あの夜の記憶は、時間がたつにつれより鮮明になっていた。
彼の優しい手が私を何度も抱きしめ、あますところなく肌をたどっていった。
人肌が恋しい日だった。
小さい頃なら、母親の腕か父親の膝だったろう。
遠い昔、寂しさを感じるとぬくもりを求めて誰かに抱きしめてもらった。
大人の男女が抱き合うのは、同じような意味合いがあると聞いたことがある。
あの日、私は彼にぬくもりを求めた。
私を抱え込むように眠る宗一郎さんの腕をそっとはずし、
静かにベッドを離れた。
カーテンの隙間から外を覗くと、東の空がほんのりと明るくなりかけている。
昨夜の雨はあがっていたが、都会のビル群を覆うように深い霧が
立ちこめていた。
短い睡眠をむさぼる彼を起こさぬように、息を潜めながら素肌に服を纏う。
『帰っても誰もいないんだろう? ゆっくりしていけばいい。
朝早く送って行くよ』
何気なく、いつも話すように向けられた宗一郎さんの言葉に
『そうね……』 と返事をしていた。
これまでいく度となく食事を共にし、同じ時間を過ごしてきたのに、
私たちは互いに知らないことが多すぎた。
一晩中、彼と語り明かしたいとも思った。
けれどあの夜、私たちの間に会話はなかった。
素肌のぬくもりがあれば充分だった。
交際を始めても、その過程に至らない人もいた。
私は、どちらかと言えば物堅いと言われてきた。
お高く留まっている、とあからさまに言う男性もいた。
誰かと初めて肌を重ねるとき、これまでの私ならそれ相応の心の準備が
必要だったはず。
けれど、宗一郎さんの前では準備など要らなかった。
言葉よりも、肌よりも、心が彼と重なりたいと願ったのだから。
「早いね。何時?」
「起こしちゃったわね。まだ夜明け前よ。
夜が明ける前に帰ろうと思って……タクシーをひろうわ」
ベッドから上体を起こした宗一郎さんはメガネに手を伸ばした。
あの人も、目覚めるとメガネを探っていたと、今では遠い記憶となった
人の仕草が蘇ったが、彼が見慣れた顔に戻った頃、その記憶もまた、
引き出しの奥にしまわれた。