゃなくて……」

 倉内が、本当にそのまま彼の母に言ってしまいそうで、花は慌てた。「受けて立つわよ、来なさい小娘」と、目から光を放ちながら待ち受けられるのは勘弁だったのだ。

「う、うん、大丈夫……」

 そんな花に、ますますおかしそうに倉内が目を細める。

「本当の本当ですよ」

 おかしさの余りに笑い話として言ってしまうんじゃないかと、いまひとつ信用できずに、花はもう一度念を押した。

「わ、分かった……大丈夫、秘密にするよ」

 困った風な笑いに変えた倉内に、ようやくほっとする花だった。



 そしてまた。

 アインシュタインは、時間の終わりを告げるのだ。気がついたら、もう花の家の前。

 倉内からしっかりとプレゼントの紙袋を預かって、花は彼と別れの挨拶をするのだ。

「今日は楽しかったです」

 疲れることは確かにあったが、倉内が一緒にいてくれたおかげで、良いプレゼントを買うことが出来たし、本当に楽しかった。

「あ、うん……僕も、楽しかった。ありがとう、花さん」

 そんな彼女に少し照れながらも、彼はいつも通りの別れの挨拶を告げる。

『花さん』という言葉に、個への尊重を再び感じたのは、きっと帰りの改札の記憶だろう。

 だから花も。

「こちらこそ、ありがとうございました、楓先輩」

 そう、返してみた。

 倉内楓という、ファジィな苦手なものを数多く持つ男に対し、花もまた個の尊敬を表したのだ。

 少しだけ、倉内が固まったように見えて、でも嬉しそうにへへと笑って──そして、楽しいままに別れの挨拶の後、彼は帰って行ったのだった。



 母と手巻き寿司を相談をした夜。

 花は、日課である倉内のブログをチェックする。

『外出から帰ったら、フルールがすねていた。昨日から、ちゃんと出かけるからねと何度も言っていたにも関わらず、やっぱりすねている。明後日の従妹の送別会はうちでやるから、フルールもすねたりはしないだろう。フルールは、彼女のことが気に入っているし、きっと喜ぶだろう。父さんにカメラ借りなきゃ。フルールが、ベッドに寝転がったら胸の上に乗っかってくる。ああ可愛いかった。駄目だ。まだ混乱してるみたいだ。いろいろ嬉しくておかしい。早く大人になりたくなった』

 倉内を混乱させる何かがあったようだが、フルールとの愛の不動っぷりだけはよく花にも伝わってきたのだった。


『終』
「よし」

 酢飯と具をそれぞれタッパーに詰め、手巻き海苔を忘れずに乗せ、花はそれらを風呂敷で包み込んだ。

 ここまでの過程の八割を、花は自分でこなした。酢飯は三杯酢の分量メモさえあれば何とかなったし、具は簡単なものを食べやすい大きさにカットするだけという手軽さだ。

 具はサーモン、ツナ、レタス、キュウリ、カニカマ、卵焼き、ウィンナー、アボカド、お弁当用のプチハンバーグ。

 見よ、この手のかからないレパートリー。花は、手巻き寿司バンザイと叫びたかった。高校生の料理スキルでも、何とかなるものだ。倉内のクレープ発言からヒントを得たが、本当に気楽に準備することが出来た。しゃもじや、おしょうゆ・マヨなどの調味料は向こうで借りられるようになっている。

 勿論、母の二割の力は大きいものがある。何より適切な助言と、見守りが本当に助かった。結果的に楽々だったが、最初はやはり戸惑いもあったのだ。

 そのお礼も兼ねて、今日の家の夕食分も余分に作っておいた。「今夜は手巻き~♪」と、母が微妙なメロディで歌いながら、晩酌用のビールを冷やしているのを見た。きっと父と二人で飲むのだろう。

 それよりも悩んだのが、服装だ。カジュアルなジーンズで行くか、送別会なのだからちょっと頑張るか。悩みに悩んで、紺色の綿の半そでワンピースにすることにした。フロントが上から下までボタンになっていて、やっぱり長さは膝が隠れる。

 自慢の足というわけでもなく、見栄えのいい体型でもないので、花としては一番おさまりのいい、言い方を変えればセンスのない無難な服装だった。

「うーん」

 支度を済ませて一階に降り、もう一度風呂敷の中身を確認している花を見て、母がひとつ唸る。

「何かこう、いまひとつパッとしないわねぇ」

 そして、自分の娘を眺めながら、ひどいことを言う。確かに、花は派手な顔でもなければ、派手な服も着ない。オシャレに興味がないわけではないが、雑誌の服装を自分が着た姿を想像すると、何故か半笑いになってしまうのだ。

「そうだ、可愛いヘアピン持ってるじゃない。ほら、お花とかついてるやつ。そういうのつけたら?」

 手を打ち鳴らして提案される言葉に、花はふむと考え込んだ。確かに、中学でヘアピンが流行った時期があり、友人たちに付き合って、花もいくらか買ったのだ。黒い髪に紺のワンピース。重たい色ばかりなので、明るい色のヘアピンでもつけるかと、彼女は一度自室へと戻った。

 右サイドに2本、ガーベラのヘアピンは白。蝶々のヘアピンは薄いピンク。花は、鏡で眺めて服との全体をチェックする。確かに、さっきまでとは随分印象が違って明るく見える。

 学校ではつけられないものだし、ずっとしまいっぱなしだったが、これからはアクセントに使おうかと、花は一度ラインナップをチェックして、ヘアピンの小箱を閉めたのだった。

 さて、これで後顧の憂いなし。

 家のチャイムがついに鳴らされ、準備万端の花は手巻き寿司職人として出陣するべく玄関へと向かった。もちろん、エリーズへのプレゼントも忘れずに持って来たが。

「こんにちは、花さん」

「こんにちは、今日はお世話になります、楓先輩」

 玄関先。個人と個人で向かい合って、お互いをちゃんと確認する挨拶を交わす。動物同士が鼻をくっつけあったり、匂いを嗅ぎ合うような大事な仕草。

 それが終わると、すぐに倉内は彼女から風呂敷を受け取ろうと手を伸ばす。倉内父と車で来てくれているようなので、安心してそれを渡す。ご飯が入っているので、結構重いのだ。プレゼントの紙袋は、重いものではないので花が持つと主張した。

「先に乗せてきていいですよ?」

 これからサンダルを履く花としては、その重いものを持ったまま待ち続けるのは大変だろうと思い、そう言葉をかける。

「い、いや、いいよ」

 けれど、倉内はそこから立ち去ろうとしない。重いものを持って待たれると、花としては急いでサンダルを履かないといけなくなるので、少し気になるのだが。

 それをうまく言葉に出来ないまま、彼女はとりあえず玄関先に座って履く作業に入った。

 そうすると、倉内の視線の下の方で、花の頭がえいしょえいしょと動くことになる。それできっと、彼の目に留まったのだろう。

「花……か、かわいいね」

「えっ?」

「そ、そのピン」

「ああ……ありがとうございます」

 一瞬だけ、勘違いした心臓が花の中で飛び跳ねたのを、彼女は一生懸命押さえつけた。彼はヘアピンの花の飾りをほめたのだ。名前が花と同じだったために、一瞬自分に向けられたかと、見事に勘違いしたのである。

