長い沈黙が降りた。
その間にも空はぐんぐん黒さを増して、一気に時間が進んだみたいにあたりが暗くなる。
やがて先輩が、俺、とぽつんと言った。
こわごわ見あげると、言葉を探してか、その瞳は私の足元あたりをさまよっていた。
少し寄った眉は、つらそうにも痛そうにも見えたんだけど、もしかしたらそれは、私の願望だっただけかもしれない。
先輩が、バッグにかけていた右手を、パーカーのポケットに入れた。
一瞬だけ、目を伏せて。
またまっすぐに私を見ると、困ったように笑う。
「そんなこと、言った?」
心の砕ける音がした。
腰に回した腕で、先輩が女の人を促した。
綺麗な髪を肩の上でそろえたその人は、気遣わしげに私を振り返り、だけどB先輩はこちらを向くことなく、歩いてく。
どうやって帰ったのか、覚えていない。
アパートに着く頃にはずぶ濡れで、濡れた足で部屋に上がった私は、フローリングの廊下で滑って転んだ。
ふらつきながらバスルームで吐いた。
どうやってかお風呂を沸かして、ようやくぼんやりと頭の働きが戻ってきたのは、お湯に浸かってしばらくたった頃だった。
今ごろ涙が出てきた。
バカな涙。
どうせなら、先輩の前で出てくればよかったのに。
そうしたら少しは、この痛みを伝えられたのに。
今さら出てこられても。
私ひとりじゃ、抱えきれない。
割れるように頭が痛んで、水面に次々涙が落ちた。
膝を抱えて、声を殺して泣いた。
それこそ、おかしくなるんじゃないかと思うくらい泣いた。
わかってた。
覚悟してた。
でも、期待もしてしまってたの。
もしかして私だけはって、どこかで思ってた。
冷めて、ちょうど体温と同じくらいになったお湯が、誰かに抱かれているような感覚を抱かせた。
耳鳴りの中、先輩の声が蘇った。
『起きた?』
『…私、寝てましたね』
すぐ寝ちゃうよね、と優しい声が笑う。
机に向かう彼は、やっぱり手紙を書いていた。
裸のままだった私は、タオルケットに身をくるんで、そばまでいざり寄った。
私が特にのぞきこんだりしないことをわかってるんだろう、先輩は便箋を隠すこともなく、肩にもたれた私に、キスを落とす。
『あのね、たぶんちょっと、熱があるよ』
『私ですか?』
いきなりそんなことを言われて驚いた。
早く服を着て、ちゃんと寝たほうがいいよと言われて、その前にシャワーを借りたいとお願いした。
『こんなにあちこち、汚れるものだと思いませんでした』
『主に汚す張本人が、何言ってるの』
赤くなってうつむくと、先輩が笑って肩を抱いてくれる。
当然のように唇を重ねて、舌を合わせてくれる。
挨拶程度かと思ったら、なんの弾みか、その触れあいは妙に濃くなり、お互いの息が弾んだ。
『こういう、ぐちゃぐちゃになる感じ、俺は好きだよ…』
吐息にまざって、先輩のそんな声がする。
私も好きです、先輩となら。
肩に回っていた手が首の裏に移動して、やっぱり熱いね、と確認された。
『全然気づきませんでした…』
『自分のことって、意外とね』
そう言った先輩が、ふいにタオルケットの隙間から手を差しこんで、私の膝の裏あたりをなでる。
私はびくんと跳ねあがり、身体がじわっと温まるのを感じて先輩をにらんだ。
ほらね、と楽しげに笑う。
『こういうのが、いいよね』
『どういうのですか?』
『本人より、本人を知ってるみたいな』
言いながら、首筋と肩に次々落とされる唇と指が、ことごとく私を震わせる。
『この身体だって、もう』
前でかきあわせていたタオルケットを、ほどかれた。
にこりと笑って、人差し指を、とんと私の胸の中央に置く。
『たぶん、俺のほうが、知ってる』
わかるために、するんだよ、と最初の時、先輩は言った。
ぐちゃぐちゃにとろけて、まざりあって、自分でも気づかない何かを見つけてもらうためにするんだって、私も知った。
頬を落ちる涙が、浸かっているお湯より熱い。
私は、先輩の何を知っただろう。
ねえ先輩、どこまで本当でした?
