昼間はしんと静まり返り、夜になると男女の営みの場となり、賑やかになる花街。


そんな花街のとある店に、【月】(ツキ)という名の見習い遊女がいた。


彼女は上の姐様達に付きながら、物心がついた時から、芸妓となる修練を積んでいた。


だからか、彼女は自分の両親の顔を知らないし、故郷と呼べる地もない。


普通の女なら悲しいとか、寂しいとか思ったりするのだろうが、月はそんなこと一度も思ったことはなかった。


ここにいて、立派な芸妓となり、今まで助けてくれた【大久保】様にお仕え出来れば良いと考えていたのだ。


この日も、上の姐様【綾子】に付いて、大久保のいる座敷へと向かっていた。



「大久保様、綾子どす。入ってもよろしゅうございましょうか?」


「ああ、入って来い。」


障子が開けられ、綾子に続いて部屋に入る月。


「ふん、連れて来たか。元気だったか【月】?」


「はい。大久保様もお元気そうで何よりです。」


「気づかいの言葉は出ても、くるわ言葉はまだ出てこないみたいだな?」


「……!」


「まあ、その方がお前らしくていい。【史朗】は元気にしてるのか?」


史朗というのは、月の義理の兄のことである。


月と一緒に武芸を大久保から、習ったことがあり、今はこの店の護衛をしていた。


「はい、元気にしております。」


「ならいい。お前達兄弟には、私がいなくてはならんからな。拾った子供達が元気に育つとは悪いものではない。」


「ありがとうございます。」


「大久保様、せっかくいらしたのですから、他の芸妓も呼び、くつろいで行かれてはいかかですか?」


「いや、いい。私は忙しいからな。そんなことをしている暇はない。」


立ち上がり、部屋を出て行こうとする大久保。


「……綾子。」


ふと、大久保が足を止める。


「月は、月はいくつになった?」


「十六になりますが……。」


「そうか……、引き続き、月を頼むぞ。」


それだけを言って大久保は出て行った。









それから、月は仕事へと戻り、慣れた手つきで、賑やかになっている座敷を行ったり来たりしていた。


「………どうぞ、おくつろぎ下さいませ。」


中へお辞儀をして襖を閉め、次の座敷へと向かう。


「……史朗兄さん!!」


廊下を歩いて行く史朗を見つけ、駆け寄る月。


「月か…。どうした?」




「さっきね、大久保様に会って来たのよ。」


「大久保様に……?それで、お元気でいらっしゃったか?」


「ええ、とてもお元気だったわ。史朗兄さんも元気だって言ったら喜んでいたわ。」


「そうか、あの人には相当世話になっているからな……。」



ーー数十年前。


この薩摩の地で、行き倒れとなった二人の兄弟。


周囲には親らしき姿はなく、捨て犬のように捨てられていた。


兄が抱いていた赤ん坊には、胸の傷があり、今もなお傷が残されていた……。


なぜ、傷を負ってしまったのか……。



どうして両親がいないのか………。



それさえも分からない。



そんな死にかけた兄弟を救ったのが、薩摩藩主である【大久保】であった。


二人は藩主の助けのおかげで、今こうして生きていられるのだ。




「近いうちに、会いに行ってみるか。月も来るか?」


「ええ。」


「月ーー!月ーーー!」


女の呼ぶ声が聞こえる。どうやら、少し長話になってしまったようだ。


「じゃあ もう行かないと…!」


「ああ……。月!」


「?」


「………気をつけろよ?」


「……ええ。史朗兄さんもね。」


月は女の呼ぶ方へと向かった。








夜の忙しさは、見習いを含めて全員が同じこと。


特にこの店は高級老舗の遊郭として有名で、朝までお客が堪えることはない。


一人前となった姉様達は、舞を踊ったり釈をしたり、時には客の相手をしたりして、お客様を精一杯もてなす。


月達見習いも、客はとらないが、自分達の姉様について、お客様をもてなすために、一生懸命にあちこちと動き回るのだった。



遊郭が落ち着くのは、日が上る少し前のこと。


お客はまだ足りないような顔をしながら、花街を後にしていく。


ここからは、彼女達のひと時の安らぎの場となるのだ。



片付けを終え、それぞれの身支度をすませると、皆が大広間へと集まって来る。


位別に上座からお膳と席が配置され、それぞれの位ごとに座っていく。


月達見習いは一番隅の下座だ。そこに仲間と一緒に座る。



「皆集まったか?昨日はご苦労であった!お客様もたいそうお喜びであったぞ!」


一番奥の上座に座る店の主である女将が、皆の労をねぎらう。


女将の音頭と共に朝食が始まるのだ。


「朝食を取る前に皆に重要な知らせがあるゆえ、心して聞くがよい。」



「以前より知らせていた通り、見習いの水揚げの日が決まった。」


「……!?」


「今度、薩摩藩邸で大きな宴があるそうだ。そこで、水揚げを行うこととした。気に入られた者から順に水揚げをすることになるが、皆立派な芸妓となるための一本だ。無礼がないようにするのだぞ。」


