ショーノは、課題と夜までにらめっこしていた。

 弟は、既に部屋に帰ってしまっている。

 本当のところを言うと、すっかり数字に疲れていて、顔だけ机の方に向けているものの、頭の中ではジリアン女史の絵を思い浮かべていたのだが。

 そんな、彼女の部屋の窓の外から。

「よいしょっ、と」

 何かが、バルコニーをよじのぼってくる声と気配がした。

 それに、ショーノははっと顔を上げ、慌てて席を立つと窓辺に駆け寄る。

「こんばんはー、ショーノアオルティム」

 バルコニーに腰かけて、少女は足をぷらんぷらんと揺らした。

 丸くなりかけた月を背に、彼女は無防備な笑みを浮かべている。

 白と黒の色が交互に並ぶ、珍しい髪。

 それは短く、しかし空に広がるように跳ねている。

「セイちゃん!」

 ショーノは、急いで窓を開けた。

 大歓迎のお客様だったのだ。

 嬉しさの余り抱きつくと、バルコニーの上の少女──セイの上半身がぐらっと揺れてしまい、慌ててショーノは彼女を抱き戻した。

「大丈夫だよ、ショーノアオルティム。母さんほどじゃないけど、セイもちゃんと飛べるから」

 よしよしと撫でられて、ショーノは恥ずかしくなってしまう。

 分かっているのに、どうにも慣れない。

 大体、二階である彼女の部屋まで昇ってくる時点で、セイは規格外れなのだ。

 同じ年なのだから、ほぼ同じ年月を生きているはずなのに、ショーノとセイはまったく違う人生を歩んでいた。

「でも、危ないことしちゃダメよ」

 彼女は、セイをたしなめる。

 寺子屋にも行っていない彼女は、世間ずれしていないし、幼く思えることがあるのだ。

「あはは、ショーノアオルティムは面白いね。セイ、怖いことはしないよ」

 楽しげに笑うセイに、多少の不安は拭えない。

 微妙に言葉を変えたのに、ちゃんと気づいたのだ。

 怖いことと危ないことは、同じではない。

 危なくても、怖くないことはしていいのだと、セイは言外に示しているのだ。

 たとえば、二階に昇ることは世間一般では危ないことだが、彼女にとっては怖くないから問題ない、という風に。

 セイの言葉は、柔らかくて『正しい』のだ。

 心がそのまま言葉になっているのだと、分かりやすくショーノに伝わってくる。

 彼女の名前は、セイ。

 ショーノがショーノアオルティムであるように、セイはセイだ。

 この国にとっては、とても短い珍しい名前。

 そんな彼女は、ショーノの──従姉妹である。

 イデアメリトスの父(ショーノの本当の父の兄)と、捧歌の神殿の神官である母を持つ。

 学問は父から、歌と飛び方(?)を母から習い、驚くほど純粋に育ち続けている娘だ。

 ショーノの目から見ると、セイの光は樹木の光に似ている。

 時間をかけて、長く大きく育つ植物。とても安定感があって、強く逞しい。

 見た目は可愛い女の子だが、彼女が泣いたりわめいたりしているところを、これまで一度も見たことがなかった。

 ショーノと言えば、小さな頃は泣いてばかりいて、家族を困らせていたというのに。

 そんな泣いている子供のところに──セイは現れた。今日とまったく変わらない様子で、二階のバルコニーによじ登ってきたのだ。

「どうして泣いているの?」

 子供特有の舌ったらずもない、美しい発音を持った彼女は、手すりにちょこんと座ったまま、硝子の内側にいた彼女に声をかけた。

 ショーノは、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、驚いて突然の小さな訪問者を見た。

 その頃のセイは、今ほど髪の白い部分がなかったが。

「あなた、誰?」

 驚いたおかげで、涙は引っ込んでしまった。

 ショーノの頭でも、突然現れた彼女が、常識の枠内におさまっていないのに気づいていた。その身体からあふれ出る光もまた、樹木に似ているように見えたので、木の精霊ではないのかと思った.

