※
「いただきます」──これは2度目の言葉。
昼食は、カレーだった。
ナスやトマトの入った夏カレーだと、倉内母に勧められる。気取らないメニューなのは、ありがたい。好物に、喜んで花はご馳走になることにした。
「……」
ダイニングの向かいの席の倉内が、スプーンを持ったまま皿の中をじっと見つめていた。その後、短い時間だが、母を睨んだ気がする。
「嫌いなものでも、あるんですか?」
つい、そう聞いてしまった。
「な、ないよ……いただきます」
何かを振り切ったように倉内は、スプーンをカレーに沈めてすくい上げる。
にゃーにゃーとテーブルの下から、フルールが彼に食べ物をねだるが、「これは駄目」と珍しく彼女の要求を拒んでいた。くるくると足元で、しばらくフルールは円を描くように歩いたが、ついにあきらめたのか、ちょっとだけ離れたところでふてくされたように丸くなる。
スプーンの上に乗ったゴロっとした茄子らしき塊は、なかなかそこから動かなかったが、花と目が合った瞬間、彼はそれを口の中に勢いよく押し込んだ。
「おいしいです」
花も一口食べて、倉内母への感謝の言葉をそう表した。
二人の食事を見届けていた倉内母が、花の言葉と息子の態度に、いたくご機嫌に笑って「ゆっくり食べてね」と、ダイニングを出て行く。
お客の前で嫌いなものをよけるのは、きっと男のプライドが許さないのだろう。倉内は、ムキになったように、カレーをすくっては食べている。
そんな彼の姿が、何だかちょっと可愛く見えて、でも笑うのは失礼なのでぐぐっと我慢。
彼にとっては分からないが、花にとっては楽しい昼食だった。
食後は、再びソファでフルールとたわむれる。少し慣れてくれたのか、ようやく花の膝の上にも乗ってくれた。
「かわいいね、おまえは」
手触りのいい毛並みを撫でながら、花はフルールに声をかける。
いつの間にか、倉内は隣から立ち上がって、向かい側へと回っていた。
手には、スマホ。
「花さん……と、とととと撮ってもいい、かな?」
言葉がつまずいて、そのままズデデンとすっ転んだ彼の声。随分、焦っているようだ。
あ、猫、フルール、と。花は自分の膝の上の白猫を、倉内の方へと向けて座りなおさせた。
「はい、どうぞ」
耳の後ろを撫でてやると、フルールは気持ちよさげに目を細めるのは、さっき見ていたので、その顔を作ってやる。
私の撫でテクを見よ、どうだっと、花はサービス満点でフルール姫に尽くした。
パシャッ、パシャッとスマホの軽快なシャッター音が、何度も響き渡る。
「ありがとう、花さん」
ひとしきり撮り終えて満足したのか、彼が嬉しそうにお礼を言う。
花も、自分の撫でテクが倉内を満足させたことが分かって、小さな自尊心が満足しているのに気づく。
倉内はスマホの写真を指先で確認しては、それはもう見ているのが恥ずかしいほど幸せ満開の顔をしている。
今日のブログには、すごく気持ちよさそうなフルールの写真が載るのかもしれないと思うと、花はどきどきしたりもする。
そんなフルールを囲んでのどかで緩やかな時間も、だんだん終わりが近づいて来る。
「そろそろ……」と、花が時計を確認してソファから腰を浮かすと、「あ、花さん……お、送るよ」と、倉内の紳士節が炸裂した。
「いえ、道分かりますから。日も高いですし」
お邪魔してご飯までご馳走になったのに、家まで送らせるなんてとんでもない。花は、そう思って断った。
のに。
「ぼ、僕が呼んだんだから、最後までちゃんと……お、男の仕事だから」
ああ。
花は、メールでは負けるが、言葉では負けないと思っていた。そして、それは思い込みであることを思い知った。
