「君の両親は、どちらかフラの人間ではないか?」
立ち上がった若い男は長身で、女性の多い公爵家に慣れていたネイラはどきりとした。
しかし、威圧する風ではなく、自分の怪訝を晴らしたいかのような目に、余計な淀みは感じない。
この部屋は、フラの方のために準備されたもののひとつだ。
フラの公爵の弟であるスタファとは、都でも会っていたのでよく知っている。
しかし、その部屋は隣で、なおかつ彼は、前線の指揮の為に出撃していたのだ。
ここは、彼が連れてきた側近の部屋──そう、ネイラは理解していた。
だが、この男は赤毛ではない。
勿論、フラとは言え、全員赤毛であるはずもないのだが、この男はまたそういうのではない。
暑いという噂の地域のはずなのに、スタファより随分薄い褐色の肌なのだ。
そう。
ありていに言えば──自分とよく似た色。
「祖父母が、フラからこちらにやって参りました。母は、こちらのロアアール人である父と結婚しましたが」
母を、フラ人と言ってしまっていいのか分からずに、ネイラは出来るだけ正確にそれを告げようとした。
「祖父母が……もしかして、祖父君は二十年ほど前に亡くなられてはいないか?」
顎に手をあてて考え込む仕草の陰から、彼は慎重に言葉を探るように問いかけてくる。
疑問と、それにつながる確信があるかのように。
「はい……祖父は、その頃に亡くなりました」
この人は、祖父のことを知っているのだろうか。
もっと年のいった人ならまだしも、この若い男では、とても知っているはずがない。
「やはり、シャーヒン翁の孫娘殿でしたか」
刹那。
彼は、ビシッと背筋を伸ばすや、まるで軍人のように彼女に向かって、左胸に拳を置く敬礼をしたのである。
青い瞳の中に浮かぶのは──敬意。
そんな視線など、これまでただの一度も誰かから受けたことのないネイラは、驚き戸惑った。
確かに、シャーヒンは祖父の名字だ。
母が嫁いで名字が変わってしまったため、今となっては、ロアアールでは誰もその名を口にすることもない。
どうして、知っているのだろう。
「祖父が……何か?」
疑問を問うことしか出来ないまま相手を見ると、彼がわずかに驚きの表情を浮かべる。
そして、こう言ったのだ。
「フラの物語に、シャーヒン翁の名が出て参ります。フラでは、彼は英雄ですよ」、と。
世界は、ネイラの思わぬ方向へと回り始めた。
※
祖父は、前公爵夫人とロアアールのために働いて亡くなった。
ネイラは、そう両親から聞いていた。
それは、彼女の家の誇りであり、それ以上ではないと思っていたのだ。
「先の防衛戦時、フラまで書状を携えて駆け抜けた御方です。フラの物語では、その道程が勇ましくも厳しく綴られていますよ」
フラの子供ならば、シャーヒン翁の名を知らぬ者はいません。
そこまで言われて、ネイラは混乱してしまった。
まさか、遠く離れたフラで、そんな物語になっているとは思わなかったのだ。
前公爵夫人の手紙をフラに送る仕事は、祖母から母に受け継がれている。
ウィニーがフラの公爵に手紙を送るルートとして、今なおそれは健在だ。
いつか、ネイラが継ぐことになるだろうが、まだそれは彼女のものではなく、彼女が直接フラの情報に触れることは少ない。
「そ、それは……光栄です」
だから、いまひとつ信じきれずに、ネイラは戸惑いながらそう答えるのが精一杯だったのだ。
彼女の人生は、前公爵夫人やウィニーに捧げるものに過ぎず、突然、あの祖父の孫という光が自分に当たるなんて、思ってもみなかったのだ。
たとえ祖父が英雄であったとしても、それは祖父の功績であり、自分のものではない。
長い間、侍女なんて仕事をやっていると、そういうわきまえだけは得意になるものなのだ。
「信じて……らっしゃらないようですね。ロアアールでは、赤毛は英雄になることはないのですか?」
「赤毛であるかどうかは関係ありません。防衛戦の時は、みなただ必死でロアアールを守ることだけを考えるのだと聞いていますので、誰かひとりを持ち上げることはないでしょう。それに、他の誰がどう思おうとも、祖父は我が家の誇りであることには変わりありません……それでいいのです」
彼の言葉の中に微かな咎める音を感じて、反射的にネイラは二つのものを守ろうとした。
ロアアールと、ウィニーだ。
赤毛──フラ派は、ロア派と対立することはあったが、それはあくまでもロア派相手だけであり、実際彼らがいなくなってみれば、フラの血はロアアールの血と綺麗に融合しているようにさえ感じた。
ロア派さえいなくなれば、彼女の主であるウィニーもまた自由になったのだ。
ロアアールそのものが、赤毛やウィニーを虐げることなどない。
母もネイラも、この地の生まれである。
身体の中にはフラの血が脈々と流れてはいるが、故郷はどこかと聞かれたら、それはロアアールに他ならない。
