でも私、どこかで少し、ほっとしてもいる。

先輩の想いが、うまくいかなかったことに。

先輩の探してる人が、男の人だったことに。


自分勝手で、私、最低。



「見つかるといいですね、お探しの方…」

「うん、ありがと」



微笑んだ先輩が、ふと遠くを見るように視線を外して。


――時間もないんだ。


そうつぶやいたんだけど、それがどういう意味なのか尋ねる前に、よいしょと彼が腰を上げた。



「俺、次の授業、行くね」

「あっ、あの、これ」



そうだ、と思い出して、善さんへの羊羹をとり出す。



「お世話になったので。あとこちらは、ひと口サイズなので、先輩用に。よかったら」

「えー、俺にまで? ありがと!」



先輩も甘党なのか、予想外に喜んでくれた。

弾ける無邪気な笑顔に、少しほっとする。

渡しとくね、と笑って、いつも提げているトートバッグに、ふたつの包みを入れた先輩が、私ににこりと微笑んだ。



「ほんとに、いい子だね」



うまく、笑えてたら、いいんだけど。

ねえ先輩、男の人って、女の人に“いい人”って言われるのを、あまり喜ばないって、言うでしょう。

今のは、たぶん、まさにそれです。


私の中の、子供な部分は、そう言われて素直に喜んでるんですけれど。

どこか他の部分が、強烈に反発しています。


スカートについた芝をつまみながら、私は、あの、と話しかけた。



「私は、佐瀬みずほといいますが」

「そう何度も言わなくても、俺そこまで記憶力悪くないよ」

「たとえば今後、先輩が誰かに、大学で誰と仲いいのって訊かれた時」



顔を上げると、先輩のぽかんとした瞳とぶつかる。

私はなんだか、駄々をこねているような気になりながらも、言葉はとまらず。



「私を思い浮かべてくださるくらいに、なれたらいいなって、思ってます…」


そう告げた声は、我ながら弱気で、しかもすねていた。

ほんとに子供みたい。

これじゃいい子なんて言われたって、仕方ない。


しばらく、まじまじと私の顔を見ていた先輩が、不思議に目を泳がせて、えっと、と言葉を詰まらせた。

てっきりこの間みたいに笑われると思っていた私は、ちょっと驚いてそれを見る。

そんな私の視線に気づいたのか、先輩が気恥ずかしそうに軽く咳払いをした。



「そうだね、ごめん、えーと、ありがと」

「どうかなさいましたか?」



何その、心ここにあらずの返事? とぽかんとすると、先輩はいよいよ困ったような顔で、まったく目を合わせてくれなくなる。

パーカーの袖で口元を隠して、明後日の方向を見ながら、ごめん、とまた言った。



「何がですか?」

「いや…」



うろうろとさまよっていた視線が、ちらっと私を見て、すぐまた足元あたりに落ちる。

そんな自分にあきれたのか、小さく噴き出すと、苦笑いして。





「ちょっと、照れた」





本当に恥ずかしそうに、そう言った。

長めの前髪に比べて、さっぱりしている襟足をかく様子は、普段のつかみどころのない彼とは全然違い。

長いまつげと黒目がちの瞳が、最初に出会った時、犬みたいだなと思ったのを思い出した。


言葉を探したけれど、見つからなかったらしい先輩が、俺行くね、とつぶやいて、私の横をすり抜けようとする。

つい、その袖をつかんで引きとめた。



「あの、先輩、また」



いつもより少し感情の見えやすくなっている瞳が、軽く見開かれたあと、優しく細められる。



「またね」



まだ残っている照れ笑いを隠すように、軽く唇を噛んで。

ぽんと私の腕を叩くと、校舎のほうへ走っていった。

またね、だって。

初めて、B先輩が次の約束をしてくれた。


嬉しくて嬉しくて、心も身体も飛べそうなくらい軽い。

芝生の小山を駆けおりると、校門までバスに乗るなんて、考えられなかった。

走れちゃうよ、私。

全然走って行けちゃうよ。


ところどころが石畳になっている舗装路を、かかとの低いパンプスで次々駆け抜ける。

B先輩、B先輩、いつか。

私のことを、ただの後輩以上に、思ってくれますか?