「………。」


「それでは食べよう。」


女将の一声で朝食が始まる。


皆が楽しそうに食べている中、月だけは浮かない顔をしていた。



水揚げ……。



ここへ入った時から、それは理解していたつもりだ。それに芸妓になるためには、決して通れない道。


だが、いざ水揚げとなると、どうしてもその気にはなれなかった。


その話しは兄である史朗の耳にも入ることとなる。


「………史朗兄さん?」


いつもなら、こんな人目に付きそうな廊下にいないのだが、今日に限ってその場にいた。


「月か……。」


「何してるの こんな所で?」


「いや、なんでもない。お前こそ皆といなくていいのか?もうすぐ稽古の時間だろ?」


「今日はお休み。今から、綾子姐さんの所に行くの。」


「そうか……。」


何気ない会話だが、まるで、何かを隠していてそれに触れないようにしているよいな……、互いにぎこちなさをみせていた。


「……なあ、月。」


「何?」


「月は、月は幸せか?」


「なによ突然…?」


「いや、ただ今のままで幸せかどうか……気になっただけだ。」


「これが私の道だもの仕方ないわ。他に道なんてないんだから。」


「そ、そうだな……。月。」


「?」


「……頑張れよ。」


「うん……。」


うっすらと微笑むと月は、兄に背を向けて歩いて行った。


その背を黙って見送る史朗……。


妹のために気の利いた台詞も、気の利いたことも出来ない。


ただひたすらに、大久保のために働くことしか出来ないのだ。





月は綾子の部屋を訪れていた。


「綾子姐さん、月です。」


「御入り。」


襖を開けて中へと入る。


「……いよいよ、時が来たようですね。」


「はい……。」


「どの殿方に水揚げをしてもらうかによって、その先の位が定められてしまう。芸妓としては、大きな一歩です。」


「………。」


「しかし、どうにも納得がいかない…。こんなにもアッサリとお前を私達と同じ芸妓にして良いものかと悩んでしまう…。




「…………。」


「お前は私達とは違い、生まれながらに芸妓ではない。この道に留まる理由など、何処にもないのだ。それでも、お前は芸妓になりたいか……?」


一度水揚げをしてしまえば、後はずっと一生、ここで芸妓として生活することになるのだ。


「大久保様に拾われた命です。大久保様のために使いたいのです。私がここで、大久保様のためにお仕えできるのなら、この上ない恩返しになります。」


「……そうか、分かった。下がって少し休みなさい。」


「はい。」


月は軽く頭を下げると部屋を出て行った。



大久保に拾われた命なのだから、大久保のために使うのは当然のことだ。


だから、芸妓になることだって構わないと思っていた……。だが、何処かで水揚げをすることを嫌がる自分もいた……。


月はそのまま何も言うことなく、部屋へと戻って行った。








ーーー数日後。


予定されていた通り、薩摩藩邸で宴が行われていた。中には薩摩を代表する者達もいる。


宴がたけなわになって、中で大盛り上がりになっているなか、準備を整えた見習い達が集まって来る。


「良いか?今宵はそなた達の働きにかかっている。宴の成功もそうだが、決して無礼を働いてはならぬ。お客様も癒してあげられてこそ、芸妓となれるのだ。必ず成功させて戻りなさい。よいな?」


