シャーヒン翁は、たった一人、南へと馬を駆った。
ただの一夜も、宿を使うことなく。
ただの一口も、座して食することなく。
昼もなく夜もなく、老いた身体に鞭を打ち、ただひたすらに懐の書状をフラへ届けることのみに命を捧げたのだ。
野を越え山を越え──海と空以外の全てを越えて、ついにシャーヒン翁はイスト(中央)とフラの境界を乗り越えたのである。
一番近い町にたどり着いた時、既に彼の身は枯れ木となれ果て、息も絶え絶えだった。
駆け寄る赤毛の軍人に、すがりつくように翁は懐の書状を差し出す。
ロアアールへと嫁いだ無謀公爵の娘に贈られた、赤い雪の紋章の書状であった。
──
ネイラは、『フラの大恩返し』の本をぱたんと閉じた。
自室として与えられている部屋のベッドに座ったまま、彼女はぼろぼろの本の表紙を眺める。
確かに、フラの男が言っていたように、その中には己の祖父の名が刻まれていた。
気恥ずかしさより、苦しさが押し寄せてくる。
ネイラが生まれる寸前に、祖父は亡くなっていた。
彼女は、先の防衛戦の真っ最中に生まれた子どもだった。
自分が、この世のことをまだ何も知らない頃に、祖父はこれほどまでの大変な仕事を一人でやり遂げていたのだ。
いままで、家族に聞かされてきた話で感じた誇りは、一瞬にしてネイラの中から吹き飛ぶ。
誇りというものは、自分のために持つものである。
素晴らしい人が身近にいるという幸せを、自分自身が甘受して楽しむものである。
これは、そうではない。
ネイラの中で、祖父が突然呼吸を始めた。
止まっている絵ではなく、祖父が今なお生きて、馬を駆っているように思えたのだ。
その祖父の騎馬の道程は、どれほど苦しいものであったか。
そう思うと、ネイラまで苦しくなってしまうのである。
そこまでして、祖父はロアアールを救う使命を果たしたのである。
ありがたさに、身が震える。
もしも、フラの援軍があれほど早くロアアールに来ていなければ、もっと不利な状況になっていただろう。
最悪の場合、ネイラは父を失い、自分もまた無事に生まれ育つことは出来なかったかもしれないのだ。
祖父は、ロアアールを守ることで、家族を──ネイラをも守ったということを、今始めて肌身で理解したのである。
家族も知らない物語が、遠い地で本という形で残っていたおかげで、顔も見た事のない祖父に、彼女は出会うことが出来た。
お、お礼を。
お礼を、言わなければ。
ネイラは、突然足元に火がついた気がした。
この本を貸してくれたかの男へ、この溢れかえる気持ちを伝えたくてしょうがなかったのだ。
本を見れば、分かる。
装丁もボロボロで、中にも多くの折り跡があり、変色もしている。
インクが消えかけた部分を、己の字で書き足している部分もあった。
彼が、どれほどこの本を読み、遠征に持参するほど愛しているのか──それが震えるほど伝わってくる。
彼は、己の中に流れているロアアールの血を、深く愛しているのだ。
二冊の本を抱え、ネイラは部屋を出ていた。
こんなわき上がる衝動に突き動かされたことなど、彼女の人生ではこれまでただの一度もない。
気づいたら、彼の部屋の前にいた。
ノックをしようとして、息を止める。
もう、夜だ。
女性が男性の部屋を訪ねる時間にしては、非常識過ぎる。
昼間の彼の様子からすると、まだ寝ることなく、資料を抱え込んでペンを走らせていることだろう。
理性とマグマのような感情が、一瞬だけケンカをしたが──どちらが勝つかなど、マグマを見るまでもなく分かっていた。
ネイラは、扉を叩いた。
心が、痛いくらいにしびれる中、「どうぞ」という彼の声が、何の怪訝もなく返された。
どうぞ!?
