『タロ』みたいな人と会った。
それが、斉藤 花(はな)の、彼に対する第一印象。
放課後。
通っている高校の、体育館の裏──嫌なヤツを呼び出すか、告白するには絶好のポイント。
そこで、壁を背にゼイゼイと荒い息を繰り返す男子と、地面に尻餅をついて呆気に取られている女子がいた。
どちらも同じ高校の制服で、どちらもタイの色は二年生を表す紺色だった。
緑のタイの一年生の花は、あちゃあと思った。
マズイ場面に出くわしたのだ。
ちなみに、花がここに来たのは、前にあげた二つの選択肢のどちらでもない。ある噂を聞きつけて、気になってやってきたところだった。
「あの、大丈夫ですか?」
とりあえず花は、へたりこんでいる女子に声をかける。下は地面で、長いこと座っているのには適さない。制服のスカートが汚れてしまう。
「え? あっ、だ、大丈夫よっ!」
他人の視線があることに気づいたようで、二年の女子生徒は立ち上がり、ぱぱっとスカートを払うと、顔を真っ赤にして駆け出してしまった。
体育館裏から、表の世界へと戻っていく後姿。
走って帰れるくらいだから、大丈夫だね。
心配はいらないようだと、花はうんうんと頷いた。
さて、と。
現場にはもう一人いる。
何があったか知らないが、息を激しく乱し、顔を赤くしたり青くしたりと忙しい男子生徒だ。
立っているのが辛くなったのか、ずるずると背中を壁につけたまま、彼はへたりこんでいく。
病気だろうかと、もう一度、今度は彼に向かって、花は「大丈夫ですか?」と声をかけてみた。
ビクゥッ!!
彼女の声に、男子生徒の身体は一度強く上下に跳ね、そのせいで背中が壁から離れてしまったのか、ズドンと一気に落ちて尻餅をついた。
ありゃ。
さっきの女生徒と違って、こっちは走って帰れる元気はないようだ。
ふむ。
ぬきさしならない状況に、無視をしていくわけにもいかず、花は一歩彼の方に踏み出そうとした。
ビクビクッ!
そんな彼女の足の動きは、男子生徒を激しくびびらせる。
まるで、猛獣でも近づいてきたかのごとき反応だ。
あ。
どこかで見覚えのある反応に、ぴたりと花は足を止めた。
タロ、みたいだな。
彼女の記憶に、それが甦る。
クリーム色と黒の毛並みの、雑種の犬。
よいしょっと。
花は一歩後方に下がって、スカートを抑えながら、壁沿いのコンクリートの部分に腰を下ろす。
元気にしてるかなぁ、タロ。
彼と同じように壁に背を預け、花は春の明るい空を見上げた。
※
斉藤花は、ごく普通の高校生だと、自分のことを思っていた。
学校の規則を破らない程度のスカートの長さと、眉が隠れる程度の黒い前髪。後ろは面倒なので、肩くらいで揃えている。
先生に睨まれることもなく、かといって、優等生を気取っているわけでもない。
窓際の席であることをいいことに、授業中に差し込んでくるポカポカ陽気を満喫して、時々グラウンドの方を見たりする。
得意な科目は文系で、苦手な科目は理数系。
運動に関しては、歩くのは好きだが、走るのはあんまり速くない。球技は好きだけど、大してうまいわけでもない。
部活は、帰宅部。
学校でやりたいことというより、帰ってやるべきことがあるのだ。
無事、公立高校に入学出来、ぴかぴかの高校一年生になったばかりだ。
そんな彼女から、少し離れたところで、心拍数の上昇に苦しんでいる男子生徒を、ちらりと横目で見る。
茶色い髪は、日当たりの悪い体育館裏でも分かるほど、薄くてキラキラしている。横顔だから分かる、綺麗な高い鼻と、はっきりした顔立ち。二重でぱちっとした目は、花からすれば羨ましい限りだ。
おそらくあれは──美少年と呼ばれるものなのだろう。少し日本人離れしているので、よその国の血が入っているのかもしれない。
それが、ますます『タロ』を彷彿とさせた。
柴犬とシェパードの間に生まれた雑種犬。
全体的にはクリーム色で、鼻の周りだけ黒い。耳はピンと立っているが、尻尾はゆるく立てた生クリームみたいな巻き方だ。