 あー、恥ずかし。

 少しおぼつかない手元になったのを、何とか取り戻そうとしていた時。

「こんにちは、倉内くん。今日はよろしくね」

 花の母が、奥からやっぱり出てくる。どうしても出てこないと気がすまないだろう。

「あ、はい! こんにちはっ、花さんをお預かりします」

 折り目正しい倉内が、風呂敷を腕に抱えた状態で、きちんとお辞儀をする姿は不思議な光景だ。見た目は、さっぱり日本人っぽくないのに、いまこの瞬間、誰よりも古き美しき日本を体現しているように見えるからである。

「うんうん、どんどん預かって。この子、ほっとくとあんまり家を出ないから」

「おかーさん」

 そろそろストップと、花は母の口を止めるべく言葉を挟む。「はいはい」と、母は空気を読んで「じゃあ、気をつけてね」と引っ込んだ。

 その頃にはサンダルの準備も済み、花が立ち上がろうとすると。

 重い荷物を片腕に乗せ、もう片方の手を花に差し出す男がいる。困った紳士予備軍だ。

 花の母に挨拶したり、彼女を助けたり──そういう理由もあって、彼はここから立ち去らなかったのだろう。ありがたいことだが、紳士になる道は大変だなと花は思ったのだ。

 出来るだけ体重をかけないように彼の手を借り、ようやく玄関を出る。車には、運転手の倉内父だけでなく、二人の人が乗っている。20代くらいの男の人と女の人だ。そのため、花は後部座席、倉内が風呂敷を持って助手席に座ることとなる。

 こんにちはと、後部座席の人たちにご挨拶して花が座ると。挨拶を返した後、「わーあ、女子高生だあ」とうらやましそうに隣の席の女性が花を見る。おそらくこの人も、女子高生時代はあったはずだが、懐かしいのだろうかと花は曖昧に会釈で返す。花にしてみれば、彼女の胸の大きな盛り上がりにこそ、何ともいえないうらやましさを感じるのだが、さすがにそれは口に出さない。

「女が女子高生って言っても許されるけど、俺がそれを口に出すと犯罪者みたいな目で見られるのは、どうにかなんないかな」

「どうにもならないわ」

 奥の男性の軽口に、女性が「入ってくんな」とばかりに容赦なく戸を閉める。あははと、花は力なく笑った。

 彼らは、倉内の母方の従兄姉だという。倉内の母は末娘で、日本の従兄姉は全部倉内より年上らしい。

「従兄姉が集まると、いつも楓ちゃんはだんまりで……」

「ち、千恵ねぇ……」

 倉内の昔話をしようとする女性に、慌てた彼が助手席から振り返って止めようとする。

「あらやだ照れちゃって、楓ちゃんったら」

 そこだけわざとらしいオバサンボイスで、彼女は前からの横槍を「ほほほ」とへし折る。

 楓ちゃんかあ。

 花にしてみれば、その発言の方が気になった。昔からの親戚が集まると、いつまでも子供の頃の呼び方をされるものだ。その洗礼は、倉内であったとしても逃れられないようである。まだ、カナダの親戚の方が『ちゃん』づけはしないので、本人としてもありがたいだろう。

「いやあ、あの引っ込み思案なかーくんが、彼女を連れてくるようになるなんてなあ」

 男性側は、かーくんと来た。年上の二人が、楓をいじり回す様は珍しい光景だ。倉内の両親は、息子の対人恐怖症を見守っているように思えたが、それよりは年の近い二人には、余りそんなことは気にならないらしい。

「コウにぃ、な、な、なななな、何、いいい言ってるの!」

 倉内は更に動揺したらしい。言葉が七転八倒を始める。これは大変だと、花も加勢することにした。

「彼女じゃないですよ?」

 女性を乗り越えるために、花はちょいと身体を前に倒して、向こうの男性の方を見る。

「「え?」」

 不思議なことに、反応したのは女性もだったが。

「ええと……じゃあ、何?」

 勢いを削がれた男性が、不審な箱を開けるかのごとき、そーっとした声で問いかけてくる。そこで、花ははたと止まった。そういえば、自分と倉内の間につける名前を考えていなかった、と。

 互助関係であり、一緒にいて楽しい時間を過ごせる相手。

 そんな関係につける名前は、そうは多くない。一番適切なものを、花が掴み取ろうと脳内の蝶々を追い回していると。

「……だよ」

 ぽそりと、助手席から声が聞こえた。

「花さんは……一番大切な友達、だよ」

 ひとかけらのどもりもない、それでいて少しの切なさを含む声が、花をそう評した。

 う、うわぁぁぁぁ。

『彼女』と言われても、照れる気にもならなかった花は、倉内のその言葉に全身がカァッと燃え上がった。

 ああどうしよう、嬉しい。

 倉内楓という人間が、自分に大きく門戸を開け放っているのが、目で見えた気がしたのだ。最初の頃は開きもせず、それが少しだけ開いて、そこからこちらを伺っていて、その扉が開いて姿が見えて。

 手を伸ばしていたと思っていたら、いつの間にか逆に彼の手を借りるようになっていた最近。

 もう本当は、既に花の手は必要ないのではないかと思うほど、彼は前を向いて歩いている。そんな彼に、『一番大切な友達』と言われたのだ。彼女の手が、必要とか必要じゃないとか、そんなことはどうでもよくて。

 大切な友達だから、一緒にいたいと言われたのである。

「そ、そうです。楓先輩は大事な友達です。すごくすごく大切な!」

 この嬉しさを胸に抱いているだけでは勿体無く、そしてせっかく言葉を尽くしてくれた倉内にも伝えたくて、花は隣の二人を見ながら、嬉しさを隠さずにそう言ったのだ。

「あ、ああ、そう」

 微妙な表情の男性と。

「う、うう? うう……何かこう、ああ、私も年を取ったのかしら。現役高校生の気持ちがよく分からない」

 頭を抱える女性。

 けれど、そんな他の人の反応など、どうでもよかった。


 花はいま── 一番幸せだったのだから。

「サイトー!」

 倉内家に到着すると、花はお気に入りらしい半袖のセーラー服を着たエリーズに抱きつかれる。可愛いのだけれど、アンバランスに感じるのは、エリーズの発育が良すぎるせいだろうかと、花は真面目に考え込んでしまった。

