ネイラは、ウィニー付きの侍女である。
茶色い髪に黒い瞳、そしてこの地では珍しく、肌の色が薄い褐色だった。
祖父母は、ロアアールの人間ではないからだ。
彼らは、前の公爵夫人と共に、夫婦でフラからやってきたのだ。
どちらも見事な赤毛の持ち主で、二人の間に生まれたネイラの母も、やはり赤毛だった。
祖父は、大切な仕事の為に亡くなった。
祖母は、年老いた頃に職を辞して、今は母と共に暮らしている。
母は、子どもの頃から前公爵夫人に目をかけてもらい、侍女として働いていた。
ロアアールの軍人に見初められ、家庭を持ちながらも仕事を続けていたが、前公爵夫人が亡くなってから職を辞し、家庭におさまっている。
そして、ネイラもまた、前公爵夫人に可愛がられ、子どもの頃から使ってもらっていた。
現在二十歳の彼女は、いまの主であるウィニーよりも長い間、前公爵夫人の側で過ごすことが出来たのだ。
しかし、前公爵夫人が亡くなってから、ネイラの人生は急転直下となる。
公爵夫人の率いるロア派と、前公爵夫人の率いるフラ派の力の均衡が、それで一気に崩れたのだ。
しかもフラ派は、侍従たちの代が重なり血が薄まって、ロアアールと同化しかけていたため、前公爵夫人を失ってはちりぢりになるしかなかった。
そのため、ネイラも母と共に公爵家を去ることになるだろうと、当時16歳ながらに覚悟を決めていたのだ。
しかし、前公爵夫人付きの一番若い侍女だった彼女は、主の遺言書によりウィニー付きの侍女として残ることが出来た。
彼女は、主の若かりし日のドレスと、フラからの文箱と共に、この家の妹君に贈られたのである。
ウィニーは、公爵夫人率いるロア派に、非常に煙たがられていた。
それは、実質この家全体に煙たがられているのと、同じことだった。
実の娘であるにも関わらず、フラの血が色濃く出た彼女の扱いは悪く、不憫でならなかった。
そんな環境のせいもあってか、フラの血を引くネイラは、ウィニーのお気に入りの侍女となることが出来た。
何しろ、いままで前公爵夫人や家族で鍛えていたおかげで、赤毛の扱いは一番うまかったのだ。
他にもウィニー付きの侍女はいるのだが、ある日突然入れ変えられてしまう出来事が何度か起きていた。
それもこれも、公爵夫人の侍女たちの仕業だ。
前公爵夫人の遺言を公爵自身が認可したため、ネイラの人事の手出しをすることは出来ないが、他の侍女は侍従頭を使っていじってくる。
ウィニーに、侍女の味方を増やさないためだろう。
そんな彼女たちからすれば、ウィニーにぴったりとついているネイラはとても邪魔なのだろう。
あの手この手で、自分からやめさせようと画策してくる。
ネイラは、前公爵夫人の時代から、ロア派のいじめには慣れっこだった。
命に関わるようないじめはないので、逆に言えば可愛いものだ。
辞める気は、一切ない。
亡くなった祖父の誇りと、祖母や母からの強い応援と、そして何より──前公爵夫人が自分に目をかけてくれたことへの恩返しの気持ちが強かった。
彼女がとても可愛がった、赤毛のウィニーを助けるのが、自分の一生の仕事だと心に決めたのだ。
そんな世界が、一気に変革を遂げる日が来た。
屋敷から、ロア派が一掃されたのである。
あれ? と、拍子抜けになるほどの、世界の変貌に戸惑った。
ロア派はみな、公爵夫人と共に、南方の屋敷に移っていったのである。
その結果。
突然、この公爵家から、全ての派閥がなくなったのだ。
次期公爵である姉のレイシェスは──ロア派ではなかった。
姉妹仲がいいのは分かってはいたが、彼女があの母親に逆らえる日が来るなんて、誰が想像出来ようか。
ウィニーもまた、女ながらにズボンを履き、馬に乗り、表情を輝かせながら毎日屋敷を飛び出して行く。