悠長に感じるその音は、ただ彼女を焦らせるだけ。
ネイラは、落ち着かない手で扉を開けた。
今度は。
既にペンは止まっていた。
顔も上げられていた。
彼は、昼間のように席についていたが、最初からこちらを見ていたのだ。
「お、お仕事中、申し訳ありません」
もつれそうになる舌に、言うことをきかすだけで一苦労だった。
心の速度と、唇の速度が違いすぎて、到底その差を埋めることが出来なかったのである。
「いいえ、歓迎しますよ」
そのせいで彼の返事など、右から左に通過するだけだった。
彼と語り合いたいわけではなく、いまはただ、ネイラは自分の気持ちを伝えたかったのだ。
「本、貸していただいて、本当にありがとうございました」
祖父を抱く代わりに、本を強く抱く。
余り強く抱くと、ぼろぼろのそれが崩れてしまいそうだが、それでも腕の力を緩めることが出来なかった。
「その本は、大事なものですから差し上げることは出来ませんが、フラから同じ本を送らせましょう。新しい本ならば、どれだけきつく抱いていただいても大丈夫ですから」
彼もまた、微笑みに包んだ言葉で、ネイラの胸につぶされそうな本の心配をしたのだった。
ただの一夜も、宿を使うことなく。
ただの一口も、座して食することなく。
昼もなく夜もなく、老いた身体に鞭を打ち、ただひたすらに懐の書状をフラへ届けることのみに命を捧げたのだ。
野を越え山を越え──海と空以外の全てを越えて、ついにシャーヒン翁はイスト(中央)とフラの境界を乗り越えたのである。
一番近い町にたどり着いた時、既に彼の身は枯れ木となれ果て、息も絶え絶えだった。
駆け寄る赤毛の軍人に、すがりつくように翁は懐の書状を差し出す。
ロアアールへと嫁いだ無謀公爵の娘に贈られた、赤い雪の紋章の書状であった。
──
ネイラは、『フラの大恩返し』の本をぱたんと閉じた。
自室として与えられている部屋のベッドに座ったまま、彼女はぼろぼろの本の表紙を眺める。
確かに、フラの男が言っていたように、その中には己の祖父の名が刻まれていた。
気恥ずかしさより、苦しさが押し寄せてくる。
ネイラが生まれる寸前に、祖父は亡くなっていた。
彼女は、先の防衛戦の真っ最中に生まれた子どもだった。
自分が、この世のことをまだ何も知らない頃に、祖父はこれほどまでの大変な仕事を一人でやり遂げていたのだ。
いままで、家族に聞かされてきた話で感じた誇りは、一瞬にしてネイラの中から吹き飛ぶ。
誇りというものは、自分のために持つものである。
素晴らしい人が身近にいるという幸せを、自分自身が甘受して楽しむものである。
これは、そうではない。
ネイラの中で、祖父が突然呼吸を始めた。
止まっている絵ではなく、祖父が今なお生きて、馬を駆っているように思えたのだ。
その祖父の騎馬の道程は、どれほど苦しいものであったか。
そう思うと、ネイラまで苦しくなってしまうのである。
そこまでして、祖父はロアアールを救う使命を果たしたのである。
ありがたさに、身が震える。
もしも、フラの援軍があれほど早くロアアールに来ていなければ、もっと不利な状況になっていただろう。
最悪の場合、ネイラは父を失い、自分もまた無事に生まれ育つことは出来なかったかもしれないのだ。
祖父は、ロアアールを守ることで、家族を──ネイラをも守ったということを、今始めて肌身で理解したのである。
家族も知らない物語が、遠い地で本という形で残っていたおかげで、顔も見た事のない祖父に、彼女は出会うことが出来た。
お、お礼を。
お礼を、言わなければ。
ネイラは、突然足元に火がついた気がした。
この本を貸してくれたかの男へ、この溢れかえる気持ちを伝えたくてしょうがなかったのだ。
本を見れば、分かる。
装丁もボロボロで、中にも多くの折り跡があり、変色もしている。
インクが消えかけた部分を、己の字で書き足している部分もあった。
彼が、どれほどこの本を読み、遠征に持参するほど愛しているのか──それが震えるほど伝わってくる。
彼は、己の中に流れているロアアールの血を、深く愛しているのだ。
二冊の本を抱え、ネイラは部屋を出ていた。
こんなわき上がる衝動に突き動かされたことなど、彼女の人生ではこれまでただの一度もない。
気づいたら、彼の部屋の前にいた。
ノックをしようとして、息を止める。
もう、夜だ。
女性が男性の部屋を訪ねる時間にしては、非常識過ぎる。
昼間の彼の様子からすると、まだ寝ることなく、資料を抱え込んでペンを走らせていることだろう。
理性とマグマのような感情が、一瞬だけケンカをしたが──どちらが勝つかなど、マグマを見るまでもなく分かっていた。
ネイラは、扉を叩いた。
心が、痛いくらいにしびれる中、「どうぞ」という彼の声が、何の怪訝もなく返された。
どうぞ!?
悠長に感じるその音は、ただ彼女を焦らせるだけ。
ネイラは、落ち着かない手で扉を開けた。
今度は。
既にペンは止まっていた。
顔も上げられていた。
彼は、昼間のように席についていたが、最初からこちらを見ていたのだ。
「お、お仕事中、申し訳ありません」
もつれそうになる舌に、言うことをきかすだけで一苦労だった。
心の速度と、唇の速度が違いすぎて、到底その差を埋めることが出来なかったのである。
「いいえ、歓迎しますよ」
そのせいで彼の返事など、右から左に通過するだけだった。
彼と語り合いたいわけではなく、いまはただ、ネイラは自分の気持ちを伝えたかったのだ。
「本、貸していただいて、本当にありがとうございました」
祖父を抱く代わりに、本を強く抱く。
余り強く抱くと、ぼろぼろのそれが崩れてしまいそうだが、それでも腕の力を緩めることが出来なかった。
「その本は、大事なものですから差し上げることは出来ませんが、フラから同じ本を送らせましょう。新しい本ならば、どれだけきつく抱いていただいても大丈夫ですから」
彼もまた、微笑みに包んだ言葉で、ネイラの胸につぶされそうな本の心配をしたのだった。