「今日は、お招き頂きありがとうございます」

「オネマキ?」

「おまねき」

 そんな会話を鼻面をつき合わせてした後、先に上がった倉内が荷物を置いて戻ってきて、エリーズの腕をつかんで花から引きはがす。

 すでに倉内のもう片方の腕には、フルールが収まっていた。さすがは倉内の愛妻、抜かりのないスピードと位置取りである。

「チーエ! コーウ!」

 そんな彼の腕から、両腕を水をかくようにして逃れたエリーズが、今度は花の後ろにいる倉内の従兄姉に襲い掛かっていく。

「やあやあ、エリーズ、目の保養ありがとう!」

「ホヨー?」

「うん、やっぱり犯罪者だ」

「ひっで!」

 エリーズを挟んで漫才を繰り広げる二人を横目に、倉内が花を奥へと呼ぶ。そうだと、花は自分の使命を思い出した。今日の彼女は、手巻き寿司職人なのだ。

 とりあえず、まだエリーズに渡していないプレゼントの袋を、倉内に託して彼女は台所へと顔を出した。

「あら、花さんいらっしゃい」

「お邪魔します……わぁ」

 中にいる倉内母も、張り切ったのだろう。そこには、たっぷり詰まれたクレープの皿があった。手巻き寿司と違い、ジャムやクリーム、フルーツにメープルシロップ、チョコレートシロップと甘いラインナップが揃っていた。もちろん、ツナなんかもありはしたが。

「花さんが手巻き寿司だって聞いたから、甘い方がかぶらないかなって思って」

「ありがとうございます」

 デザートモードで待ち構えられていて、花は対決にならずに済むようでほっとした。勿論、あのセリフのことを倉内が、母に言ったりしないだろうことは信じていたが。

「庭の方でバーベキューの用意も出来てるから、そっちに持っていきましょうか」

 結構、大がかりなパーティになるようで、倉内の父は、花たちを下ろすと、また別の人を迎えに車で行ってしまったのだ。こくこくと頷いて、花は風呂敷を抱えて庭へと降りた。

 既に、花のサンダルが庭へと移動していたのに気づいて、恥ずかしくなる。おそらく、倉内が運んでくれたのだろう。知ってたら自分で運んだのにと。

 そうこう準備をしている内に、倉内家に人がだんだん増えてくる。たいていが大人だったが、二人ほど小さい子が混じっていた。ちびっこたちが、クレープの山の前に張り付いて動かない様を見ると、さすが「おクレープ様の力だ」と、花もその威力に納得してしまう。

 送迎が終わったのか、倉内父も戻ってきて、妻と「そろそろ始めようか」的なアイコンタクトを交わしている。にこにこの倉内母が、あちこち飛び回っていたセーラー服のエリーズを捕まえて、庭の奥に立つ倉内父のそばへと連れて行く。

 花は、家に近い側でそんな様子を見ていた。いつの間にか、倉内が隣に立っていた。手にはフルールと紙袋。いつもと違う様子に、白い猫は落ち着かなくキョロキョロしていた。それを彼は、長い指でなだめながら落ち着かせている。

「みなさん、今日はエリーズのためにお集まりいただきありがとうございます。いよいよ明日、彼女もカナダに帰ることになりました。日本中飛び回っている兄のジャックもここにいる予定でしたが、まだたどり着いておりません。料理のあるうちにたどりつければ、彼にとって最高でしょうが、遠慮はいりません。早く来なかった自分を後悔させてやる勢いで食べて下さいね」

 ネイティブ顔負けのしゃべりの後、最後にウィンク。この辺が、やはり生まれつきの日本人とは違うところかと、花は感心した。庭には小さな笑いが生まれた。そんな倉内父に前に出され、エリーズが頬を赤らめて興奮した様子で挨拶を始める。

「コンバンワー。エリーズデス。今日ハ、オマネキアリガトウゴザイマス」

 軽妙な言葉に、一瞬あっけにとられた客が、どっと笑う。ああああと、花は自分が言った言葉を、彼女が鵜呑みにしたことを知った。ネマキは卒業していたが。

「オウ……オネマキ?」

 周囲の笑いを、言い間違いのせいかと思ったのか、わざわざエリーズが言い直す。更にどっとウケている。やっぱり卒業しきっていなかったと、花は半笑いになった。

「日本、タノシカッタデース。マタ来マス。桜見タイ、秋葉行キタイ!」

「桜と秋葉を一緒にすんなー」

 熱意溢れる、それでも少しのすちゃらかを外さない彼女に、外野から野次が飛ぶ。見たら、コウと呼ばれた男の人だった。

 そんな風にわいわいとした挨拶が終わると、食事と歓談タイムである。花は、手巻き職人になろうとしたが、その腕を倉内に止められる。

「花さん、これ」

 彼が、フルールを抱いていても離さないでずっと持っていてくれた紙袋だ。いま渡すのがいいんじゃないかなと言うアピールに、すっかり忘れていた花はこくこくと頷いた。

「一緒に行きましょう」

 プレゼントは、半分ずつお金を出し合って買ったのだ。代表して花が渡すのはいいが、倉内にも一緒に来て欲しかった。紙袋を花に渡して、やっと両手でフルールの相手が出来るようになった倉内が、一瞬その白い身体に触れる手を止める。

「……うん」

 少しの間の後、頷く彼を見て満足した花は、颯爽とエリーズに突撃した。

「エリーズ、これ……私と楓先輩からプレゼント。日本に来た記念に……」

 渡そうと彼女に差し出した時、ようやく花は自分の心臓がドキドキし始めたのに気づいた。ついさっきまで忘れていたくせに、今頃になってこれをエリーズが喜んでくれるかどうかという少しの不安と、どういう反応が来るだろうという大きな期待が入り乱れたのだ。

「オウ! アリガトー!」

 両手を振り上げた彼女に、まずは紙袋ごと抱きつかれる。それからエリーズは紙袋を受け取り、中から更に包装された長いものを出す。

「オゥ?」

 それが何であるか分からないようで、エリーズは首をかしげた後、リボンを解いた。

 中から出てきたのは、日本刀──ではなく、傘。

 見た目は、どう見ても日本刀の形をした、中身は黒い傘である。傘の柄(え)の部分が、ちゃんと刀の柄(つか)のような装飾で本物そっくりだ。

 一瞬ぽかんとしていたエリーズに、倉内が「それ、傘だから」と傘を広げるしぐさをした途端。

「○×△!」

 エリーズは謎言語をがなりたて始め、それを右に左に上に下にとぐるぐる回した後、実際に広げてみて悲鳴をあげ、再び閉ざして袋に戻し、本当の刀のように背中に背負って、脇に持ってきて、更に絶叫した。

 そんなエリーズのおかしな様子に、周囲にギャラリーが出来てしまうほど。「傘だって」「へぇ」「あ、ネットで見たことある」などなど、話題の中心から出られないまま、花はだんだん恥ずかしくなってきた。