「セイはセイだよ。ハレイルーシュリクスとコーの娘。あなたの名前は?」

「ショーノ……ショーノアオルティム」

 ニコリと笑って自己紹介され、それにつられて、彼女もまた自分の名を名乗った。

「ショーノアオルティム!?」

 その名を、セイはバルコニーの手すりから、飛び上がらんばかりに驚いて復唱した。

 あっ、あっ!!!

 刹那。

 ショーノの脳裏に空が一面に広がって、強い眩暈を覚えた。

 夜の空でも、黄昏の空でもなく、真昼の真っ青な空。その空の中天に輝く太陽が、彼女の目をくらませたのだ。

「ショーノアオルティム! 初めましてショーノアオルティム。私はセイ。私の名前はセイ。こんばんは、ショーノアオルティム」

 手すりから飛び降り、少女は硝子のすぐ向こう側まで駆け寄ってくる。

 小さな手を硝子について、ショーノに可愛らしい笑顔で呼びかける。

 それが、彼女が眩暈から戻って来た後に見た光景。

 少女がショーノの名前を繰り返す度、セイという名前を繰り返す度、互いの名前が否応無しに近づけられていく気がした。

 どんな磁力よりも強く、ぐいぐいと引っ張られれいく。

「セイ?」

 その名に、聞き覚えはなかった。

 けれど、それを唇に乗せると、またも強い力で彼女の方に引きずられる錯覚を覚える。

「そう、私はセイ。会いたかった、ショーノアオルティム。セイは、ショーノアオルティムにずっと会いたかった」

 気がついたら、ショーノも硝子に両手をつけて、その白い髪の混じる少女を見ていた。

 それが──セイとの出会い。

「泣かないで、ショーノアオルティム。セイが来たよ。お天気の名前を分けたセイが来たよ」

 その後、ちょくちょく遊びに来るようになったセイを、彼女は母に紹介した。

 家族の中で、一番ショーノに理解のある人で、母ならば大丈夫だろうと思ったのだ。

 予想通り、母は優しくセイの訪問を受け入れた。しかし、礼儀にはうるさい母が、不思議な事に、バルコニーからの登場を咎めることもなく、そのまま放置したのだ。

 そして、セイがショーノの従姉妹であることを教えられた。

 その頃の彼女は、既に自分の本当の父母について聞かされていた。

 血のつながらない家族に、自分で壁を作っては泣いていた彼女のその壁を、ぶち壊して飛び込んできたのが、セイだった。

 血の近い親戚であるにも関わらず、ショーノはセイと全然似ていない。

 穏やかな雰囲気とは裏腹に、セイには力強い行動力がある。

 弟の目を盗んでは、運動の余り得意ではない彼女を木に登らせたり、町に連れ出したりしてくれたのだ。

 ある日、都の内畑を越えた場所にある、不思議な建物に連れて行ってもらった。

 そこでショーノは──母を見た。

 家では決して見ることのない、木剣を持って戦う母を、だ。

 相手は男性で、ショーノは口から心臓が飛び出さんばかりに驚いて悲鳴をあげそうになった。

「大丈夫だよ、ショーノアオルティム」

 セイはぎゅっと手を握って、彼女の悲鳴を止めてくれる。

 そんな彼女の目の前で、母は目で追いつけない速さで木剣を打ち込み、見事に相手に「まいった」と言わしめたのだ。

 別の驚きに、ショーノがポカンと口を開けていると。

「おっ、セイ。都に遊びに来たのか?」

 自分たちより少し年上の少年が、不思議な四足の動物と共に現れる。

「あ、次郎! こんにちは、次郎。こんにちは、ハチ」

 セイは、ぎゅーっと次郎という少年に抱きつき、次に四足の生き物の前に座って、鼻をくっつけあった。

「セイももう飛べるから、都に一人で行けるようになったの。だから、ショーノアオルティムのところに遊びに来たの」

 挨拶を終えるや立ち上がり、セイはショーノを次郎の前に突き出す。