倉内父に、紳士の何たるかをきちんと教えられているのだろう。ここで、それを拒んだら、彼が家で叱られたりするに違いない。
「う……じゃあ、お、お願いします」
フルールと倉内母に見送られ、再び倉内と一緒に朝と逆の道のりをたどった。
朝よりももっと暑い日差しが、ガンガンに降り注ぐ中、冷房に慣れたなまった身体を奮い起こして歩く。
「暑いですね」
「……うん」
話は──余り弾まなかった。
「きょ……今日はありがとう、花さん。楽しかった」
斉藤家の自宅の玄関前で、彼はちゃんと花の方を向いてそう言った。
「はい、私も楽しかったです、お邪魔しました」
そのまま。
少しだけ、沈黙が流れた。倉内が何か言いたそうな気がして、花はすぐには「じゃあ」と言わずに止まる。
「……また、よ、良かったら……遊びに来て」
とつとつと、しかし心の尽くされた言葉は、それが決して社交辞令ではないことを伝えてくる。
彼が、人に対して扉を少しずつ大きく開こうとしているのが、花にはよく見えた気がした。
「はい、じゃあまたフルールに会いに行きますね」
だから花も、社交辞令ではなく誠実に答えたのだった。
その夜。
花は、何度か倉内のブログの更新ボタンを押して、今日の写真がアップされるのを待った。
22時過ぎに、ようやく今日の日付のブログが表示され、花はどきっとする。
『今日は暑かったけれど、僕も、僕の可愛いフルールも最高にご機嫌で幸せな一日だった。ちょっと、叫びたくなった』
幸せな倉内の声が聞こえてきそうな、短いが、彼の思いがいっぱい詰まった文章と、フルールの写真が数枚。
あれ?
花は、首を傾げた。
そこに掲載されている写真は、リビングで撮ったものはない。おそらく倉内の私室らしい場所が、ちらりと背景に映り込んでいた。
花の撫でテクを炸裂させた写真は──どうやらボツになったようだ。
ちぇっ。
花は、ちょっとだけ残念に思った。
『終』
「いただきます」──これは2度目の言葉。
昼食は、カレーだった。
ナスやトマトの入った夏カレーだと、倉内母に勧められる。気取らないメニューなのは、ありがたい。好物に、喜んで花はご馳走になることにした。
「……」
ダイニングの向かいの席の倉内が、スプーンを持ったまま皿の中をじっと見つめていた。その後、短い時間だが、母を睨んだ気がする。
「嫌いなものでも、あるんですか?」
つい、そう聞いてしまった。
「な、ないよ……いただきます」
何かを振り切ったように倉内は、スプーンをカレーに沈めてすくい上げる。
にゃーにゃーとテーブルの下から、フルールが彼に食べ物をねだるが、「これは駄目」と珍しく彼女の要求を拒んでいた。くるくると足元で、しばらくフルールは円を描くように歩いたが、ついにあきらめたのか、ちょっとだけ離れたところでふてくされたように丸くなる。
スプーンの上に乗ったゴロっとした茄子らしき塊は、なかなかそこから動かなかったが、花と目が合った瞬間、彼はそれを口の中に勢いよく押し込んだ。
「おいしいです」
花も一口食べて、倉内母への感謝の言葉をそう表した。
二人の食事を見届けていた倉内母が、花の言葉と息子の態度に、いたくご機嫌に笑って「ゆっくり食べてね」と、ダイニングを出て行く。
お客の前で嫌いなものをよけるのは、きっと男のプライドが許さないのだろう。倉内は、ムキになったように、カレーをすくっては食べている。
そんな彼の姿が、何だかちょっと可愛く見えて、でも笑うのは失礼なのでぐぐっと我慢。
彼にとっては分からないが、花にとっては楽しい昼食だった。
食後は、再びソファでフルールとたわむれる。少し慣れてくれたのか、ようやく花の膝の上にも乗ってくれた。
「かわいいね、おまえは」
手触りのいい毛並みを撫でながら、花はフルールに声をかける。
