ショーノアオルティムは、幸せな家庭で育った。

 愛を注いでくれる父と、厳しくも寄り添ってくれる母、そして少し口うるさいが優しい弟。

 それが、スエルランダルバ家の構成だった。

 上級貴族である父は、次期賢者の椅子に座ることが確定している。

 父の命令で、ショーノとロアッツは、学術都市で日々勉学に励んでいた。

 都からの通いでも寮でもなく、スエルランダルバ卿こと父は、こちらにぽんと一つ別邸を建ててしまった。

 父の仕事の関係からも、あった方が便利だと言う。ショーノは、贅沢だなーと思ったが、父と弟には通じそうにないので黙っていた。

 昔は、母と都にある道場に通っていたが、いまは学術都市の方に通っている。

 どちらも同じ流派の剣術道場なので、違和感はほとんどない。

 だが、門下生の傾向が、都と学術都市では大きく違っていた。

 向こうは兵士が多いが、こちらは学生が多いのだ。

 文武両道を目指す、志の高い学生たちの中で、ショーノはどうにかこうにか揉まれながら成長していた。

 学問的には、あまり優秀でないことは、自分でも分かっている。

 ひとつ年下のロアッツが、次々と単位を取って行くのを横目に、彼女は非常にゆっくりと進んでいるのだ。

 しかし、そんな彼女でも好きな講義はいくつかあった。

 特に、ジリアン女史の講義だけは、かぶりつきだ。

 彼女の描く、美しい絵を使った動植物の講義は、ショーノの心をかき立ててやまない。

 女史が絵を寄稿した学術誌は、いつもすりきれるほど読んだ後に、綺麗にスクラップして取っておくほど。

 そんな、偏った彼女の学問の傾向に、弟はため息を洩らすが、父は『それでいい』と言ってくれた。

 居心地のいい家と家族、勉強と剣術道場。

 ショーノは、本当に心から幸福な日々を送っている。

 そして、時々。

 もう一つの幸せが、やってくる。

「皆さまがお見えだ」

 ロアッツが、荷馬車を走らせて迎えに来たのはそのためだ。

 今日の訪問は知ってはいたのだが、母と剣を合わせたかった。

 もう一つの幸せと向き合うには、ショーノには心構えが必要で。

 それは、これまでに何度も繰り返されているにも関わらず、やはり心が揺れてしまうことがあるのだ。

 それを、母はよく知っていてくれるから、訪問前のギリギリであったとしても、こうして道場に付き合ってくれた。

 部屋に駆け戻り侍女の手伝いを受け、ショーノは急いで身なりを整えて部屋を出る。

 母も、さきほどまでの強い姿はなりを潜め、静かなたたずまいに姿を変え合流した。

 父と弟は、既に応接室で客人の応対をしているだろう。

 その扉の前に来た時、彼女は一度足を止めた。

 すぅー。

 ショーノは、大きく深呼吸する。

 そんな彼女を、母は辛抱強く待ってくれるのだ。

 この母に、どれほどショーノは助けられて来ただろう。

 だからこそ。

 いま、こうして。

 勇気を必要とする扉を、彼女は越える事が出来るのだ。

 使用人によって開かれるそれに、ひとつ息を止める。

 ショーノは、いつものことながら、目を細めた。

 眩しいほどの光を放つ一家が、そこにはいたからだ。

「遅くなって申し訳ございません」

 その光に向かって、彼女は挨拶の口上を述べる。

「ショーノアオルティム、元気そうだな」

 長い髪を首に巻いた、褐色の肌の若々しい男性が、芯のある声を投げかけてくる。

「はい、おかげさまで」

 彼の横に座る女性は、それよりももっと濃い肌の色だ。

 彼女に視線を向けると、少しいらだった動きをした後、こう言った。

「そんなことはいいから、早く側へ来なさい」

 もどかしい距離を縮めるかのように、彼女はついに立ち上がり、こちらへ近づいてくる。

 そして。

 抱きしめられた。

 この女性に抱きしめられている自分を、母が穏やかに見ているのが分かる。

「東翼妃殿下……苦しいです」

 力任せに抱きしめられるものだから、背が余り大きくないショーノは、彼女の胸にうずもれて息が出来なくなりそうだった。

「いまだけは、母上と呼びなさい」

 きつい言葉が、頭の上から降ってくる。

「はい……母上」

 彼女は、複雑な気持ちでその言葉を口にした。

 そう。

 ショーノの本当の父と母の名は、スエルランダルバ卿とその愛人であるエンチェルク、ではない。

 この国を治める太陽の血。

 イデアメリトスの次期太陽と、その妻だった。

 次郎は、母が二人いると言っていたが、ショーノには父と母が二人ずついるのだ。

 ショーノは、産まれてすぐスエルランダルバ卿の子となった。

 本当の父と母の間で、彼女を育てることが出来なかったからだ。

 原因など、一目瞭然。

「久しぶりね、ショーノ。余り大きくなっていないようで安心したわ」

 ようやく東翼妃の腕から逃れた彼女に、次の挨拶が待っていた。

 長く編んだ髪を、やはり首に巻き付けた姿の少女が、目の前にやってきたからだ。