「アリガトー、サイトー、カエデ!」

 一通り叫び終えたら、ハートマークを撒き散らしながらエリーズが二人に飛んでくる。花に抱きついて、頬にチュウ。倉内に抱きついて頬にチュウ、しようとしたら驚いたフルールに、前足パンチを食らっていた。

 宝物だの自慢だの、楽しい単語を並べながら他の人に見せて回るエリーズを見て、花はほっとしたし嬉しかった。悩んだ甲斐があった。がんばって買った甲斐もあった。報われる気持ちが、とても幸せだったのだ。

 そんな自分を、じっと見ている視線に気づき、隣を見る。倉内も嬉しかったのか、笑って花を見ていた。視線がぶつかると、少しだけ踏みとどまった後に、しかし横に逃げてしまったが。

「さあ、手巻き寿司、振る舞いますよ。楓先輩も、フルールを置いてきたらどうですか? 持ってるものを食べたがりますよ」

 嬉しさに回りだしたい浮かれ気分で、花は倉内にそう現実を突きつける。うっと彼が声に詰まり、胸に抱いているフルールを見つめる姿に、またふふっと笑ってしまう。

 彼が愛妻との別れに葛藤している間に、花の手巻き寿司屋は開店した。焼き始められた肉を片手にやってくる人に、希望の具で作ってあげたり、自分で巻く人のお手伝いをしたり。

 エリーズがお肉の串を持ってきてくれたので、ありがたくかぶりついたりしていると、両手を空けた倉内が戻ってくる。

「はい、楓先輩。好きなの巻いて下さい」

 フルールがいないと、少しばかり寂しそうに見える彼を追いたて、花は具の紹介をする。

「花さんも、き、気にせず食べてよ。お客様だし」

 お客様と言われて、居心地が悪くなって花は苦笑いをした。何となく今日は、手巻き寿司職人だってずっと思い込んでいたことがこびりついていて、すぐに剥がれなかったせいだろう。

「じゃあ、楓先輩が作ったら私も食べます」

 目の前の男を出汁にして、こびりついたものをへっぱがそうと考えた花に、へへへと倉内が笑う。

 レタスとツナとシャケとマヨネーズ。倉内が、割とオーソドックスな手巻き寿司を作るのを見た後、花も卵とアボカド、プチハンバーグを巻く。我ながら、なかなか面白いチョイスだと思った。

 そんなお寿司を持って、ジュースをもらって長椅子に座る。パリパリの海苔とそれに包まれた中身にかぶりつき、花は口の中で混じる三種の具を噛み締めた。

 おいしいけれど、普段食べなれない組み合わせの食感に、自分で笑ってしまいそうになる。アボカドが特に浮いている気がした。

 隣の倉内も、もぐもぐと口を動かしている。唇に、マヨネーズがついていた。ついじっと見てしまったら、何かついてると分かったのだろう。ぺろりと舐め取られてしまった。

「お、おいしいよ、花さん」

「たいした料理じゃありませんけど、はは……でも、ありがとうございます、楓先輩」

 ほぼ失敗しない料理ではあるが、それでも良い評価は嬉しい。ちらりと手巻きのテーブルを見ると、エリーズが千恵さんとキャアキャアと珍しい寿司作りにチャレンジしていた。

 そのチーズはどこから出たの、と謎の食材の追加に目が離せない。途中でエリーズがクレープのテーブルに消えたので、あそこかと理解した。戻ってきたエリーズの手にはジャムの瓶──もはや、花は生暖かく見守るしか出来なかった。

 そんな時。

 倉内と花の顔の間に、後ろから白く長いものがにゅうっと伸びてきた。人の腕だ。

「……!」

 突然の出来事に、声も出せないまま花が飛びのくと。

「たっだイまー!」

 豪快な笑いと軽い声が投げられる。そして、少し違和感のある日本語。

「ジャック!」

 振り返るなり叫んだ倉内の言葉に、ああこの人がと花は理解した。まだ、心臓は驚きでドキドキしていたが。

「アロー、楓。こちらの可愛い子チャンは?」

 振り返った花が見たものは、もみ上げから鼻の下、顎の先まで髭という髭がすべてくっついた茶髪の大男だった。

 一番近い言葉を捜すなら──熊。

 思わず花は、セーラー服のエリーズを一度見て後、もう一度熊男を見たのだ。

 遅れてくるというエリーズの兄に、こうして花はお別れの日に初めて会ったのだった。
「斉藤花です、初めまして」

「初めましテ、ジャックです……ふぅむ」

 熊男──こと、エリーズの兄であるジャックは、立ち上がって挨拶をする花をふむふむと眺め回した。

「ズバリ、花ちゃんに足りないのは、絶対領いk……ふごぉっ!」

「ジャ、ジャック! ちょっと来て」

 ババーンと人差し指を向けられ、いまやまさに重大なことを言わんとしていたジャックは、それを言い終えるより先に倉内に捕獲された。フルールを抱いていないおかげか、すばやい身のこなしだった。ちょっと花が驚いたくらいだ。

 いったい何だったんだろう。

 カナダ側の従兄は、謎に包まれている。多少、キテレツな方向性の人のようだということだけは、何となく花にも空気で伝わったが。

 お、ジャック、と倉内に連行される途中で、他の人たちが彼を発見し、倉内から彼の身柄を奪う。成人しているようで、既に酒を注がれ始めていた。

 そんな従兄にため息ひとつ落として、倉内は花のいる長椅子まで戻ってきた。

「ごめん、花さん。ジャックは、ええと……ちょっと変わってるんだ」

「はい、何となく分かりました」

 エリーズの日本カルチャー病を、もっとひどくした感じと言われて、そんなものなのかと曖昧に頷いた。

「日本に来るのも、これで五度目。大学でも、日本語専攻してる上に、日本の作品を日本語で楽しみたいって、猛烈に勉強して……」

「すごいですね。私は、『ハリー・ポッ○ー』好きですけど、原文で読む気まではしませんし」

『愛は言語を超える』を体言している人を、花はこの空間に二人見ることとなる。ひとりは、倉内の父。もう一人が、さっき現れたジャック。倉内の父は、妻と仲むつまじそうに寄り添っている。

 前に、花は倉内に両親の話を、聞いたことがあったのだ。倉内の母は『ひろみ』と言う名前だが、来日してすぐくらいだった倉内の父は、日本語こそ学んではいたけれども、どうしても『ヒロミ』の『ヒ』が苦手で、彼女に袖にされ続けていたらしい。そのため、倉内の父はそれこそ死ぬ気で特訓して、その壁を乗り越えた、と。

「そういえば、ジャックさんは私の名前、するっと呼べましたね」

「う、うん……そうだね。ジャックは、出来るみたい」

 倉内の表情が、少し曇った。さっきの、キテレツな登場でも思い出してしまったのだろうか。

 視線の先のジャックが、妹に手渡された手巻き寿司に、ぱくりと食いついて目を白黒させている。ケラケラ笑っている、エリーズと千恵。何の具だったのか。さっきのジャムの瓶が、花の脳裏によぎる。