いつの間にか、倉内は隣から立ち上がって、向かい側へと回っていた。
手には、スマホ。
「花さん……と、とととと撮ってもいい、かな?」
言葉がつまずいて、そのままズデデンとすっ転んだ彼の声。随分、焦っているようだ。
あ、猫、フルール、と。花は自分の膝の上の白猫を、倉内の方へと向けて座りなおさせた。
「はい、どうぞ」
耳の後ろを撫でてやると、フルールは気持ちよさげに目を細めるのは、さっき見ていたので、その顔を作ってやる。
私の撫でテクを見よ、どうだっと、花はサービス満点でフルール姫に尽くした。
パシャッ、パシャッとスマホの軽快なシャッター音が、何度も響き渡る。
「ありがとう、花さん」
ひとしきり撮り終えて満足したのか、彼が嬉しそうにお礼を言う。
花も、自分の撫でテクが倉内を満足させたことが分かって、小さな自尊心が満足しているのに気づく。
倉内はスマホの写真を指先で確認しては、それはもう見ているのが恥ずかしいほど幸せ満開の顔をしている。
今日のブログには、すごく気持ちよさそうなフルールの写真が載るのかもしれないと思うと、花はどきどきしたりもする。
そんなフルールを囲んでのどかで緩やかな時間も、だんだん終わりが近づいて来る。
「そろそろ……」と、花が時計を確認してソファから腰を浮かすと、「あ、花さん……お、送るよ」と、倉内の紳士節が炸裂した。
「いえ、道分かりますから。日も高いですし」
お邪魔してご飯までご馳走になったのに、家まで送らせるなんてとんでもない。花は、そう思って断った。
のに。
「ぼ、僕が呼んだんだから、最後までちゃんと……お、男の仕事だから」
ああ。
花は、メールでは負けるが、言葉では負けないと思っていた。そして、それは思い込みであることを思い知った。
倉内父に、紳士の何たるかをきちんと教えられているのだろう。ここで、それを拒んだら、彼が家で叱られたりするに違いない。
「う……じゃあ、お、お願いします」
フルールと倉内母に見送られ、再び倉内と一緒に朝と逆の道のりをたどった。
朝よりももっと暑い日差しが、ガンガンに降り注ぐ中、冷房に慣れたなまった身体を奮い起こして歩く。
「暑いですね」
「……うん」
話は──余り弾まなかった。
「きょ……今日はありがとう、花さん。楽しかった」
斉藤家の自宅の玄関前で、彼はちゃんと花の方を向いてそう言った。
「はい、私も楽しかったです、お邪魔しました」
そのまま。
少しだけ、沈黙が流れた。倉内が何か言いたそうな気がして、花はすぐには「じゃあ」と言わずに止まる。
「……また、よ、良かったら……遊びに来て」
とつとつと、しかし心の尽くされた言葉は、それが決して社交辞令ではないことを伝えてくる。
彼が、人に対して扉を少しずつ大きく開こうとしているのが、花にはよく見えた気がした。
「はい、じゃあまたフルールに会いに行きますね」
だから花も、社交辞令ではなく誠実に答えたのだった。
その夜。
花は、何度か倉内のブログの更新ボタンを押して、今日の写真がアップされるのを待った。
22時過ぎに、ようやく今日の日付のブログが表示され、花はどきっとする。
『今日は暑かったけれど、僕も、僕の可愛いフルールも最高にご機嫌で幸せな一日だった。ちょっと、叫びたくなった』
幸せな倉内の声が聞こえてきそうな、短いが、彼の思いがいっぱい詰まった文章と、フルールの写真が数枚。
あれ?
花は、首を傾げた。
そこに掲載されている写真は、リビングで撮ったものはない。おそらく倉内の私室らしい場所が、ちらりと背景に映り込んでいた。
花の撫でテクを炸裂させた写真は──どうやらボツになったようだ。
ちぇっ。
花は、ちょっとだけ残念に思った。
『終』