 東翼妃によく似た美しさを、小さいながらに放っている彼女は、ほんの10歳ほど。

「ヒセ姉さまも、余り大きくなられていませんね」

 彼女の前に膝をつき、冗談を交えながら、ショーノはヒセと抱き合った。

 明らかに自分より年下にしか見えない彼女は、本当は17歳だ。

 イデアメリトスの血を引く人々は、髪を伸ばせば成長が極端に遅くなる。

 彼らだけが持つ、魔法の力が作用するせいだ。

 ショーノの髪は、人並み程度には長いが──成長は止まらなかった。

 そういうことなのだ。

 彼女は、イデアメリトスの魔法の力を引き継げなかったのである。

 そのため、ショーノが生まれた時、彼女は宮殿では死産という扱いになり、この家にやって来た。

 魔法の力を持たない娘が生まれたという事件は、決して口外されてはならなかったのだ。

 だが。

 こんなイデアメリトスの出来そこないの彼女にも、たったひとつだけ受け継げたものがある。

 命の光を見る瞳。

 彼女の祖母である、太陽妃が持っていた魔法の力だ。

 それは父に受け継がれ、そしてきちんとショーノまで届けられたのである。

 見た目こそ、正統なイデアメリトスの姿をしている彼女だが、雰囲気や中身は祖母に一番似ていると言われた。

 そんな、祖母の名残を多く残す自分を、イデアメリトスの父母は厄介者にはしなかった。

 こうして時折、一家総出で訪ねてきてくれるほど。

 公には出来ないが、望まれなかった訳ではないのだと、皆が彼女に心から表してくれる。

 そのおかげで、生まれた血筋通りの結末にはならなかったが、この方が自分や国にとって幸せだったのだと思えるようになった。

 あと二人の弟たちと抱き合い、挨拶を交わす。

 本当は、四人兄弟の二番目だった、ショーノ。

 いまは、スエルランダルバ家の長女だ。

 とは言うものの、家では弟に仕切られているので、どっちが上か分からない有様だったが。

 血のつながりが、余り関係ないことは、彼女も肌身で知っている。

 剣の師匠であるリリューも、それを教えてくれた。

 都の師匠である菊先生も、兄弟子である次郎も、そんなことに頓着する小さな人間ではない。

 そんな人たちの助けを借りて、ショーノはこの複雑な家族構成を、少しずつ受け入れられるようになっていた。

 小さい頃に会った太陽妃である祖母に、自分の名の由来を聞いたことも、重要な心の支えとなっていた。

 父の名は、祖母の来た国の言葉で作られていて、その別の読み方をもらったと教えられたのだ。

 テル(照)の娘。

 だから、ショーノ。

 微妙に表記が違うらしいのだが、それはイデアメリトスの父が書き間違ったせいらしい。
 
『私なんて、もらったのは一文字よ、たった一文字』

 名前に関して言えば、ヒセは不満がたっぷりあるらしく、存分に羨ましがられてしまったが。

 そんなイデアメリトスの家族も、しばらく歓談したら帰って行ってしまう。

 ショーノの入れない長い髪の一族を見送りながら、彼女は少しぼうっとするのだ。

 いつも、ちょっとぼうっとしているのだが、それに輪がかかる気がする。

 そんな彼女を。

「課題は終わったのか?」

 厳しい声で、現実に引き戻す声。

 ロアッツだ。

「ええと……まだ」

「それで道場へ行くなんて、いい身分だな」

 痛いくらいに、ぐいぐいと腕を引っ張られ、部屋に戻される。

「文武両道が聞いてあきれる。さっさと課題を済ませろ」

 ぴしぴしと小石を投げ付けるように言葉を吐くと、ロアッツは厳しく彼女の監視を始めるのだ。

「えへへ……」

 机の前に座らされながら、ショーノは笑みを浮かべてしまった。

 頭は大丈夫かという視線が向けられるが、そんなことは気にならなかった。

 こここそが、ショーノの居場所であるのだと、いつも弟は強引に教えてくれる。

 それが、嬉しくてしょうがなかった。

 ロアッツは、意識してやっているのではないのかもしれない。

 しかし、彼女がイデアメリトスから来た養女であることなど、弟にとってもどうでもいいことなのだと伝わってくる。

 リリューとその家族を思い出させる彼の態度は、こうしてショーノを微笑ませてしまうのだ。

「私、数学とは余り仲良くなれないと思うの」

 遅れている課題を、にまにましながら引っ張り出す。

「安心しろ、数学の方もショーノアオルティムと仲良く出来ないと思ってる」

 この家の父を彷彿とさせる、厭味なジョークは上達してきているようだ。

「そんな調子で、次郎兄さんとも話せばいいのに」

 それなのに、どうしてか次郎との相性は悪い。

 出会う度に、火花を散らす有様だ。

「安心しろ、あいつの方も僕とは仲良く出来ないと思っている」

 どうやらロアッツにとって次郎とは、ショーノの数学と同じ扱いだと思っているようだ。

 そ、それは、根が深いかもしれない。

 彼女は課題を見つめながら、ふぅとため息を洩らしてしまったのだった。