二十年前も今も、祖父も祖母も母も自分も、ロアアールのために尽くすのだ。
「そうですか」
すんなりと、男は彼女の言葉を受け入れた。
薄く微笑んでいる青い瞳が、自分を見ている。
この地に多い、茶色の髪に青の瞳。
肌の色さえなければ、ロアアール人だと言ってもおかしくない男。
「同じ、フラロアアでも……ロアアールで育つと随分赴きが変わりますね」
聞きなれない言葉が、また出てきた。
言葉の通り受け取ると、フラ(南)とロアア(北西?)の混血と言いたいのだろうか。
だが、その言葉を素直に受け取るのならば、彼もまたフラとロアアールの間の子ではないかと思えるし、その通りの容姿をしているようにも見えた。
ロアアールの血が流れながら、フラに尽くす男と、フラの血が流れながらロアアールに尽くす女が、ここで出会ったのだ。
出会ったところで、『奇遇ですね』で終わりなのだが。
ネイラは彼の言葉に曖昧に微笑んで、「何をお手伝いしましょうか」と問いかけた。
ここには、雑談をしにきた訳ではないのだ。
「はい、では済みませんが、この資料の中から先の防衛戦のことが綴られているものを探し出して頂きたいのです」
フラに帰るまでにまとめておきたいと、どっさりと積まれた資料の山を見る。
なるほど。
これは、人手がいる作業のように思われた。
だが、祖父に母、そして軍人の父を持つ彼女である。
ネイラは、自分がそれを見分けるコツを知っている気がした。
この地について、強く確信していることがあったのだ。
山積みの資料を、中身も見ずにまず右と左により分けて始める。
「何をしているのですか?」
青い瞳が、自分を観察するように見ていた。
心の中を、透かして見る目だ。
「ここはロアアールですから、防衛戦の資料は事あるごとに読み込まれているはずです。埃のかぶりが少ない資料の中に、それはあると思います」
そう答えた時。
男は、不思議な笑みをたたえた。
静かで冷静に見える青い目を、バターのように溶かしたのだ。
ロアアールの男が、決して浮かべないそのフラの熱をたたえた色に、ネイラは居心地が悪くなりながら、黙って仕事を続けたのだった。
その夜。
侍従頭から、ネイラは呼びとめられた。
「これをお前さんに渡して欲しいそうだ」
差し出されたのは、ぼろぼろの二冊の本。
本の表紙には──『フラの無謀公爵と、優しきロアアールの民』と『フラの大恩返し』と書いてあった。
立ち上がった若い男は長身で、女性の多い公爵家に慣れていたネイラはどきりとした。
しかし、威圧する風ではなく、自分の怪訝を晴らしたいかのような目に、余計な淀みは感じない。
この部屋は、フラの方のために準備されたもののひとつだ。
フラの公爵の弟であるスタファとは、都でも会っていたのでよく知っている。
しかし、その部屋は隣で、なおかつ彼は、前線の指揮の為に出撃していたのだ。
ここは、彼が連れてきた側近の部屋──そう、ネイラは理解していた。
だが、この男は赤毛ではない。
勿論、フラとは言え、全員赤毛であるはずもないのだが、この男はまたそういうのではない。
暑いという噂の地域のはずなのに、スタファより随分薄い褐色の肌なのだ。
そう。
ありていに言えば──自分とよく似た色。
「祖父母が、フラからこちらにやって参りました。母は、こちらのロアアール人である父と結婚しましたが」
母を、フラ人と言ってしまっていいのか分からずに、ネイラは出来るだけ正確にそれを告げようとした。
「祖父母が……もしかして、祖父君は二十年ほど前に亡くなられてはいないか?」
顎に手をあてて考え込む仕草の陰から、彼は慎重に言葉を探るように問いかけてくる。
疑問と、それにつながる確信があるかのように。
「はい……祖父は、その頃に亡くなりました」
この人は、祖父のことを知っているのだろうか。
もっと年のいった人ならまだしも、この若い男では、とても知っているはずがない。
「やはり、シャーヒン翁の孫娘殿でしたか」
刹那。
彼は、ビシッと背筋を伸ばすや、まるで軍人のように彼女に向かって、左胸に拳を置く敬礼をしたのである。
青い瞳の中に浮かぶのは──敬意。
そんな視線など、これまでただの一度も誰かから受けたことのないネイラは、驚き戸惑った。
確かに、シャーヒンは祖父の名字だ。
母が嫁いで名字が変わってしまったため、今となっては、ロアアールでは誰もその名を口にすることもない。
どうして、知っているのだろう。
「祖父が……何か?」
疑問を問うことしか出来ないまま相手を見ると、彼がわずかに驚きの表情を浮かべる。
そして、こう言ったのだ。
「フラの物語に、シャーヒン翁の名が出て参ります。フラでは、彼は英雄ですよ」、と。
世界は、ネイラの思わぬ方向へと回り始めた。
※
祖父は、前公爵夫人とロアアールのために働いて亡くなった。