さすがに、そこまで付き添うことは出来ないネイラは、彼女を送り出しながらも、明るいロアアールの春の日差しの下で、前公爵夫人の住まう空へ報告するのだ。
夫人の血を引くお二人は、強く美しく成長されております、と。
そして。
派閥のなくなった心穏やかな召使いたちとは裏腹に、ロアアールは引き続き、この地の存亡をかけた怒涛の日々を送り続ける。
そして、ついに。
ネイラは──愛する主人を、前線に送り出さなければならなかった。
※
気落ちしないはずがない。
都でウィニーを振りまわした、あの王太子のせいで、彼女の大事な主人が死ぬかもしれないのだ。
しかし、もはやネイラに出来るのは、祈ることだけ。
誰もいない主の部屋の掃除を終えてしまうと、途端にネイラはすることがなくなってしまう。
せっかく邸内に派閥がなくなったのだから、忙しいよその場所を手伝いに行こうと、ネイラは主の部屋を出た。
何かしていないと、悪いことを考えてしまいそうだったのだ。
侍従頭のところへ行って問うと、彼は一度考え込む仕草をした後、よそからのお客様に付くように言った。
ウィニーの部屋のある棟だ。
こちら側は、確か。
ネイラは、記憶を合致させながら、指定された扉をノックする。
「失礼致します。身の回りのお世話をさせていただきます」
「どうぞ」
ここで、おや、と思った。
本来、上の人間が侍女に向かって、「どうぞ」などという言葉は使わない。
ウィニーが彼女に許可を出す時でさえ、「入って」である。
怪訝に思いながら、ネイラは扉を開けた。
中にいるのは、男が一人。
大量の資料を抱え込み、机の上でペンを走らせ続けている。
その茶色い頭を眺めて待っていると、ちょうど端までペンを走らせ終わったのか、男が迷いなく顔を上げた。
目が合う。
いや、目が合うより先に、別のひっかかりを感じた。
何だろう。
ネイラは、それが何か分からなかった。
だが、彼は微かに首を傾けながら、こう言ったのだ。
「フラロアアか?」
──謎の言葉だった。
茶色い髪に黒い瞳、そしてこの地では珍しく、肌の色が薄い褐色だった。
祖父母は、ロアアールの人間ではないからだ。
彼らは、前の公爵夫人と共に、夫婦でフラからやってきたのだ。
どちらも見事な赤毛の持ち主で、二人の間に生まれたネイラの母も、やはり赤毛だった。
祖父は、大切な仕事の為に亡くなった。
祖母は、年老いた頃に職を辞して、今は母と共に暮らしている。
母は、子どもの頃から前公爵夫人に目をかけてもらい、侍女として働いていた。
ロアアールの軍人に見初められ、家庭を持ちながらも仕事を続けていたが、前公爵夫人が亡くなってから職を辞し、家庭におさまっている。
そして、ネイラもまた、前公爵夫人に可愛がられ、子どもの頃から使ってもらっていた。
現在二十歳の彼女は、いまの主であるウィニーよりも長い間、前公爵夫人の側で過ごすことが出来たのだ。
しかし、前公爵夫人が亡くなってから、ネイラの人生は急転直下となる。
公爵夫人の率いるロア派と、前公爵夫人の率いるフラ派の力の均衡が、それで一気に崩れたのだ。
しかもフラ派は、侍従たちの代が重なり血が薄まって、ロアアールと同化しかけていたため、前公爵夫人を失ってはちりぢりになるしかなかった。
そのため、ネイラも母と共に公爵家を去ることになるだろうと、当時16歳ながらに覚悟を決めていたのだ。
しかし、前公爵夫人付きの一番若い侍女だった彼女は、主の遺言書によりウィニー付きの侍女として残ることが出来た。
彼女は、主の若かりし日のドレスと、フラからの文箱と共に、この家の妹君に贈られたのである。
ウィニーは、公爵夫人率いるロア派に、非常に煙たがられていた。
それは、実質この家全体に煙たがられているのと、同じことだった。
実の娘であるにも関わらず、フラの血が色濃く出た彼女の扱いは悪く、不憫でならなかった。