私、幸せだったんです。
わかってた。
覚悟してた。
でも、こんな形でなんて、思ってなかった。
今だなんて、考えもしなかった。
出たら凍えてしまいそうで、冷めていくお湯から上がることができない。
どこにも行けない。
冷えたひざに、熱いしずくが落ちる。
どこまでが本当でしたか、先輩。
まさか全部嘘でしたか。
どうして、なんて。
訊くほうがバカですか。
ねえB先輩。
どこまで本当でしたか。
ねえ、どこからが。
どこからが、勘違いでしたか。
何も喉を通らない日が続いた。
バイトもテニスも行かずに、部屋にこもっていようとも思ったけれど、そんなのなんの意味もないとわかっていたので、普段どおりに生きた。
それが少し、私を助けてくれた。
いつもどおりに暮らしていると、自分もいつもどおりだと、錯覚することができる。
少しの間なら、錯覚の力で動くことができる。
だけどそれは。
本当に少しの間だけ、だった。
「あれ…」
「みずほ、あの先輩と何があったの」
クリーム色のカーテンに囲まれた場所で目を覚ますなり、真衣子の厳しい顔が視界に入ってきた。
私、テニスコートにいたと思ってた。
軽い熱中症と貧血が重なったんだろう、と意外に冷静に推測できる自分に驚く。
ずっと冷やしていてくれたらしく、顔を真衣子に向けた時、冷たいタオルが額から落ちた。
「ごめんね、迷惑かけちゃった」
「迷惑とかじゃなくてさ、心配したよ」
どこかで聞いた台詞に、胸をえぐられた。
とっさにタオルで顔を隠して、ほてりを冷ますふりをしながら、涙をやりすごす。
けど真衣子は、ごまかされてくれなかった。
「つきあってたわけじゃ、ないよね?」
タオルをあてたままうなずく。
それじゃわかんない、喋って、と怒られる。
「つきあってない…」
「でも、それらしいことはしてたよね?」
真衣子の言っているのが、どの程度のことなのかわからなかったので、正直にわからないと言った。
それらしいって、どういうこと?
私、先輩と出かけたこともない。
近所にごはんを食べに行くくらいで、デートみたいなこともしたことない。
一緒に学校に行ったこともないし、一緒に帰ったことすらない。
そういう状態を、どう呼ぶの?
黙るしかできない私に、軽くため息をついた真衣子が、脚を組んで携帯を開く。
「加治くん呼ぶよ、いいよね」
「えっ」
「あんたをここまで運んでくれたんだよ。目も覚めて、わりと元気だって知らせてあげないと」
「そうなの…」
加治くんにも、心配と迷惑をかけた。
ここは、たぶんどこかの校舎の医務室だ。
コートからは相当遠かっただろうに、運んでくれたんだ。
加治くんに合わせる顔なんて、ないよ真衣子。
あんな人やめなよって、忠告してくれたのを無視したくせして、こうして傷ついて折れて。
全部覚悟してたことだけど。
こんな状態になるなんて、それって結局、覚悟なんて全然できてなかったってことじゃない?