 見ると、みないつもならやらなそうな、組み合わせで食べ物をこしらえ始めていた。クレープにポテトサラダを挟んだり、手巻き寿司にパスタを挟んだり。

 クレープにお肉も、ちょっとおいしそうと、花の好奇心がむずむずしていた。何かで巻いてしまえば、片手で食べられるお手軽感が、この庭の中で小さなブームになっている気がした。

 既にコウが、肉を手巻きの中に投入し始めている。そっちかと、花は食い気に引きずられたまま、人の手元を見るので忙しくなった。

「……どうかしました?」

 そんな中、自分がじっと見られているのが分かって、花は横の倉内を見た。屋外用のライトと、バーベキューの火という、それなりに明るい場所だ。彼が、はにかみながら視線を落とす姿もよく見える。

「う、嬉しかった……花さんが、僕を、大切な友達って、言ってくれて」

 そんな姿に意識を取られていたので、倉内がぽつりと呟いた言葉を、花はすぐに理解出来なかった。

 少しの間を空けて、それが車の中の出来事だと思い当たる。

「わ、私も、私も嬉しかったです。大切な友達って、一人じゃなれないですし。一緒にいて楽しいって思えてた意味が、やっと自分でも分かりました」

 空っぽの紙コップを、気をつけないと花は握りつぶしてしまいそうだった。それくらい肩に力が入っていたのだ。

「楽しい?」

「はい、すごく楽しいです」

「ほんと?」

「はい!」

 彼は、花の言葉の一部が疑問だったようだ。きっと、彼がこれまで自分に自信を持てなかった部分。

 嘘のない気持ちで、花は力強くそれを肯定する。

「よ……かったぁ」

 倉内が、両肩をはぁっと息を吐きながら落としていく。全身で表される安堵。

「よかった……僕だけが、楽しいのかと……思ってた」

「楽しいですよ? 映画も遊びに来た時も縁日も、今日も」

 いつも別れ際に『楽しかった』的な話はしていたが、彼はそれを社交辞令として受け取っていたのだろうか。

 確かに花は、余り大きく感情をあらわにしない。少し困ったり、少し落ち込んだりはよくするけれど。

 あ、そういえばと、花は大きく感情をあらわにした日のことを思い出して、恥ずかしくなった。それを、倉内に見られたのだ。

 タロのトライアルが成功して、無事に飼われることが決まったあの日。花は、彼のことも忘れてわあわあと泣いてしまったのである。

 あんな姿を見られたのだ。本当は感情の振れ幅の大きな人間だと、倉内には思われていたのかもしれない。それを、表に出さないだけなのだと。

 ああいうことは、めったにないんですよと、今更言っても分かってもらえないだろうことを、言い訳がましく心で呟く。

 タロがいなくなってしまったことは確かに寂しいが、ちょうどあの頃からだろう。その隙間には、倉内がいてくれた。最初は小さかった彼が、一緒に歩く度に、話をする度にだんだん大きくなっていったのだ。

 そして気がついたら、大事な友達になっていた。

 小さな猫がつないでくれた、ほんの小さな縁が始まりだったというのに。花は、フルールに感謝した。友達を連れてきてくれて、ありがとうと。

「ぼ、僕も……僕も、楽しい。嬉しい。ああ、もっといい言葉が、ある、はずなのに」

 何だか、倉内先輩が泣きそうに見えて、ぽんとその肩をたたいて花は椅子から立ち上がった。

「言葉なんて、これからいくらでも探せます。いくらでも一緒に遊べますから。今度はクレープ、食べませんか?」

 笑って誘うと、倉内もまたその唇を笑みに変えて「うん」と立ち上がった。


 
「楓、これどこで買っタ?」

 エリーズへのプレゼントを見たジャックに詰め寄られ、店を教えたり。買い逃していたと地団駄を踏んだジャックが、明日帰国前に強引に店に寄ってお土産として買い占めることが決まったり。エリーズが、そんなことしたら私のプレゼントの価値が下がると兄妹ゲンカを始めたり。

「新しい味に目覚めた。おはぎがあるんだから、米にジャムも結構いけるとは思っていたけど」

「マジで、アボカドサーモンバナナクレープ最高」

 千恵とコウの謎の巻物談義に、文字通り巻き込まれたり。

「互いの具が、あちこち入れ替わっちゃったわね」と、倉内母に笑われてしまったり。

 あれ入れて、これ嫌いと、チビっこたちにクレープを作らされて、手がベタベタになったり。

 食べ物と飲み物を手に渡り歩き、笑ってたまに困って。そんな騒動の中、ずっと倉内は花の隣にいてくれた。

 おなかがいっぱいになって、ひと段落ついた頃、倉内がフルールを連れてくると一度部屋に戻る。庭の端では花火が始まっていた。花は、開け放たれた居間の段差を椅子代わりに腰掛けて、それを見るのだ。

 エリーズ、ジャック、千恵、コウの従兄妹軍団にチビっこたちを加え、きゃあきゃあ言いながら火をつけている。

「花さんもおいでよ」と千恵が花火を掲げて誘ってくれるが、「大丈夫です」と手を振った。これから、隣に猫が来るのだ。花火なるものが、決して得意とはいえない動物なので、近くで見ていようと思った。

 少し待つと、倉内がフルールを抱いて戻ってくる。もはや、白い猫はべっとりと倉内の胸に張り付いている。彼が、ちらっと花火を見て、「あっ」という顔をした。間の悪いタイミングで猫を連れてきたことを、少し後悔しているように見えた。

「どうぞ」とそんな彼の気をそらすため、花が自分の隣の場所を勧める。ため息をひとつついて、倉内はそこに腰掛けた。

「花火……」

「フルール、また少し大きくなりましたね」

 倉内が切り出しかけた言葉の上に、花はよいしょと猫を乗せた。普段は、倉内の言葉は出来るだけ最後まで聞くようにしているが、何を言われるか分かっていたので、今日はそれを止めたのだ。

「あ、うん、そ、育ち盛りみたい。太ってはないよね」

「全然大丈夫です。毛並みもきれいだし、可愛がってもらってるのが一目で分かります」

 簡単にフルールの話に釣られた倉内が、可愛く見える。男子高校生に可愛いというのは、本人にしてみれば不本意だろうが。

「撫でさせてね、フルール」

 そんな彼の胸の白い猫にそっと指を伸ばして、耳の後ろを撫でてやる。前にも会ったことがあるのに、またフルールに知らん顔されていたが、花の撫でテクは覚えているのか、抵抗もせずに気持ちよさそうに目を細める。