和犬というには鼻面が長く顔が濃く、洋犬というには地味な印象のある犬。
そんな雑種のタロが、花のところに連れてこられたのは、去年の春のことだった。
元の飼い主のところで三年くらい飼われていたタロは、引越しのタイミングで捨てられ、子供たちに虐められているところを保護された。
捨てた家の近所の人から通報があり、花の父親が保護した時には、タロはすっかり人間不信になっていて、人の姿が見えるだけでブルブル震える哀れな状態だった。
花の父親は、獣医だ。
そして、ボランティアで捨てられた犬猫を一時的に保護するシェルターも運営している。
普段は、父は診察で忙しいので、母がメインで世話をしている。花も、学校が終わったら手伝いをしていた。
病院の受付兼助手は、獣医見習いの人が来ているので、家族はノータッチで済んでいるのだ。
いろいろ事情のある犬猫が連れてこられるが、タロはその中でも群を抜く、人間不信だった。
声をかけることも、近づくことも、ただただタロを怯えさせる。
だから、花は中学の春休み中、タロと一緒にいた。
ただ、側にいただけ。
声もかけず、近づくこともせず、少し広めにとった柵の中に、ただ座り続けた。
長い長い時間の果てに。
タロが、そろそろと近づいてきた。
指先一つ動かさず、花はタロが自分から近づいてくるのを、辛抱強く待ち続けたのだ。
いまの花も、それと同じだった。
呼吸音ひとつ立てることなく、ただ静かに座っている。
そこにいる、彼の時間を邪魔してはならない。
彼が落ち着き、周囲を見ることが出来るようになって、そして彼にとって花が興味をひくようであれば、向こうから勝手に近づいてくる。
ダムダムと、体育館の中で部活の始まった音が聞こえる中。
花は、ずっとそうしていた。
「……」
隣の呼吸音が次第におさまり、彼が頼りなげでありながらも立ち上がるのが分かった。
彼の方を見ることなく、花はそこにいた。
「……」
一歩、向こうに足が踏み出される。
帰り道としては不適切な、体育館を遠回りに出て行くコースだ。
花は、そのまま放置した。
彼は──いなくなった。
それが、斉藤 花(はな)の、彼に対する第一印象。
放課後。
通っている高校の、体育館の裏──嫌なヤツを呼び出すか、告白するには絶好のポイント。
そこで、壁を背にゼイゼイと荒い息を繰り返す男子と、地面に尻餅をついて呆気に取られている女子がいた。
どちらも同じ高校の制服で、どちらもタイの色は二年生を表す紺色だった。
緑のタイの一年生の花は、あちゃあと思った。
マズイ場面に出くわしたのだ。
ちなみに、花がここに来たのは、前にあげた二つの選択肢のどちらでもない。ある噂を聞きつけて、気になってやってきたところだった。
「あの、大丈夫ですか?」
とりあえず花は、へたりこんでいる女子に声をかける。下は地面で、長いこと座っているのには適さない。制服のスカートが汚れてしまう。
「え? あっ、だ、大丈夫よっ!」
他人の視線があることに気づいたようで、二年の女子生徒は立ち上がり、ぱぱっとスカートを払うと、顔を真っ赤にして駆け出してしまった。
体育館裏から、表の世界へと戻っていく後姿。
走って帰れるくらいだから、大丈夫だね。
心配はいらないようだと、花はうんうんと頷いた。
さて、と。
現場にはもう一人いる。
何があったか知らないが、息を激しく乱し、顔を赤くしたり青くしたりと忙しい男子生徒だ。
立っているのが辛くなったのか、ずるずると背中を壁につけたまま、彼はへたりこんでいく。
病気だろうかと、もう一度、今度は彼に向かって、花は「大丈夫ですか?」と声をかけてみた。
ビクゥッ!!
彼女の声に、男子生徒の身体は一度強く上下に跳ね、そのせいで背中が壁から離れてしまったのか、ズドンと一気に落ちて尻餅をついた。
ありゃ。
さっきの女生徒と違って、こっちは走って帰れる元気はないようだ。
ふむ。
ぬきさしならない状況に、無視をしていくわけにもいかず、花は一歩彼の方に踏み出そうとした。
ビクビクッ!