『はい!』


前持って指示されていた場所が、各自に言い渡される。



中では姉様達が殿方を、決められた娘がいる部屋へと送り届ける。


その中には綾子の姿もあった。


「それでは、ごゆるり。」


ゆっくりと静かに扉が、次々と閉められていく。


これが受け持ちの見習いに出来る最後の仕事だ。


「……それでは、ごゆっくり……。」


綾子もその扉を閉めて行った。



部屋の中では、それぞれの甘いひと時が、繰り広げられている。


その中にはもちろん、月の姿もあった。


「こ、今宵、お呼びいただき……ありがとうどす。」


手をついて、深々と相手に頭を下げる月。

「お相手を致します……ツ、ツ……。」


身体が震えて、上手く言葉が出て来ない。


「月だ。」


「は、はい…!……!?」


聞き慣れた声がし、慌てて顔を上げると、そこには大久保が座っていた。


「お、大久保様……!?」


「ふん、いつまでもそんな所に座ってないで、こっちに来て尺でもしろ。」




「は、はい……!」


月は急いで大久保の側により、尺をする。


「……それにしても、こうしてお前に尺をされるなどと、月日は早いものだ。ついこないだ、お前達拾ったばかりに思える……。」


くいっと杯に入った酒を飲む。


「………月。」


「?」


「お前達の両親のいる場所が分かった。」

「……!」


「長州だ。……長州に行けば、もしかしたら、お前達の親に会えるやもしれん。」


「…………。」


「……お前は両親に会いたくはないのか?」


「……会いたくなどありません。私達は酷い仕打ちをされ、ドシャ降りの中、この薩摩の路上に捨てられたのです。いまさら、会いたいなどと思いません。」


「そうか……。」


酒をつぎ、それを飲み干す大久保。



忘れたくとも忘れられない、悲惨な記憶……。


その記憶はいまもなお、胸の傷として月の心を蝕んでいた。


なぜ、捨てられなければならなかったのか……、なぜ、このような仕打ちを受けなければ、ならなかったのか………。


今まで感じていた疑問が一気に沸き上がっていた。


「……だが、お前も知りたくはないのか、なぜ、自分達がこうなったのか、会って確かめたくはないか?」



「……いいえ!確かめなくとも、わかりきっていることです!私達はいらない子供として、処分されたのです!……それをいまさら、会おうなどと、どうして思えましょうか……!?」


「ふん、お前はまだまだ子供だな。」


「大久保様……!」


「よいか月、大人には大人の事情というものがあるのだ…。それは子供には分からない。だが、大人になればそれが理解出来るようになる。なぜ、そうなるべきだったのかをな……。」


「………。」


「まあ、話しはここまでにしておこう。会いに行くいなかいは、自分達で決めろ。答えが恐ろしくて、一生自分の正体を知らずに、ここで暮らすのか、それとも、故郷で真相を突き止め、わだかまりを無くすか…だ。」


「………。」


「まあ、お前の言うように、いらぬ子供として処分したかもしれんが、親はそう簡単に子供を殺したりは出来ぬものだ……。もし、それが本当のことだとしたら、また薩摩に戻ってくればいいだけの話しだ。お前達の居場所ぐらい、いくらでもあるからな。」


「大久保様………。」


「さて、私は退散するぞ。お前もさっさと休め。辛気臭い顔はお前には似合わぬからな。」



大久保は懐から飾りを取りだし、月の膝下に投げる。


「……とっておけ。お前は芸妓よりも価値がある女だ。その女が周りから愚弄されるなど、私には耐えられんからな。」


「…………。」


今まで見て来た飾りの中で一番良い品だ。


芸妓になるべき女が、その証となる飾りを客からもらわなければ、皆から愚弄され、虐げられて過ごさねばならないのだ。


大久保はそのことをよく知っていたのだ。


女の価値を決める飾り。


どんな飾りをもらうかによって、この先が決まる。


月はその飾りを腰帯に結んだ。


「……ありがとうございます、大久保様……。」


「ふん、さっさと寝ろ。」


それだけを言って、大久保は静かに部屋を出て行った。








朝になり、それぞれの一夜を明けた見習い達が、部屋から出て来る。


皆、腰帯にそれぞれ貰った飾りを下げていた。


「…………。」


「月……!」


「……綾子姐様?」


見習い達に混ざって、綾子が月を迎えに来ていた。


「どうして、こんな所にいるのですか?」


「お前のことが気になって、迎えに来てしまったのだ……。」


ふと、月の腰帯に目をやる。そこには、大久保から貰った飾りが揺れていた。


どうやら、大久保は綾子達の願いを聞き届けてくれたようだ。


それを見て安心する綾子。


「……月。」


「フフフ……。」


月も嬉しそうに笑った。








その後、近くの屋敷にいる大久保の元へ、綾子は会いに行った。


「……大久保様、綾子でございます。」


「入れ。」


綾子はゆっくりと部屋の中へと入る。


すでに、大久保は起きており、この先に待ち構えている事の準備を終わらせていた。


部屋のいたる所に、その事に関する資料などが、散らばっていた。


「………終わったのですね。本当に行かれるのですか?」


「ああ、もう後には引けない。すぐに屋敷へと戻り、戦の準備も整えるつもりだ。」


「長州と………戦うのですか?」


「ああ……。」



やめて欲しいなどと言えない……。


長州と薩摩は長年争い続けているのだ。長州が戦うのをやめない限り、薩摩が戦うことを止めることは出来ない。


綾子はそのことをよく知っていた……。


例え、綾子が泣いて止めても、大久保は聞き入れないだろう……。


綾子はそっと、その背に身を委ねた。