 倉内の指も伸びてきて、彼はフルールの喉を撫でる。何とも豪華な二人撫で、だ。テクの花か、愛の倉内か。どっちで気持ちいいのか分からないが、フルールはごろごろご機嫌に鳴きっぱなしだった。

「縁側の老夫婦みたいだな」

「こらこら、コウ」

 花火を振り回す大人気ない従兄姉たちに冷やかされて、花は笑ってしまった。うら若い高校生二人だというのに、もはや老人に見えてしまうらしい。若々しさは、いったいどこへ行ったというのだろうか。

 花が笑っているのを見て、倉内も少し困ったみたいに笑う。彼も若さについて考えているのだろう。

「ふぅむ、花ちゃんに足りなイのは、やはり絶対領域。それと、ラッキースケ……ぐぬっ!」

「ミニスカトニーソ貸スヨ!?」

 エリーズが、兄に体当たりをかますように前に飛び出してくる。どうやら、ファッション談義のようだ。彼らにしてみれば、この無難な花のファッションには一言物言いたいのだろう。

 何だか分からないままに、ハイテンションな二人に釣られて花も笑ってしまった。


 楽しい楽しい、ただ楽しいばかりの送別会は、こうして終わったのだった。
 花は、一番最初に送ってもらうグループだった。遅くなると家族が心配するからと、倉内の両親が気を使ってくれたのだ。

 ずっとノンアルコールだったという倉内の父の車には、花と倉内、千恵と──何故かジャック。コウは、最後まで飲んでいくので居残りらしい。

「秋葉はサイコーでしたよ」と、助手席で話し続けるジャックをBGMに、花はどうにも朝からの疲れがどっと押し寄せて、うつらうつらしてしまった。

 ぼんやりとたゆたう意識の中で、花は短い夢を見る。タロとフルールと倉内と自分がいて、ただ草原で遊ぶだけの楽しい夢。そうしたら、何故かいつの間にか倉内がタロになっていて、花はフルールになっていた。それでも、草むらの中で遊び続ける。やっぱり、ただ楽しい夢だった。

「……さん」と、軽く肩が揺らされる。

「花さん……ついたよ」

 次の声ははっきり聞こえて、花ははっと目を開けた。ついでに頭を持ち上げる。気がつけば、隣の倉内の肩を借りていたようだ。

「す、すみません」

 慌てて口元をぬぐう。よかった、よだれは出ていないと安堵する。

「いいのよ、疲れたんでしょ? ふふふ」と、千恵が倉内の横から顔を出して、にまにまと微笑んでいる。きっと寝顔を見られたのだろう。恥ずかしい花は、慌てて挨拶をして下りる動作に入った。

 空っぽになったタッパーには、倉内家の料理の余り物が詰められていて、思ったほど軽くはならなかった。それを、倉内が抱えて一緒に降りてくれる。

 明かりのついたままの玄関先で、花は振り返った。両手を出して、彼から風呂敷を受け取る。

「今日は楽しかったです、楓先輩」

「うん、楽しかった……楽しかったね、花さん」

 言葉を噛み締めるように、倉内が言う。花は、言葉の重みの違いに気がついた。

 花は、普通に言葉をしゃべる。だから、その言葉の重さを普段は考えない。言葉が苦手な倉内だからこそ、こうして感情を乗せた言葉を表すことが出来るのかもしれないと思った。

 とは言っても、いきなり自分の言葉を変えられるはずもないのだが。

「何か楽しいものを見つけたら、私も楓先輩を誘いますね」

 だが、少しは花も成長するのだ。いつまでも、倉内に誘われるばかりの人間ではない。大事な友達ということは、花から誘ったっていいのだ。

「た、楽しいものがなくても……つまらないことでもいいから、誘って」

 そんな花に、倉内が一歩身を乗り出した。さすがにつまらないことでは誘えないと思ったが、花は彼もまた自分に誘われることを嬉しいと思っているのだと感じる。

「じゃあ、何でもないことでも、誘います」

 つまらないことではなく、何でもないこと。ただの、普通の一日。ただの、ありふれた時間。

 そんなささやかな時でも、きっと倉内と一緒なら楽しいに違いない。ただ、学校から一緒に帰る、そんな彼の誘いもまた、花は楽しかったのだから。

「うん、うん」

 倉内は、言葉を噛み締める。彼にとって、それらの言葉はとても美味しい味がするのではないかと思えて、少し羨ましくなる。

 花には味わえない、言葉の味。

「今日は、ありがとうございま……」

「花ー? 帰ったのか?」

 最後のお別れの言葉は、中から父の声に被せられる。

「帰ってるー」

 慌てて返事をして、じゃあと倉内に視線を向ける。

「挨拶……していく」

「えっ?」

 なのに彼が視線を玄関の向こうに向けるので、花は焦った。夏の、風呂上りの父の姿は、ランニングと膝丈パンツだ。そんな家族の姿を見られるのは、少し恥ずかしい。

 しかし、本人がせっかく出したやる気を削ぐわけにもいかず、花は玄関を開ける。

「た、ただいま」

 小さくなりながら、花が風呂敷を抱えて中に入ると、父が玄関に歩いてきているところだった。

「こんばんは……」

「あ、ああ、こんばんは」

 倉内の声が中に投げられた時、父の足がぴたっと一度止まる。

「きょ、今日は、素敵なお寿司を、わ、わざわざありがとうございました。ち、父も、母も、カナダに帰る従兄妹も……とても喜んでいました」

 ボス犬に立ち向かう、若い犬を思わせる神妙で緊張した面持ちに、花まで緊張が伝染しそうになる。倉内が頑張っているのが、痛いくらいに伝わってくるのだ。

「あ、ああ、いや……うん、その辺は花が……なあ花?」

 威厳を持って答えようとした父が失敗して、うなるように花に言葉を回す。ランニング姿では、威厳もへったくれも最初からないので、思わず花は吹いてしまったが。

「倉内のおば様から、おいしいものをおすそ分けしてもらったの。明日、食べようね」

 重さの残る風呂敷を掲げて、父へアピール。「あ、それは、どうも」と、男子高校生に向けるのとは違う、妙な態度。

「あ、いえ、こちらこそ」と、倉内も頭を下げる。どこかで見た光景だなと思ったら、初めて倉内家を訪ねた時の自分と倉内母が、まさにこんな風だった。

 そのまま男同士、微妙な空気を練り上げた後、「また、猫で何かあったら来るといい」と、父は逃げ出してしまった。猫に何かなくても、今のように倉内は来ているというのにと、花はまた笑ってしまう。

