彼が触れた耳元に、何度となく手をおき頭をかたむける。

あのときと同じ気持ちになりたくて、一緒に過ごした夜の時間を思い

返した。



「珠貴さん、何か気になることでも?」


「えっ? いえ、もう一度お聞きしてもよろしいかしら」


「えぇ、いいですよ。首をかしげているから、

こちらの条件に納得がいかないのかと心配になりましたよ」


「そんなことはありません。ごめんなさいね」



櫻井さんとの打ち合わせは重要事項を含んでいるというのに、今日の私は

仕事の話をしながら、ときどき意識だけがこの場を抜けだしていた。

父たちの策略か、今回の件は私たちに任せるとのことで、否応なく櫻井さんと

会う機会が増えていた。

先日も仕事のあと食事に誘われ、帰宅した直後の宗一郎さんからの

メールだった。



『夜だけ営業しているカフェがあり近くにいる。イタリアンスイーツだ。 

今夜が無理なら、都合の良い日を知らせてくれ』



いつもの素っ気無い宗一郎さんの文面だった。

一緒に行こう……でもなければ、

一緒に行きたいのだが……でもない。

同行することが前提の言い草が彼らしく、強引な文面に苦笑いした。 

けれど、私には彼の強引さが嬉しかった。



『私も外出先です。これから一緒にいかがでしょう』



帰宅していたにも関わらず、私はこんなメールを宗一郎さんに返信した。





趣のある店内は薄暗く、椅子もテーブルも年代物ではあったが、抑えた照明に

鈍い艶を見せていた。

彼を待つ間の数分は長くもあり短くもあり、何から話そうと思案し続けたのに、

私を見つけてくれた顔に挨拶代わりに手を上げていた。

オーナーの手によるものだというケーキは、私がかつて過ごした街で

毎日のように口にした味に近く、懐かしさを含んでいた。

互いのもどかしさも気まずさも、ほの暗い店内に救われたようで、

何事もなかったかのように他愛のない会話で一時間ほどを過ごした。 

真夜中のカフェをあとにし古びた建物をでると、コーヒーで温まった体が

冷たい風にさらされ、思わず身を縮め、厚手のジャケットを着てくるんだった

と思ったとき、ふいに温かさに包まれた。



「近くに車を止めている。さすがに夜は冷え込むね」


「今日はご自分のお車なの?」


「あぁ、平岡は先に帰した。あのカフェを教えてくれたのは彼なんだ」



まぁ、素敵なお店をご存知なのね。平岡さんに感謝だわと言いながら

彼を見上げると、うん……と素直に嬉しそうな顔が見えた。

宗一郎さんの腕に抱えられ、さほど寒さを感じることなく駐車場につくと、

彼の背丈に似合わぬ小型の車に案内された。

初めて乗せてもらうことでもあり遠慮がちにしていると、寒いから

早く乗ってと、ドアを開けた手と反対の手に押し込まれた。