友達とか、仲間とか、そこまではいかなくても、それに準ずるくらいのところには私、入ることができるでしょうか?


筋トレも走りこみもしなくなった中、ちょっと調子に乗りすぎたなと痛む肺をなだめはじめたところで、校門が見えた。

バッグの中で携帯が震え、息を整えながら見れば、兄だ。



「はい?」

『今大丈夫か? 何お前、ぜえぜえ言ってるんだ』

「ううん、なんでもない。どうしたの?」



バッグを振りながら、歩いて校門を抜ける。

兄は少し間を置いて、母さんから連絡あったか? と変に持って回った問いかけをしてきた。



「ないけど、どうして?」

『いや、ないならいいんだ、それじゃ』



勉強なまけるなよ、と冗談めかして言うと、唐突に通話を切る。

どうしたんだろうと思いつつも、その時の私は、他のことで頭がいっぱいだった。


大好きな5月の陽気。

日ごとに伸びる日は、まだ傾くのを我慢して、上のほうから山々を照らしている。


何もかもが始まったばかりで、明日が私を優しく待ってくれてる気がする。

私はここで、きっといろんな体験をする。



少しだけ夏を感じる空気を、胸いっぱいに吸いこんで。


意気揚々と、駅への道を歩いた。










「俺、高校上がるまで、かなりちっちゃかったんだよ」

「背がですか?」

「背っていうか、身体が」



木陰の芝生に座った先輩が、カチンとライターの音をさせて煙草に火をつけた。



「小さいし細いし、たまに女の子に間違われたくらい」

「本当ですか」



そんなふうには見えない。

いや、言われてみれば面影はあるかもしれない。

顔立ちは決して男性的ではないし、身体つきも、細くはないけど、がっちりしてもいない。



「だから高校では、もうバスケは無理だなと思って。俺くらいでもレギュラーになれそうな部を探したんだ」

「それが、ハンドボールですか」



そ、とおいしそうに煙を吸いながら、にこっと笑う。


入学してからの日々は猛スピードで過ぎていき、初夏から夏に変わろうとする時期になっていた。

学内で先輩を見つけるコツをだいぶつかんだ私は、そのたびに声をかけて、少しでもお話しして。

先輩のまとう穏やかな空気に、心地よく浸っていた。



「でも、そのあといきなり伸びてね。高1の間に、たぶん20センチくらい伸びたんじゃないかな」

「なんだか、メキメキって音がしそうですね」

「実際してたと思うよ。身体中痛くて、肉が全然追いつかなくて。走ったり跳んだりが、急にできなくなっちゃって」

「ええっ」



そんなことあるのって思うけど、聞いたら実際あるらしい。

骨ばっかり成長して、それを動かす筋肉が足りなくなり、一時的に運動能力ががくんと落ちるんだとか。

今の先輩は、たぶん174とか175センチだから、中学校の時は、確かにかなり小さいほうだったってことだ。



「それも2年になったら落ち着いたかな」

「私は、中学の時から、伸びてないです…」



ずーっと155センチ。

しいて言えば小さいほうだけど、別に普通の範囲内だから、あまり身長について悩んだことってない。


「父も兄も小柄なんです。170弱くらいで」

「やっぱり、お兄さんいるんだ」

「やっぱりって、なんですか?」



だって妹っぽいもん、と先輩が笑う。

だいぶ暑くなった最近でも、薄手のパーカーを羽織って、袖をたくし上げた腕を、立てた片ひざに置いている。

ここは風の通り道らしく、ひんやり涼しい。

先輩は、こういう場所を見つけるのが上手だ。


猫か、と真衣子があきれていた。

冬は暖かく、夏は涼しい場所を目ざとく見つける猫。

確かにB先輩も、同じ才能を持ってると思う。

でもそれを話した時、そんなことないよ、と先輩は笑った。



『気のせいだよ、そんなの』

『でも実際、先輩のいる場所は、気持ちいいです』

『それは単に、気持ちよくなかったら、俺がすぐ場所を移るってだけで。見つけるのがうまいのとは、違うよ』

『そうか、じゃあもしかしたら猫も、右往左往したあげくの場所決めなのかもしれませんね!』



新しい見解だね、とくだらない話で笑う。

話ができた日は、一日浮かれて、なんでもうまくいくような気になって。

