「先輩、いつもこうだと助かります」
「何が助かるんだ?」
「上司の機嫌がいいと仕事がしやすいって事です。
見かけによらず感情がでるんですよね、先輩って」
「そんなことはない」
「弟さんの潤一郎さんはいつも穏やかですね。
でも、微笑に隠れて思考が読み取れない。
先輩は一見穏やかそうでも、その微笑みは鋼鉄ですから
人を威圧するときがあるんですよ。わかってましたか?」
「潤一郎は自分を見せない。だから諜報機関向きなんだ。
それに比べて俺は、感情の制御ができないってことだろう。フンッ」
ほら、その態度がそうなんですよ、と平岡は後輩らしからぬ態度で指摘した。
言い返そうと思ったが、またからかわれるのが目に見えて黙ってやり過ごす
賢い後輩は素早く優秀な秘書の顔に戻って、もう仕事の話を始めている。
平岡に言われるまでもなかった。
狩野の婚約を祝う会以来、私は自分でも理解しがたいほど気持ちが
上向いていた。
ひとりの女性の影響によるものだというのは、否定しようのないことだったが、
それを誰かに指摘されるのは非常に癪だった。
誰の目にも私の変化は明らかなのだろう。
今朝も報告書を持ってきた常務に 「副社長、何か良い事がありましたか」
と聞かれたのだから。
もっとも彼の場合、私が元婚約者のことで、ずっとふさぎこんでいると
思っていた節があるので、常務なりに心配していたのかもしれない。
それほど、これまでの私は周りに心配をかけていたようだ。
平岡が午後のスケジュールを調整したのでと、口の端で意味ありげに
微笑みながら 「例の資料です」 と付け加え私に差し出した。
「珠貴さん、本当に始めるんでしょうか」
「彼女のことだ、それなりにリサーチしてのことだろう。
それに蒔絵さんにとってもいいことじゃないか」
「それはそうなんですが、上手くいくんでしょうか」
「だからこそ上手くいくように、こちらもできる限りの協力をするつもりだ。
会えば詳しいこともわかるだろう」
「それもそうですね、よろしくお願いします。ではのちほど参りますので」
恋人のために律儀に頭を下げた平岡は、今度は嫌味を言うことなく部屋を
出て行った。
午後から珠貴と蒔絵さんを交え 『割烹 筧(かけい)』 で会うことに
なっていた。
珠貴の父親の会社 『SUDO』 の新事業として宝飾部門を立ち上げるので、
私たちにも話を聞いて欲しいとのことだった。
宝飾デザイナーの蒔絵さんの作品を中心に、自社ブランドを立ち上げる
予定らしい。
蒔絵さんの交際相手である平岡だけでなく、私も一緒にと言われたのは、
頼りにされているようで満更でもない気分だった。
待ち合わせの時刻までしばらくある。
早めに出かけたい気持ちを抑えながら、冷めかかったコーヒーカップを手に
椅子に腰掛けた。
今日も珠貴はイヤリングをしているだろうか。
彼女の華やいだ顔を想像しながら、狩野の婚約披露パーティーの夜を
思い出した。