ネイラは、そう両親から聞いていた。
それは、彼女の家の誇りであり、それ以上ではないと思っていたのだ。
「先の防衛戦時、フラまで書状を携えて駆け抜けた御方です。フラの物語では、その道程が勇ましくも厳しく綴られていますよ」
フラの子供ならば、シャーヒン翁の名を知らぬ者はいません。
そこまで言われて、ネイラは混乱してしまった。
まさか、遠く離れたフラで、そんな物語になっているとは思わなかったのだ。
前公爵夫人の手紙をフラに送る仕事は、祖母から母に受け継がれている。
ウィニーがフラの公爵に手紙を送るルートとして、今なおそれは健在だ。
いつか、ネイラが継ぐことになるだろうが、まだそれは彼女のものではなく、彼女が直接フラの情報に触れることは少ない。
「そ、それは……光栄です」
だから、いまひとつ信じきれずに、ネイラは戸惑いながらそう答えるのが精一杯だったのだ。
彼女の人生は、前公爵夫人やウィニーに捧げるものに過ぎず、突然、あの祖父の孫という光が自分に当たるなんて、思ってもみなかったのだ。
たとえ祖父が英雄であったとしても、それは祖父の功績であり、自分のものではない。
長い間、侍女なんて仕事をやっていると、そういうわきまえだけは得意になるものなのだ。
「信じて……らっしゃらないようですね。ロアアールでは、赤毛は英雄になることはないのですか?」
「赤毛であるかどうかは関係ありません。防衛戦の時は、みなただ必死でロアアールを守ることだけを考えるのだと聞いていますので、誰かひとりを持ち上げることはないでしょう。それに、他の誰がどう思おうとも、祖父は我が家の誇りであることには変わりありません……それでいいのです」
彼の言葉の中に微かな咎める音を感じて、反射的にネイラは二つのものを守ろうとした。
ロアアールと、ウィニーだ。
赤毛──フラ派は、ロア派と対立することはあったが、それはあくまでもロア派相手だけであり、実際彼らがいなくなってみれば、フラの血はロアアールの血と綺麗に融合しているようにさえ感じた。
ロア派さえいなくなれば、彼女の主であるウィニーもまた自由になったのだ。
ロアアールそのものが、赤毛やウィニーを虐げることなどない。
母もネイラも、この地の生まれである。
身体の中にはフラの血が脈々と流れてはいるが、故郷はどこかと聞かれたら、それはロアアールに他ならない。
二十年前も今も、祖父も祖母も母も自分も、ロアアールのために尽くすのだ。
「そうですか」
すんなりと、男は彼女の言葉を受け入れた。
薄く微笑んでいる青い瞳が、自分を見ている。
この地に多い、茶色の髪に青の瞳。
肌の色さえなければ、ロアアール人だと言ってもおかしくない男。
「同じ、フラロアアでも……ロアアールで育つと随分赴きが変わりますね」
聞きなれない言葉が、また出てきた。
言葉の通り受け取ると、フラ(南)とロアア(北西?)の混血と言いたいのだろうか。
だが、その言葉を素直に受け取るのならば、彼もまたフラとロアアールの間の子ではないかと思えるし、その通りの容姿をしているようにも見えた。
ロアアールの血が流れながら、フラに尽くす男と、フラの血が流れながらロアアールに尽くす女が、ここで出会ったのだ。
出会ったところで、『奇遇ですね』で終わりなのだが。
ネイラは彼の言葉に曖昧に微笑んで、「何をお手伝いしましょうか」と問いかけた。
ここには、雑談をしにきた訳ではないのだ。
「はい、では済みませんが、この資料の中から先の防衛戦のことが綴られているものを探し出して頂きたいのです」
フラに帰るまでにまとめておきたいと、どっさりと積まれた資料の山を見る。
なるほど。
これは、人手がいる作業のように思われた。
だが、祖父に母、そして軍人の父を持つ彼女である。
ネイラは、自分がそれを見分けるコツを知っている気がした。
この地について、強く確信していることがあったのだ。
山積みの資料を、中身も見ずにまず右と左により分けて始める。
「何をしているのですか?」
青い瞳が、自分を観察するように見ていた。
心の中を、透かして見る目だ。
「ここはロアアールですから、防衛戦の資料は事あるごとに読み込まれているはずです。埃のかぶりが少ない資料の中に、それはあると思います」
そう答えた時。
男は、不思議な笑みをたたえた。
静かで冷静に見える青い目を、バターのように溶かしたのだ。
ロアアールの男が、決して浮かべないそのフラの熱をたたえた色に、ネイラは居心地が悪くなりながら、黙って仕事を続けたのだった。
その夜。
侍従頭から、ネイラは呼びとめられた。
「これをお前さんに渡して欲しいそうだ」
差し出されたのは、ぼろぼろの二冊の本。
本の表紙には──『フラの無謀公爵と、優しきロアアールの民』と『フラの大恩返し』と書いてあった。