会えない日は、前に交わした会話を思い返して、次会えたら何を話そう、と考えて。

B先輩は、私の気分を好きに揺さぶる。



「そうだ、この間のプリンね、明日出るらしいよ」

「えっ! どうしてご存じなんですか」

「食堂で学内バイトしてる子が、教えてくれるんだ」

「………」



ほんと、揺さぶる。

この言いかたは、十中八九、その子って女の人でしょ。

もしかしてプリンを手に入れることができたのも、その人がとっておいてくれるおかげだったりするんじゃ。


次の言葉が見つからなくなって、すっかり夏の素材になったスカートをじっと見つめた。

俺はこの前食べたばかりだから、いいや、とにこにこしながら先輩が新しい煙草に火をつける。



「ひとつ、とっといてもらってあげようか」

「いえっ、大丈夫です」


とっさに両手を振って断ってしまってから、失礼だったかとあせった。



「ありがとうございます、でもあの、めったに食べられないほうが、レア度が増して、楽しいと思うので…」

「あー、わかるよ」



おんなじ、と微笑まれてしまい、心底申し訳なくなる。

ごめんなさい、先輩、お気遣い嬉しいです。

だけど先輩と仲よしの女の人にとり置いてもらったプリンを、のこのこ受けとりに行く度胸なんて、ないです。


食堂の人かどうかわからないけど、B先輩には最近また、噂になっているお相手がいる。

私も一度見かけたけれど、これまでの例に漏れず、経験豊富そうで大人っぽい、綺麗な人だった。


相手がいる人に、こんなにひっついてたら非常識だし、それ以前に、迷惑だろうか。

たまにそんな不安がよぎるけれど、会えば先輩は、嫌な顔ひとつせずにつきあってくれる。

鷹揚な人、とあったかい気持ちになったところで、はっと気がついた。

先輩、と呼びかけると、ん? と煙草をくわえた顔がこちらを向く。



「先輩、妹さんいらっしゃいます?」

「よくわかったね」

「はい、なんとなく…」



やっぱり…。

力なく答えた私に、先輩が微笑んだ。



「俺も、お兄さんいる子は、なんとなくわかるよ」

「あの、もしかして、たとえばですね」



あのですね、と言いだしづらい中、切り出してみる。

自然と手はもじもじと、シフォンのスカートをいじった。



「私と話すのは、その、妹さんとお話ししているような気分だったり、しますか…?」



先輩は目を丸くして、少しの間、黙る。

私の思いを察しているのか、いないのか、やがて楽しそうに笑うと。



「考えたことなかったよ、そんなの」



木漏れ日の中で、そう言った。






「真衣子、どうする?」



夏休みに入ったらすぐに、県内の宿泊施設でサークルの合宿があるという情報が送られてきた。

これも新しい体験だと私は参加することにし、語学の授業で顔を合わせた真衣子に訊いてみる。

すると彼女は、綺麗な顔をなぜかちょっとしかめた。



「槇田先輩が来るかどうか、知ってる?」

「4年生は基本来ないって言ってたよ」

「なら行こうかな」

「何かあったの?」



先生がまだ来ていないので食いつくと、辞書を繰りながら、真衣子が低い声を出す。



「ふられた」

「いつ!」



この間、とテキストに直接和訳を書きこみながら言う。

語学でノートを使わない主義なのは、私と同じ。

わざわざ原文を書き写して、さらに和訳を書きこむなんてナンセンス、という教えの先生が中学校にいたせいだ。

イディオムは音のリズムで覚えなさい、と説いて、書いて覚えろ派の先生と真っ向からぶつかっていた。



「彼女つくる気はないんだってさ」

「仲よかったのに」

「誤解させてごめん、だって」



それは、真衣子がかわいそうだ。

さっぱりした性格の真衣子と快活な槇田先輩は気が合っていて、このままおつきあいするんだとばかり思ってた。



「みずほこそ、加治くん、どうするの」

「帰省先でバイトするから、合宿には来ないって」

「ちゃんとチェックしたんだ」



偉いじゃん、と笑われて、恥ずかしくなった。

別に、彼が来るなら私は行かないとか、そんなことを考えたわけじゃないんだけど。

