由里はその後神谷夏樹の演奏を聴いた。どれもこれも上手すぎる。
ハイトーンはバンバン当てるし、細かいフレーズだって軽やかに決めてみせる。表現力も技術力も学生レベルを遥かに超えている。

しかし由里は疑問に感じていた。吹く曲は短調ばかりな事と、海外に留学しないこと。

コンクールだから長調の曲で華やかに終わりたいと思うのが普通だし、音大生がヨーロッパに留学なんてよくあること。才能あるのならば、留学するのが普通だ。

なのに、神谷夏樹は留学経験が一度もない。何故だろうか。お金だって奨学金を使えばいいし、言語だって意外と伝わるものだ。音楽をやる人なら本場であるヨーロッパに興味が無いわけないだろう。

これについても、神谷夏樹に聞いてみよう。由里はカバンからみかん色の皮カバーがしてある手帳を取り出し、メモをした。
それ以外にも曲を聴いた率直な感想なども書く。

明後日には神谷夏樹の取材がある。楽しみなような不安なような、複雑な心情だ。女の勘ってやつで、神谷夏樹は奇人だろうなと考える。

まあ、天才なんて奇人ばかりだ。

そう考え気持ちを楽にさせる。その後も仕事を淡々と由里はこなした。
20時を過ぎたあたりで仕事を切り上げたが、もう社内は由里だけだった。

結局、寝るまでの間、ずっと神谷夏樹の曲が頭の中を回っていた。