 しかし、笑えないのは倉内だった。ふぅーっと大きく息を吐き出して肩の力を抜いたのだ。

 オス同士の、縄張りの確認のような感覚は花には分からないが、それでも彼がやり遂げたのが分かる。

「そ、それじゃ、花さん……おやすみ」

「はい、お休みなさい、楓先輩」

 やり遂げた男に、笑顔で軽く手を振って見送る。そんな彼女に、ほっとした笑みを返して、倉内は去っていった。

 車が去る音を聞き終えた後、花は風呂敷を抱えて台所へと入る。母が冷蔵庫の中身を整理していた。父はもう、自室に戻ったのだろう。

「おみやげ、あるのよねー?」と、玄関の父との会話を聞いていたとしか思えない言葉と差し出される手。

「珍しいね、出てこないなんて」

「だって、お父さんが行ったもの……二人も出て行くのは大げさでしょ?」

 ふふっと笑いながら母は風呂敷を受け取り、ささっとタッパーの中身を小さな容器に移し始める。

「クレープ皮の余りももらったの、いろいろ巻いておいしかったよ」

 寿司飯の入っていた方には、折りたたんだそれ。母は、普段家で作らない食品にやったと小さく小躍りしていた。

「でも……猫はないわよねぇ」

 いただきものを空けた冷蔵庫の中に詰め込みながら、花の母が思い出し笑いを始める。どうやら、玄関先の父の話のようだ。

「うん、あれはない。ランニング姿で、獣医の威厳をアピールしようとしてた」

 花が同意すると、母の想像が膨らんでしまったのか、更にぶふっと笑う。

「複雑なのよ、お父さんも……ああ、おかしい。最近、花は倉内くんとばっかり遊ぶでしょ? 気になって気になってしょうがないの」

 今日も夕食の時はと、花がいない間にひと悶着あったことを伝えられる。前回の写真の時もそうだったが、どうにも花の父は倉内にひっかかりを覚えているようだ。

「大事な、友達だから……楓先輩は、どんどん成長してて、よく助けてもらうようになって……ううん、そんなことは本当は関係なくて、一緒にいてすごく楽しいから、とても大切な友達になったの」

 そのひっかかりを解く鍵になるとは思わないが、花は正直に自分の気持ちを言葉にしていた。いままでなかった、二人の関係を表す名前。親にも曖昧にしていたそれに、花はちゃんと名前を書いてから母に見せた。

「あら、そう?」

 母は、少し首を傾げた後、「まあ、花にしてみれば上出来かもね」と歯を見せた。



 お風呂につかって、今日のことを一通り思い出した後、花はパソコンをつけた。倉内のブログをチェックするが、今日はまだ更新がない。片付けで忙しいのかもしれない。

 疲れていた花は、そのままバタンキューと眠ってしまう。夢なんか見る隙間もないほどの熟睡だった。

 ブログは──翌朝変わっていた。

『昨日の従兄妹たちの送別会では、ご飯の時以外はフルールと一緒にいた。ずっと一緒にいたいけれど、人と猫の間には乗り越えられない壁がある。でも、そんなことはフルールには関係ない。少し僕の部屋で待ってもらった後に迎えに行ったら、やっぱり怒られた。お詫びにいっぱい撫でた。僕より撫でるのが上手な友達と二人で撫でた。ああ……昨夜はよく眠れなかった。眠い。でも、フルールが朝から乗っかって起こしてくれたから起きる。可愛い僕のフルール……いつまでも僕の傍にいて。それが、どんな名前の関係でもいいから』

 ブログには、相変わらずフルール病が炸裂していたが、花の視線は一点に集中していた。

『僕より撫でるのが上手な友達』

 おおと、花は感動した。これはきっと、自分のことなのだ、と。

 初めて倉内のブログに登場した自分と『友達』という形容に、この日一日、とても楽しい気分で花は過ごしたのだった。




『終』
「斉藤花ってあなた? ああそう、ちょっと話があるんだけど」

 二学期に入って少しして。ようやく夏休みボケから片足を抜け出せそうになった頃、昼休みの花に呼び出しが来た。タイの色は2年生のもの。まもなく修学旅行がやってくるウキウキする時期に、一体何の用なのか。

 昼休み──これからお弁当というタイミングだったため、花は一度教室の中を振り返った。一緒にお昼を食べる友人たちが、心配そうにこちらを見ている。おとなしいグループに属する彼女らは、相手が上級生であるためか、うっかりでも近づいてきてくれないようだ。

「ええと、何の御用でしょうか?」

 お迎えの上級生は3人。ポニーテールの長身の女子を筆頭に、ショートとストレートのロングだ。はっきり言って面識はない。だから、ほいほいついていく気分にはなれなかった。

「……倉内くんのこと、と言えば分かる?」

 だが、言葉にされた人物の名を聞いて、花は考えを改めた。怪訝な気持ちがすぱっと消え、「分かりました」とほいほいする気になったのだ。

「ちょっと言ってくるね」と振り返り、友人たちに手を振る。うわあと言う顔をした彼女らの表情が印象的だった。

「どこに行きましょうか?」

 歩き出す前に、花は代表だろうポニーテール先輩に問いかける。まだ外は暑いのだ。日当たりのいいところは、出来ればいやだなと思った。

「どこって……体育館裏でいい?」

 ポニテ先輩は、ちらちらと後方の二人に確認をする。

「それより、普通に校舎裏とかどうでしょう。近いですし」

 校舎から遠い体育館裏まで行くのは、だるいし時間も余計に使ってしまう。つい花がそう提案すると、彼女らは戸惑った表情になった後、そこでいいわと了承してくれた。

 花はほっとしながら、先輩たちについて歩き出す。一年の教室は3階なので、階段を降りきってしまえば、すぐ裏には出られる。上履きのままだが、校舎ぞいの地面はコンクリートになっていて、そこであれば靴に履き替えなくてもいいだろう。

 さて、と。

 階段を降りながら、花は考えを巡らせた。倉内の件で上級生に呼び出されるのは初めてだが、考えていなかったわけではない。倉内は、とても女性に好かれる容姿をしているので、花としても迂闊に地雷を踏まないようにだけは気をつけてきた。

 しかし、完全に隠しきれるものでもない。いつかは来るべきものだった。そう考えれば、気が重いわけでもない。

 気が重くなくなった理由は──花の中で、ひとつの形が出来上がっていたからだ。

「単刀直入に言うけど、倉内くんから離れてくんない?」

「すみません、無理です」

 校舎裏。昼休みが始まったばかりのこの時間は、まだ誰も裏庭にいない。昼休みが進んだところで、ほとんど人は来ないだろうが。

 太陽は高い位置にあるが、校舎のすぐ側くらいまでは日陰をつくってくれていて、そこで3人の上級生と花は向かい合ったのだ。

 そして、単刀直入に切り出され、同じほど彼女は単刀直入に切り返した。返答に淀みがなかったせいか、一瞬向こうに沈黙が生まれる。

「あなた、倉内くんのこと……好きなの?」

 ジロジロと眺め回された後、ポニテ先輩は目障りな表情を消さないまま、花に向かって問いかける。

「大切な友達です」

 これが、彼女の中で出来上がった倉内の形だ。

 上級生に向かって、花はその伝家の宝刀を抜いた。夏休みの間に形になった、自分と倉内の関係を表す言葉。他の人にはどう見えるかは分からないが、それは花にとって、かけがえのないキラキラしたものだ。

