月夜の翡翠と貴方【番外集】



私は涙を拭いながら、苦しい思いを、口にした。


「…なんでルトは、私のそばにいてくれるの…………?」


歪む視界の中で、ルトが目を見開く。

「…どういう、意味だよ」

だって、もう、分からない。

レンウの言葉は私を責めたて、ルトの行動は私を混乱させる。

情けなくて、悔しくて。


私は止まらない涙で濡らした瞳で、精一杯にルトを見つめた。


「…私は、ルトのことすごく好き」

「…うん」

「でももうわかんない」


ルトは、優しいから。

きっと、私がなんの役にも立たない女だと気づきはじめても、嘘をつき続けるだろう。

そんなの、耐えられない。

生きていけない。


「私は、ルトの隣にいるべきじゃないんだよ………」


零れた弱さは、彼の瞳をより一層見開かせて。




そして、顔を歪めさせた。


「…ジェイドは、俺のものだよ」


そう言って、私の首元に顔をうずめる。

見えた彼の顔は、苦しそうで、けれどとても美しかった。

私が、駄目にしてしまう。

自由で美しい彼を、縛ってしまう。


首の下辺りで、少し痛みが走る。

顔を上げた彼は、やはり辛そうに微笑んだ。


「…離さないよ」


私の首の下につけられたのは、キスマーク。

…こんなものつけたら、本当に離れられなくなる。

わかって、いるでしょう。


「…顔色が良くない。寝ろ」


そう言って、彼はベッドとは逆の方を向く。

部屋の扉の前へ立った。


「…どこ、行くの…?」

「……朝には戻るよ。今日はひとりで寝た方が良い」


その言葉を最後に、ルトの背中は扉の向こうに消えた。




「……………」


…しんと、静まり返った部屋で、私の涙が頬を伝う。

怒ってはいなかった。

すごく、切なそうで、悲しそうだった。


「…ごめん、ね……」


言わなければよかった。


あんな顔を、させるのなら。






翌日の朝は、なんとも目覚めが悪かった。


起きてみれば、やはり彼の姿はどこにもなく。

さらに、昨夜はなかなか寝付けず、睡眠が足りていない。


「……………はぁ」


思わず、ベッドの上でため息をつく。


…言うつもりは、なかった。


なんて。

…もう遅い。

吐き出してしまった本音は、もうどうしようもない。

…どう、思っただろうか。

ルトは、私の不安を聞いて、どう思っただろうか。

彼はそれでも『離さない』と言ってくれた。

優しい彼は、それでも私に言葉をくれた。


…悲しげな、顔をして。


もう、こんなことにはならないように、と思っていたのに。

ルトは一度機嫌を損ねると、かなり面倒だということは、前回学んでいる。




私は重たい足をベッドから引きずると、部屋の扉へと向かう。

…ああ、嫌だ。


きっと、今からの朝食では……







「…なにか、あったのかな?」


レンウは苦笑いを浮かべて、向かいの席に座る私とルトを、交互に見た。

「………」

当然、私とルトはなにも言わない。

ルトはなにも聞こえていないようなフリをして、食事を進める。


部屋を出て、食事の席についてから。

…私とルトは、一切の会話を交わしていない。

ルトがこちらを見ないので、私も見ようとは思わない。

案の定、思っていた通り、といったところだが、これではレンウまで巻き込む形になる。




さてどうしようかと思っていると、やはりレンウはニコニコとして、爆弾を落としてきた。


「昨日は…熱い夜を、過ごしたんじゃないの?」


カン、と。

ルトのナイフが、皿に当たる音が響いた。

他の客が何人か、こちらを見る。


「……………」


…やってくれる、この男。

昨日に続いて、さらに恨みがましい思いが込み上げた。


「…あれ?違うのかな?」


少し、黙っていてはくれないだろうか。

空気を読むということを知らないのか、レンウは特に悪びれた様子もなく、笑っている。

ルトが、ナイフを皿に置いたまま固まっているので、仕方なく私は口を開いた。


「…今日は、どうされるんですか」


話題を変えようと、レンウの予定を聞く。

本当は、話したくもない相手だ。

顔を見るだけでも、昨日の夜を思い出して、息が詰まるというのに。




レンウは私の言葉に、「そうだねえ」と意味深に笑った。


「さて、どうしようかな。船に乗ろうかな」


もともとその予定だったし、と言うレンウに、私は内心安心した。

これ以上なにか言われては、たまったものではない。

「…そうですか。お気をつけて」

精一杯に皮肉を込めてそう言うと、レンウはにっこりと笑う。


「楽しい船旅に、なるといいけどね」


…ルトはやはり、なにも言わなかった。






食事が終わり、荷物をとりに部屋へ戻る。

宿の廊下を歩くジェイドの隣に、主人である青年の姿はない。


……さて、どうやって仲直りをしようか。


食事が終わってから、私はそのことしか考えていない。

これまでに、ルトとケンカに似たものをすることは、何度かあったけれど。

大体は自然と元に戻るか、ケンカの原因自体がくだらないことだったりしたから。

…ああ、どうしたものか。


きっと私が謝っても、ルトは納得しないだろう。


私の不安や心配に、彼は怒っているのだから。




昨夜のルトの切なげな目が、私の脳裏に焼き付いている。

…ルトは、優しく愛してくれる。

私の弱さも受け止めて、愛してくれる。


しかしその優しさは、彼自身の足を引っ張っていて。


自由で、身軽で、猫のようなルト。

彼は、前に『縛られるのは好きじゃない』と言っていた。

私のような女に縛られては、彼は自由に動くことができなくなる。

仕事の邪魔にだって、なってしまうかもしれない。

『愛されていられる自信』がない私は、レンウに責め立てられても、なにも言い返すことはできなかった。

情けない。

情けなくて、悔しい。

しかも、それをルトに伝えてしまうなんて、なんて馬鹿な女なのだろう。


はぁ、とため息をついて、部屋の扉の前に立った。

…ルトは、部屋にくるのだろうか。

荷物は部屋にあるはずだから、きっととりにくるだろうとは思うけれど。

そうして扉を開けようとした、そのとき。



「ジェイド」


…その声に驚いて、とっさに横を見る。

しばらく呼ばれないだろうと思っていたので、私は声の主に目を見開いた。





「…な、なに……?」


声が、震えそうになる。


ルトは私と少し距離をとって、廊下の壁に背を預けていた。


ルトは黙って、私をまっすぐに見ている。

迷いがない目。

まっすぐで、きれいな深緑。


「…今日は、どうする?」


それは、毎朝起きたときに、ルトが口にする言葉だった。


『今日は、どうする?』

『どこへ行く?』


笑顔で、とても嬉しそうに訊いてくるその問い。

私はその度、嬉しさに心を温めるのだ。


ああ、今日も彼と一緒にいられるのだ、と。



「…レンウを見送ったあと、どうする?街、まわる?」


けれど、今その問いをしてくる彼の顔は、少しも笑顔ではなかった。

気を遣っているような、しかし僅かに厳しい色を残して。


私は、平然を装おうと心がけ、彼を見つめ返した。