そんな環境のせいもあってか、フラの血を引くネイラは、ウィニーのお気に入りの侍女となることが出来た。
何しろ、いままで前公爵夫人や家族で鍛えていたおかげで、赤毛の扱いは一番うまかったのだ。
他にもウィニー付きの侍女はいるのだが、ある日突然入れ変えられてしまう出来事が何度か起きていた。
それもこれも、公爵夫人の侍女たちの仕業だ。
前公爵夫人の遺言を公爵自身が認可したため、ネイラの人事の手出しをすることは出来ないが、他の侍女は侍従頭を使っていじってくる。
ウィニーに、侍女の味方を増やさないためだろう。
そんな彼女たちからすれば、ウィニーにぴったりとついているネイラはとても邪魔なのだろう。
あの手この手で、自分からやめさせようと画策してくる。
ネイラは、前公爵夫人の時代から、ロア派のいじめには慣れっこだった。
命に関わるようないじめはないので、逆に言えば可愛いものだ。
辞める気は、一切ない。
亡くなった祖父の誇りと、祖母や母からの強い応援と、そして何より──前公爵夫人が自分に目をかけてくれたことへの恩返しの気持ちが強かった。
彼女がとても可愛がった、赤毛のウィニーを助けるのが、自分の一生の仕事だと心に決めたのだ。
そんな世界が、一気に変革を遂げる日が来た。
屋敷から、ロア派が一掃されたのである。
あれ? と、拍子抜けになるほどの、世界の変貌に戸惑った。
ロア派はみな、公爵夫人と共に、南方の屋敷に移っていったのである。
その結果。
突然、この公爵家から、全ての派閥がなくなったのだ。
次期公爵である姉のレイシェスは──ロア派ではなかった。
姉妹仲がいいのは分かってはいたが、彼女があの母親に逆らえる日が来るなんて、誰が想像出来ようか。
ウィニーもまた、女ながらにズボンを履き、馬に乗り、表情を輝かせながら毎日屋敷を飛び出して行く。
さすがに、そこまで付き添うことは出来ないネイラは、彼女を送り出しながらも、明るいロアアールの春の日差しの下で、前公爵夫人の住まう空へ報告するのだ。
夫人の血を引くお二人は、強く美しく成長されております、と。
そして。
派閥のなくなった心穏やかな召使いたちとは裏腹に、ロアアールは引き続き、この地の存亡をかけた怒涛の日々を送り続ける。
そして、ついに。
ネイラは──愛する主人を、前線に送り出さなければならなかった。
※
気落ちしないはずがない。
都でウィニーを振りまわした、あの王太子のせいで、彼女の大事な主人が死ぬかもしれないのだ。
しかし、もはやネイラに出来るのは、祈ることだけ。
誰もいない主の部屋の掃除を終えてしまうと、途端にネイラはすることがなくなってしまう。
せっかく邸内に派閥がなくなったのだから、忙しいよその場所を手伝いに行こうと、ネイラは主の部屋を出た。
何かしていないと、悪いことを考えてしまいそうだったのだ。
侍従頭のところへ行って問うと、彼は一度考え込む仕草をした後、よそからのお客様に付くように言った。
ウィニーの部屋のある棟だ。
こちら側は、確か。
ネイラは、記憶を合致させながら、指定された扉をノックする。
「失礼致します。身の回りのお世話をさせていただきます」
「どうぞ」
ここで、おや、と思った。
本来、上の人間が侍女に向かって、「どうぞ」などという言葉は使わない。
ウィニーが彼女に許可を出す時でさえ、「入って」である。
怪訝に思いながら、ネイラは扉を開けた。
中にいるのは、男が一人。
大量の資料を抱え込み、机の上でペンを走らせ続けている。
その茶色い頭を眺めて待っていると、ちょうど端までペンを走らせ終わったのか、男が迷いなく顔を上げた。
目が合う。
いや、目が合うより先に、別のひっかかりを感じた。
何だろう。
ネイラは、それが何か分からなかった。
だが、彼は微かに首を傾けながら、こう言ったのだ。
「フラロアアか?」
──謎の言葉だった。