「はぁ?」

 その刀を前に、上級生たちは奇妙な顔をした。

「楓先輩は、私の大切な友達です」

 関係に名前があるというのは、花の足場を安定させてくれた。いままでは、他人に聞かれた時に答える言葉がなかったのだ。言葉がなければならないというわけではないが、周囲が納得してくれないだろうということくらいは、花も分かっていた。

「かえ……ねぇ、それってただ単に倉内くんのことを独占したい口実じゃないの? 『大切な友達』とか綺麗事、言っちゃって」

「そうよそうよ」

「私たちの方が、倉内くんと友達の期間、長いんだから」

 ポニテ先輩に続き、ショート先輩、ストロン先輩が初めて声をあげる。活発そうなショート先輩の声がやや甲高かったのが、花にとっては印象的だった。

「楓先輩の友達……なんですか?」

 最後の言葉を言ったストロン先輩に、花は視線を向けた。他のどんな言葉よりも、それが気になったのだ。

「そ、そうよ……それが何か?」

 花からの個人攻撃に一歩引く動きを見せたストロン先輩は、しかし踏みとどまって言い返す。

「そうですか、それは良かったです。でも、友達なら……ええと、その……こういうことは……」

「花さん!」

 花は、必死で言葉を考えている最中だった。上級生たちの神経に障らないように、花の気持ちを伝える言葉を探していたのである。だから、自分の言葉にかぶった別の声に、すぐには反応出来なかった。

「……?」

 一拍遅れて自分が呼ばれた気がして、花はきょろきょろした。しかし、声は前からでも後ろからでもなく

「花さん、だ、大丈夫?」

 上から、だった。

 ぐうんっと首を真上に上げると、二階から身を乗り出す人が見えた。薄く茶色い髪は、上下の落差があってもよく分かる。

 そんな倉内の横の窓から、心配そうな二人の友人が遠慮がちに見下ろしているのが見えた。

 その不思議な組み合わせを見て、花は理解したのだ。彼女のことを心配した友人が、会話の内容から倉内楓に助けを求めたのだろうということを。

「は、花さん、すぐ、すぐ行くから!」

 そんなに身を乗り出すと危ないと花が言いたくなるほど、彼は一度大きく身体を窓の外に出した直後、視界から消え失せた。言葉通り、階段に回って降りてくるのだろう。

 突然の出来事に花も驚いたが、視線を戻した先にいる三人の上級生も度肝を抜かれたようだ。

 一番慌てていたのはショート先輩だった。「行こ、ねえもう行こう」と、倉内と鉢合わせるのを恐れているように見える。ストロン先輩もまた、そんなショート先輩に腕を引っ張られて、反対側から逃げようかと算段する視線の動かし方をする。

 ポニテ先輩だけが、ぶすったれた顔で花を見るのだ。

「楓先輩って……いい人ですよね」

 そんなポニテ先輩に、花はさっきまで考えていた言葉のひとつを掴み出した。

「そうよ、倉内くんは優しくて絶対怒鳴ったりしないし、女子をからかったり馬鹿にしたりしないわ」

 倉内にバレてしまったことで、逆に何か吹っ切れたのか、ポニテ先輩がひとつ大きなため息をついた後、ついに本音を吐き出してくれた。

 おおおおおと、花の中でテンションが上がっていく感覚が、自分でも分かる瞬間だった。

「ですよねですよね。楓先輩は、何かこう紳士っぽいというか、女性に特に優しいというか」

 夏休みの間で特に感じていたことを、花もうんうんと頷きながら同意する。

「そう、だから倉内くんの女子の中でのあだ名は『王子』よ。最近、もっと優しくなったから、倉内くんのファンは増えてるわ」

「おお、王子! そうなんですか……王子……うーん、紳士の方がしっくりくるような」

「あなたの意見は、別に聞いてないんだけど」

「あっ、そうですね。すみません」

「花さん!」

 悠長に倉内を褒める会を開催していた花は、倉内の声が同じ高さから聞こえてきたことに気づき、後方を振り返った。

 はぁはぁと、息も荒く足早に近づいてくる彼の姿。

「は、花さん……大丈夫?」

「はい、大丈夫です、楓先輩」

 こくこくと大きく花は頷いて見せた。何の心配もいらないのだと。

「先輩たちといま、楓先輩の長所を確認してました」

「……は?」

 その瞬間の倉内の表情と言ったら。本当に顎を外さんばかりにぱっかりと口を開け、意味が分からないという顔になったのだ。

 そんな顔を、花は初めて見た。

「楓先輩のあだ名が『王子』と聞いて、正直、ちょっと異議ありとは思いましたけど」

「……はぁ、そ、そうなんだ」

 開けっ放しだった口を閉じたが、腑に落ちない表情で倉内が相槌を打つ。

「だから、大丈夫ですよ?」

 元々、いつか来ることは分かっていたし、花の中の足場は固まっていたので、本人としても余り心配はしていなかったのだ。逆に、倉内が現れることこそが予定外だった。心配してくれた友人たちには、感謝をしているが。

「べ、別にその子をいじめてたわけじゃないわよ。倉内くんがよく構ってるようだったから、何でかなと思っただけよ」

 ポニテ先輩は、完全に開き直った顔で倉内に言葉を尽くす。

「友達、だから……」

 そんな彼女に、ぼそっと倉内が音をこぼす。視線は、彼女に向けられていない。それでも彼は、足を踏ん張って続けてこう言ったのだ。

「花さんは、大切な友達だから……」

 それは、花を幸せにさせる音。

 大切な友達という両思いの関係になれる相手は、実はどこにでも転がっているものではない。普遍的で、とても心地いい言葉だった。

「この子にもそう聞いたところよ……そんなの『変』って言いたいけど、言わないでおく。倉内くんが、私に『変』って言わなかったことは、忘れてないから……行こ」

 倉内の何倍もの言葉を並べながら、ポニテ先輩は切ない表情を振り切るように歩き出した。二人の女子もまた、彼女について小さくなりながら脇を駆け抜けて校舎へと戻って行く。

「花さん……」

「楓先輩、今日一緒に帰りましょうか」

 二人きりで取り残された校舎裏。倉内にしてみれば、心配したのだから言いたいことはいろいろあるだろう。

 しかし、それには問題があった。だから、改めて時間を取りたいと花は下校の提案をしたのだ。前に、花から誘うという話もしていたことだし。

「え? あ、うん、一緒に帰ろう……えっと」

 それに先手を取られた倉内が、一瞬言葉を見失った目をした。

「話はその時にゆっくり……おなかすきました」

 問題。

 それは、花がまだお弁当を食べていない、ということだった。