「それじゃ、私、降りますね」
「ああ。明日から、頑張って就活でもしとけ」
「……はい」


明日からは、店に行くこともない。
当然、今までのようにレンや堂本に会って話をする機会もない。

ガチャっとドアを開け、そっと足を外に出すと、座りごこちのいいシートから腰を浮かせた。

扉をしめる直前に、「気を付けて帰ってください」と声を掛けた。
そのドアを閉めてしまうと、スモークガラスが堂本の顔を隠してしまう。

そんな名残惜しい気持ちから、楓は出来るだけゆっくりとドアを閉める。

まだその黒い車に触れられる、射程距離に立ったまま。
ポッと赤いブレーキランプが点いたときに、楓の足は勝手に動いていた。


「――――堂本さん!」


ナビシート側から顔を覗かせ、窓に手を添える。

ギアをドライブに入れかけた堂本は、パーキングのまま手を離した。

急く気持ちとは裏腹に、ゆっくりとウィンドウが降りてゆく。
そっと手を離して窓から顔が出るほどになったときに、堂本の言葉と楓の声が被る。


「どうし――」
「もう一度だけっ……抱きしめてくれませんか」


楓は自分でも、突拍子もないことを――と、思った。
けれど体が勝手に動き、堂本を引き止め、口が勝手にそう言っていた。

そのあとに、なんて言い訳を続けていいか、うまく思いつかなくて言葉に詰まる。


「あ、あの……その――――」


楓が正当な理由を考えつく前に、ガチャッとドアが開いたかと思えば、すぐにバン! と音がして車が振動した。

遅れて顔を上げた楓の隣には堂本が立っていた。

そして、一度瞬きをしたあとに、自分が煙草の匂いが混ざった堂本の懐に収まっていることに気がついた。

女子の中でも長身の方である自分が、すっぽりと包まれる。
堂本の手は背に回り、そこで組むような形で楓を引き寄せていた。

今まで敬遠してきた男。

まさか、自分からその胸に抱きとめられたいと思うなんて想像もしたことがなかった。

楓は額を堂本の胸にそっと預け、所在なき手を恐る恐るスーツの裾上を握る。

夜風は冷たいはずなのに、楓の体は熱くなる一方。

なかなか顔をあげられないまま、自分の体温なのか堂本の体温なのかわからなくなり始めたときに、頭上に僅かな重みを感じた。