少したって現れた加治くんは、私の無事を喜んでくれて、でもずっと、厳しい顔をしていた。
いつも明るくてにこにこしている加治くんの、あんなに固い表情を、初めて見た。
呆れるよね、ごめんね。
こんなみっともない自分、消してしまいたい。
でも消えるなら、最後にB先輩に会いたい。
そんなふうに思う自分を、愚か以外の何ものでもないと思った。
後期が始まると、B先輩はカリキュラムが変わってしまったらしく、それまでほど顔を合わせなくなった。
3年になると、1、2年次と違い、通年の授業が減る。
きっとそのせいだと。
避けられているわけじゃないと、必死で信じた。
母と兄からの連絡は、来なくなった。
私の頭が冷えるのを待つことにしたんだろう。
けど、勝手なことに私は、ふたりに見捨てられたような気持ちになった。
10月に入っても、暑い日が続いた。
いつまでもぐずぐずと終わらない夏に、イライラと焦れた。
強い日差しは、あの部屋を思い出させる。
汗ばむ肌は、あの身体を思い出させる。
もう許して。
「きゃあ!」
コートに入るなり、水に顔面を打たれた。
なんだか騒がしいと思ったら、水まきをしていたらしい。
乾燥している土のコートにお湿りを、というのが最初の目的なんだろうけど、陽気も手伝って、もうすっかり水遊びの様相だ。
鼻に入った水にむせる私を、周囲が笑った。
ひどい、とむくれつつ、久しぶりにバカ騒ぎができそうで、気持ちが上向く。
私のあとに入ってきたグループも狙われた。
うわっと声をあげたのは、先頭にいた槇田先輩だ。
気の毒に、手に持っていたプリントが台無しになった。
ホースを向けた3年生が、すみませんと慌てて頭を下げる。
「元気だなあ。いいよ、ただの下書きだし」
「卒論すか?」
「そう、中間発表がもうすぐだから」
清潔な短めの髪をかきあげて、槇田先輩が笑う。
慕われている彼のもとに、数人が集まった。
「大変すね、今のうちから準備とか、しといたほうがいいですか?」
「題材にしたい分野くらいは絞っておいたほうがいいかも。単に、今やってる中で、好きな部分ってことだけど」
親切に答えながら、これ以上濡れないようにか、バッグとプリントを私のいるベンチに置きに来る。
でもそれは、私に話しかける口実だったことがわかった。
真衣は来ないの? と少しひそめた声で訊かれたからだ。
槇田先輩、真衣子を真衣って呼ぶんだ。
女の子同士でも、そんな親しげな呼びかたしてる子、見たことないのに。
「今日は、講義があるので」
「そっか」
真衣子のこと、ちゃんと考えてください。
そう言おうとしたんだけど、先輩の顔を見たらできなくなった。
この人、たぶんもう、相当考えてくれてる。
真衣子の名前を出した時の優しい声と、そのあとの苦悩に満ちた表情が、それを物語ってる気がする。
きっと何か。
何か、事情があるんだ。
その時、おいBだぜ、という声が聞こえて、ぎくっとした。
「用意しろ、用意」
「最近あいつ、また盛んなんだろ、天罰だ」
こそこそと楽しげに、水道の近くで悪巧みが進行している。
ひとりの先輩が、B、と大声で呼びかけた。
じわりと汗が出た。
私がいることを気づかせれば、こっちには来ないだろう。
でも気づかれたくない。
何やってんの? というフェンス越しののんびりした声に、いいから来いよ、と答えが返る。
B先輩が、こちらに向かってくる足音がする。
どうして。
どんな顔すればいいの。
「行くぞー、せーの」
明らかにホースを使ったものじゃない、激しい水音が、B先輩のうわっという声と重なった。
やったー、と仕掛けた先輩たちが嬉しそうにはしゃぐ。
見ると、B先輩は至近距離からバケツの水を浴びたらしく、頭から腰までぐしょ濡れで、ぽかんと立っていた。
水の染みた煙草をくわえたまま固まって、呆然と犯人たちを見ている。
「…火消せっていうなら、もうちょっと穏便な方法があるよね?」
「そこじゃねーよ、色男」
追い討ちをかけるように、ホースで水が噴射された。
さすがのB先輩も、腕で顔をかばいながら、何すんだよと抗議の声をあげて、それでもやまない水に笑って逃げる。
あっちに行けばホースにつかまり、こっちに行けばバケツが待っている。