でも不参加リストに彼の名前を見た時、少し安心したのは確かだった。

数日みんなで過ごす中に加治くんがいたら、私はきっと意識せずにはいられない。

避けるのも無粋だし失礼だと思うけど、なんにも気にしてないふうに振る舞うのも、やっぱり失礼な気がする。


こういうのって、難しい。


「じゃあ真衣子も行く?」

「そうする。まあまずは試験だよね。なんでみずほって、そんなにフランス語余裕なの?」

「高校の時、授業があったの」

「フランス語の?」



そう、とうなずくと、さすがお嬢様校、と真衣子が目を見開いた。



「裏切らないでしょ」

「裏切らないね」



笑っていると先生がやって来て、私たちは真面目に、講義に参加する態勢を整えた。



大学の夏休みの長さに驚いた。

だって兄は、そんなにゆっくりしていた様子はなかった。


夏休みも春休みも丸二ヶ月あるなんて。

これはアルバイトでもしないと、時間がもったいない。



休みなんて、そんなにいらないのに。

学校がなかったら、B先輩に会えない。

7月末の試験が終わったら、次会える可能性があるのは、10月ってこと?

季節が変わっちゃうじゃないか。


そんなに会えなくて、耐えられるかなと思う間にも無情に時は過ぎ。

大学に入って初めての試験を終え、夏休みを迎え。


神様は意外と気まぐれだったことを実感する。










「うわあ、綺麗!」

「天然の海岸なんて、東京じゃ見ないんじゃない?」



そうですねー、と少し開けた窓から入る風を浴びながら、きらきら光る白い砂浜をうっとりと眺めた。

学校所有の合宿所は、大学から県内をずっと南下した、海辺の町にあった。

何人かの先輩が車を出し、それぞれ分乗しての旅だ。


大学に入ってびっくりしたことのひとつに、車通学が許されているというのがある。

許されているというか、かなり当たり前。

大きな学生用駐車場があって、新車も外車もとまってる。


「ひとり暮らしNGの代わりに、車買ってあげる、みたいな家じゃない? うちもそのクチ」



私が乗せてもらった車の持ち主である先輩が、あははと笑った。

コンパクトな赤いワゴンに5人が詰まったこの車は、結果的に女の子専用車両となり、道中は気楽なトーク満載だ。

と言っても、あえての下品なネタも恋愛ぶっちゃけ話もなく、みんなわいわい、サークル内の男の人の噂なんかを無責任に話す。


ふと槇田先輩の話になった時、隣の真衣子と目が合った。

私と真衣子以外は3年生同士なので仲がよく、かっこいいよねーなんて笑いあっている。



「なんで彼女つくらないんだろうね」

「結局ひとりもつくらなかったよね?」

「言ってるだけで、実はいたのかもよ」

「でもそういうのって、絶対わかるじゃん。実際いなかったっぽいよ、やっぱり」



そこがまたいい、なんて声があがると、真衣子は複雑な顔で、窓の外に目をやった。





宿泊施設は、三角屋根で二階建てのロッジが延々つながったような、おしゃれで可愛いつくりだった。

いかにも土地が余ってるんですという風情で、テニスコートも数えきれないくらいあって、よそのサークルも来ている。

もともと高かったテンションがさらに上がった私は、割り当てられた真衣子との二人部屋に入って、歓声をあげた。



「可愛い!」

「ほんとだ、こりゃ可愛いわ」



淡いサーモンピンクの壁に、白木のダブルベッド、カーテンや調度も全部白で、一見すると子供部屋みたい。

あとから確認すると、スチールとモノトーンでまとめられた部屋もあったり、ナチュラルなウッドテイストの部屋もあったりで。

素敵な遊び心に感心させられるばかりの施設だった。



食料をどっさり買い込んで、三食自炊。

朝、日が高くなる前に数時間テニスをして、日中はビーチに行き、少し涼しくなる頃からまたテニス。

OBがちょこちょこ立ち寄って指導してくれたり、差し入れをくれたりしつつ、集中してみっちり練習できるのは、楽しかった。

毎晩宴会騒ぎかと思いきや、真面目なこのサークルは、ナイター設備を使って、夕食後もテニスだ。

中学校時代は全国行ったよ、とか、ジュニアクラブで海外遠征行ったよ、とか、そこそこ本格的な人が集まっているので、自然そうなる。