「ちょっと待って」
お店のガラスにある貼り紙を見て、思わずそう言っていた。
返事を待たずにリュウの腕をグイグイ引っ張り、そこに近寄って行く。
「アルバイト募集だって」
テンションが急激に上がって行くのがわかった。
さらにお店の雰囲気や外観も可愛くて、かなりあたし好み。
レディースとメンズの両方が入っているお店でわりと大きいのに、あまり知られていないブランドなのか店名を見てもピンと来なかった。
でも、惹かれるなにかがある。
働きたいと、直感でそう思った。
実はあたし、前のお店をクビになってからニートだったんです。
それでもなにも言わないリュウに今まで甘えて来たけど、さすがに甘えっぱなしはダメだと思い始めた今日この頃。
「はぁ⁉働く気かよ⁉」
「え⁉うん」
いきなりまた不機嫌な声を出したリュウが、本当にわからなかった。
握られた手にギュッと力が加わる。
え⁉
なに……⁉
「働く必要ねぇだろ?」
リュウの言葉に耳を疑う。
「な、なんで?」
働く必要がない?
「欲しい物はなんでも買ってやる。生活費だって俺が面倒見てやるから」
「いや、でも……」
結婚してるわけでもないのに、リュウにそこまでしてもらうのは気が引ける。
「なに、嫌なのかよ?」
「嫌とかそういうことじゃなくて……結婚してるわけでもないし……」
「じゃあ結婚するか」
モゴモゴと口ごもるあたしに、リュウはサラッとそう言った。
「なっ……なに言ってんの⁉」
冗談でしょ?
しかも、“じゃあ”って……
仕方ないからそう言ったって感じに聞こえる。
「冗談、だよね……?」
いくらなんでも話がぶっ飛びすぎだよ。
「マジに決まってんだろ?冗談でんなこと言わねぇよ」
疑うあたしに少しムスッとしながら、リュウが言った。
「い、いきなりすぎてビックリっていうか……なにも考えられないよ」
しかも、このタイミングで言う?
ドキドキしないわけじゃないし、結婚したくないわけでもない。
だけど今のあたしには、結婚を持ち出したのがバイトさせない為の手段のように思えて複雑な気持ちになった。
「で、でもまだ早いかな。あたしだってまだ好きなことしたいし……働きたい」
なんだかんだ言って、結構アパレルの仕事は好きだったから。
「好きなことってなんだよ?」
怪訝な顔でそう聞くリュウは、納得していないような口振り。
眉を寄せて眩しそうにしながらも、真剣な表情をしている。
「旅行とか……色々思い出作ったり」
「それは結婚してからでも出来るだろ?」
「そうだけど……今しか楽しめないことをしたいじゃん?」
「今しか楽しめないことって?」
「それはまぁ色々」
結婚ってなると色々縛られるっていうし、自由に遊びに行けなくなっちゃうイメージが強い。
同棲してるだけの時とはワケが違うんだよ。
っていうか、リュウって結婚願望あったんだ……
だけど
純粋にあたしとしたいと思ってくれてるの?
バイトさせない為の手段?
そう考えると、胸の中に複雑な感情が渦めいてどんより暗い気持ちになった。
「わかった。もうなんも言わねぇよ」
リュウは小さくため息を吐いてから、あたしに向かってそう呟いた。
その言葉通り、その後リュウはなにも言わなくて。
ひどく突き放された気がした。
あたしが拒否したから気を悪くしちゃった?
だけど、あたしは悪くないよね?
間違ってないよね?
気まずいままタクシーに乗り込み、軽くランチをしてから部屋に帰った。
バイトのことも
結婚のことも
なにもかもが中途半端な状態のまま、聞き出すことが出来なかった。
あれから何日か経ったけど、表面上はうまくいっていた。
宣言通り、あれからリュウはあたしになにも言って来ない。
「眠くないの?」
帰って来てから、パソコンに向かいっぱなしの広い背中に声を掛ける。
「んー……これ明日までだし。もうすぐ終わっから」
パソコン画面を凝視したまま、リュウは一度もあたしを振り返らない。
スーツを着たままの後ろ姿を見て、寂しい気持ちをグッと呑み込んだ。
ソファーに腰を沈めて、窓の方に目を向ける。
今日も暑そうだな。
快晴の空を見ながらそんなことを思った。
正直、働いていないから毎日暇で仕方ない。
昼間は部屋にいてくれると言っても、夜働いているリュウとあたしではほぼすれ違いの生活。
お昼前に寝て夕方に目を覚ますリュウ。
最近はお店が忙しいらしく、起きてすぐに部屋を出て行くことが多い。
『Rose Pink』にも全然顔を出せてないことがちょっと寂しかったり。
リュウと過ごす時間が減ったこと
なんでもない振りしてるけど、本当はすごく寂しかったりしてるんだ。
仕事が忙しいのはいいことだけど、職業が職業なだけに不安が大きい。
「今日の夜、ユメさんの家にご飯食べに行って来るね」
未だパソコンに向かい続ける背中に、あたしはスマフォの画面を見つめながら言った。
実は昨日、ユメさんから急なお誘いがあったんだ。
すっかり仲良くなり、こうして時々会ったりしてる。
「帰り、あんま遅くなんなよ?それと、危ねぇからタクシーで行って帰って来い」
まるで小さい子に言うみたいな言い方。
あたし、子どもじゃないってば‼
心配してくれるのは嬉しいけど、されすぎも困りものだ。
視線を感じて顔を上げる。
リュウの目は、いつの間にかパソコン画面からあたしへと向けられていた。
「な、なに?」
抗えないような強い瞳に、思わず鼓動が飛び跳ねる。
そうやって見つめられるだけで、心臓が鷲掴みされたみたいにギュッとなる。
その場から立ち上がってあたしに詰め寄るリュウを、呆然と見ていることしか出来なかった。
「浮気出来ねぇようにしとかねぇとな」
口元に妖しい笑みを浮かべたリュウが、耳元でそっと呟いた。
色っぽいその声に、全身が身震いする。
「う、浮気って……?」
なんでそんな。
「俺のだって印付けとかねぇと」
真横に感じるリュウの温もり。
その腕が腰に添えられ、強引にリュウの方へと引き寄せられる。
「ちょっ、リュ……んっ」
あっという間にソファーの上に組み敷かれ、唇を塞がれる。
「んっ……ふ」
甘く溶かすというよりも、貪るようなリュウのキスに翻弄されて他のことが考えられなくなる。
その腕が、胸が、唇が、温もりが、今この瞬間あたしだけのものだという事実がたまらなく嬉しい。
それだけで、不安な気持ちが一気に吹き飛ぶ。
「んっ……やぁ」
首筋へとリュウの唇が移動して、そこに舌を這わせられる。
首が弱いと知っているからか、執拗にそこを攻められた。