そんな彼女の足の動きは、男子生徒を激しくびびらせる。
まるで、猛獣でも近づいてきたかのごとき反応だ。
あ。
どこかで見覚えのある反応に、ぴたりと花は足を止めた。
タロ、みたいだな。
彼女の記憶に、それが甦る。
クリーム色と黒の毛並みの、雑種の犬。
よいしょっと。
花は一歩後方に下がって、スカートを抑えながら、壁沿いのコンクリートの部分に腰を下ろす。
元気にしてるかなぁ、タロ。
彼と同じように壁に背を預け、花は春の明るい空を見上げた。
※
斉藤花は、ごく普通の高校生だと、自分のことを思っていた。
学校の規則を破らない程度のスカートの長さと、眉が隠れる程度の黒い前髪。後ろは面倒なので、肩くらいで揃えている。
先生に睨まれることもなく、かといって、優等生を気取っているわけでもない。
窓際の席であることをいいことに、授業中に差し込んでくるポカポカ陽気を満喫して、時々グラウンドの方を見たりする。
得意な科目は文系で、苦手な科目は理数系。
運動に関しては、歩くのは好きだが、走るのはあんまり速くない。球技は好きだけど、大してうまいわけでもない。
部活は、帰宅部。
学校でやりたいことというより、帰ってやるべきことがあるのだ。
無事、公立高校に入学出来、ぴかぴかの高校一年生になったばかりだ。
そんな彼女から、少し離れたところで、心拍数の上昇に苦しんでいる男子生徒を、ちらりと横目で見る。
茶色い髪は、日当たりの悪い体育館裏でも分かるほど、薄くてキラキラしている。横顔だから分かる、綺麗な高い鼻と、はっきりした顔立ち。二重でぱちっとした目は、花からすれば羨ましい限りだ。
おそらくあれは──美少年と呼ばれるものなのだろう。少し日本人離れしているので、よその国の血が入っているのかもしれない。
それが、ますます『タロ』を彷彿とさせた。
柴犬とシェパードの間に生まれた雑種犬。
全体的にはクリーム色で、鼻の周りだけ黒い。耳はピンと立っているが、尻尾はゆるく立てた生クリームみたいな巻き方だ。
和犬というには鼻面が長く顔が濃く、洋犬というには地味な印象のある犬。
そんな雑種のタロが、花のところに連れてこられたのは、去年の春のことだった。
元の飼い主のところで三年くらい飼われていたタロは、引越しのタイミングで捨てられ、子供たちに虐められているところを保護された。
捨てた家の近所の人から通報があり、花の父親が保護した時には、タロはすっかり人間不信になっていて、人の姿が見えるだけでブルブル震える哀れな状態だった。
花の父親は、獣医だ。
そして、ボランティアで捨てられた犬猫を一時的に保護するシェルターも運営している。
普段は、父は診察で忙しいので、母がメインで世話をしている。花も、学校が終わったら手伝いをしていた。
病院の受付兼助手は、獣医見習いの人が来ているので、家族はノータッチで済んでいるのだ。
いろいろ事情のある犬猫が連れてこられるが、タロはその中でも群を抜く、人間不信だった。
声をかけることも、近づくことも、ただただタロを怯えさせる。
だから、花は中学の春休み中、タロと一緒にいた。
ただ、側にいただけ。
声もかけず、近づくこともせず、少し広めにとった柵の中に、ただ座り続けた。
長い長い時間の果てに。
タロが、そろそろと近づいてきた。
指先一つ動かさず、花はタロが自分から近づいてくるのを、辛抱強く待ち続けたのだ。
いまの花も、それと同じだった。
呼吸音ひとつ立てることなく、ただ静かに座っている。
そこにいる、彼の時間を邪魔してはならない。
彼が落ち着き、周囲を見ることが出来るようになって、そして彼にとって花が興味をひくようであれば、向こうから勝手に近づいてくる。
ダムダムと、体育館の中で部活の始まった音が聞こえる中。
花は、ずっとそうしていた。
「……」
隣の呼吸音が次第におさまり、彼が頼りなげでありながらも立ち上がるのが分かった。
彼の方を見ることなく、花はそこにいた。
「……」
一歩、向こうに足が踏み出される。
帰り道としては不適切な、体育館を遠回りに出て行くコースだ。
花は、そのまま放置した。
彼は──いなくなった。