いつの間にか槇田先輩たち4年生も一緒になって、全員がびしょ濡れになりながら、そんな鬼ごっこを楽しんでいた。
「もーやめやめ、終わり、俺の負け」
先輩が輪を抜け出して、こちらに来る。
負け逃げすんな、と罵声を浴びつつ、濡れた頭を一度大きく振って水気を飛ばす仕草に、心臓がしめつけられた。
シャワーやお風呂から上がる時の、先輩のくせ。
ほんと犬みたいだなって、いつも思ってた。
歩きながら、水のしたたるパーカーを脱ぐ彼と、目が合う。
その表情で、私がいることに、彼が最初から気づいていたことを知った。
私の座るベンチにバッグとパーカーを置いて、肌に張りついたTシャツを、脱ぎにくそうに頭から抜く。
ぎゅっと絞ると、ぼたぼたと落ちる水が、足元に水たまりをつくる。
「うわー、B、お前それ、やばいよ」
「え?」
面白がるようにかかった声に、先輩が振り向いた。
絞ったシャツで頭を拭く先輩の背中が、少しこちらを向く。
めまいを起こすかと思った。
何本も縦に走る、赤い筋。
見てみろよこれ、とそれを指してはやし立てる声に数人が集まり、私の目の前でにぎやかにB先輩を冷やかす。
自分では見えない先輩はきょとんとして、けど途中で思い当たったらしく、さっとシャツを頭からかぶった。
気づかなかったのかよ、と笑う周囲に、バツが悪そうに言い返す。
「だって別に、痛くないし」
「そこまで跡がついてんなら、やられた時は痛かっただろ」
「こっちだってそれどころじゃないじゃん」
もうやめて、と叫びたかった。
わかってました、私じゃ相手になってなかったって。
教わるばかりの私は、同じものを返せるわけなんてなくて、先輩はいつも少し余裕を残して、私の手を引いてくれてた。
そんなこと、今ここで思い知らせないで。
うらやましーと頭を叩かれながら、先輩が苦笑する。
その時、カシャンとフェンスが開き、うわっと声がした。
「水浸しじゃないですか、何やって…」
加治くんだった。
途中で言葉を切った彼が、立ちすくんでこちらを見ている理由に、気づいた時には、遅かった。
とめる間もなく駆け寄った彼が、B先輩の胸元をつかんで突き飛ばす。
先輩が倒れこんだフェンスが、派手に揺れて鳴った。
「あんた…よくこんなところ、のこのこ顔出せるな」
加治くんの声は、怒りに震えていた。
見つめ返すB先輩の前髪から、水滴が落ちる。
「加治くん…やめて」
「出てけよ」
私の声を無視して、ベンチにあったバッグを、憎々しげに先輩に投げつける。
続いてパーカーをつかもうとした時、彼より早く、B先輩の手がそれをとりあげた。
カーキの生地から水が飛んで、土に点線を引く。
その行動の意味が、わからなくて当然の加治くんは一瞬戸惑い、それでも、出てけと再度言った。
ふたりがじっと見つめあう。
先輩の視線が、一瞬、私に移り。
ほんのわずかな間絡んで、ふいと外れると、B先輩は無言のまま、扉へ向かった。
「加治、どうした?」
加治くんの、めったに見ない剣幕に、みんながあぜんとなりゆきを見守る中、そう声をかけたのは槇田先輩だった。
他の先輩と同じように、びしょ濡れになったTシャツを脱いでいる。
なんでもないです、と低く答えた加治くんが、なぜかまだコートを出ないB先輩を見咎め、顔を歪めた。
「何やってんだよ、早く出てけ!」
その鋭い声も耳に入らないようで、B先輩は足をとめたまま、何かを見ていた。
加治くんじゃない。
視線は彼を通り越して、何人かの先輩たちに注がれている。
心なしか、蒼ざめているようにも見える、顔。
B先輩は、何事かをつぶやいて。
いきなり身をひるがえすと、激しく扉を鳴らして、コートを走り出ていった。
とり残された誰もが、呆然とそれを見ていた。
私は、なぜか震えがとまらなかった。
パーカーに触れられることを、極端に嫌った先輩。
ポケットの中身を知ってから、彼の右手がそこに入れられるたび、私の心はひやりとすくむ。
思い返せば彼は、しょっちゅうそうしていた。
まるで何かを、確かめるみたいに。
さっき彼が発した、声にならない言葉を。
きっと私だけは、聞きとれていた。
愕然と目を見開いて、誰かを見ていたB先輩。
彼の発した言葉は。
“見つけた”