「ショーノ……ショーノ、ああ、エンチェルク姐さんの娘か」

 無邪気な言葉に、ショーノの胸はズキンと痛む。

 違うの、と。

 ショーノはエンチェルクの本当の娘ではないの、と。

 そうしたら、セイが。

「次郎、次郎、ショーノアオルティムにはね、お父さんとお母さんが二人いるんだよ」

 信じられないことを、まるで喜ばしいことのようにずばっと言った。

 ショーノの頭が、真っ白になる瞬間だった。

 家庭内で、絶対に秘密だと言い含められたその禁を、あっさりとセイが引き裂いたからである。

 オロオロしていいのか、怒っていいのか、悲しんでいいのか、混乱する余りに彼女はそのどれも選べないままだった。

 そんなショーノに。

「げっ、それってオレが負けたってことか?」

 次郎は、豪快に笑い出すではないか。

「ショーノアオルティム、次郎はね、お母さんが二人いるの! セイは、一人ずつしかいないんだけど、負けてるわけじゃないよ」

「あー、そうだな、悪ィ悪ィ、勝ち負けじゃねぇよな」

 次郎は、白い髪の混じるセイの頭を、クシャクシャとかき回して笑い続ける。

 余りに馬鹿馬鹿しい光景と、馬鹿馬鹿しい話の速度に追いつけなかったショーノは、少しの時間を越えてようやく彼らの笑顔に追いついた。

「あ、あははは!」

 自分でも、信じられないほど大きな声だった。

「ショーノアオルティム!?」

 それは、驚いた母が道場から飛び出してしまうほどだったようだ。

 ただただ、馬鹿馬鹿しかった。

 作ろうとした壁は、セイがぶち壊して回るし、絶対秘密だと言われた言葉は、セイがあっさりバラすし、聞いた次郎も次郎で、すっとぼけているし。

 父と母が二人ずついることなんて、深刻なことでも何でもないのだと、ここにいると思い知らされるのだ。

 それは、たとえようもなく心地良かった。

 そして。

 次の日から、ショーノは母とこの道場に通い始めたのである。


 ショーノはあの日、硝子の窓を開けてバルコニーに出た。

 バルコニーから、セイの手を取って外に出た。

 そうしてついにセイの手を離し、ショーノは木剣を握って、自分の道を歩き出したのだ。

 そんな彼女に、時々セイはくっついてきたりいなくなったり。

 セイの家は、都の隣の学術都市にあり、普段はそこで暮らしていると次郎から聞いた。

 子供の足では大変な距離だろうが、セイや次郎を見ていると大変そうに見えないのが不思議である。

 そんな二人と無邪気に遊ぶ、ショーノにとっての黄金の日々が、その頃から始まったのだ。

 ほぼ時を同じくして。

 これまで、口ごたえ一つしなかったショーノの弟が、うるさく言うようになってきた。

 母について道場に通うのも、セイと町に飛び出すのも、次郎に遊んでもらうのも、どれもこれも弟には気に入らないことだったらしい。

 けれど、そのおかげで彼女は、弟との間の見えない壁が壊れたのを知った。

 ショーノにとって、いいことづくめだった。

 おかげで、うまく話せなかった父とも話せるようになった。

「セイちゃんのおかげだよ、ありがとう」

 ずっと後で、ショーノは彼女にそう感謝の気持ちを言葉にした。

 そうしたら、セイは嬉しそうに笑って。

「ショーノアオルティムのおかげで、セイも前よりもずっと楽しいよ、ありがとう」

 また少し髪の白い部分の増えた頭を、こつんとぶつけるようにして、ぎゅっと抱きしめてくれたのだ。


 こうして、ショーノの歯車は回り始めた。

 セイに出会い、外に出て、次郎に出会い、木剣を握り、本当の家族と対面し、弟とぶつかり合いながら学術都市で学んだ彼女は、『その日』が来た時──運命だと思わずにはいられなかった。