「楽しい時間をすごしました」


「こちらこそ、貴重なお話を聞くことができました」


「たいした話ではありませんが、なにかの糧になれば嬉しいですね。

今夜は実に爽快な気分です。もう少し飲みたいが……

静夏さん、ここ 『榊ホテル東京』 には老舗のバーがあるんですよ。

正統派のバーテンダーいて、大人の時間を味わうことができるそうです。

一緒にいかがですか」
  

「わぁ、嬉しい。ぜひ、ご一緒します」



弾けるように立ち上がると、静夏は須藤さんのそばに行ってしまった。



「近衛君、珠貴を送ってもらえませんか。静夏さんは僕がお送りしますので」 


「それはかまいませんが……」



珠貴を見ると、コクンと小さく頷いていた。

このあと一緒に過ごすのか、家に送り届けることになるのかわからないが、

いずれにしても話をする時間ができそうだった。

彼女に確かめたいことがあった。

婚約は本当なのか、受け入れるつもりなのか、珠貴の口から聞いておきたい。

返事次第では、今後の私たちの付き合い方を考え直さなければならないと

思っていた。



「ウチのバーをご存知でしたか。バーテンダーの噂があるとは光栄ですね」



狩野も嬉しそうに立ち上がり 「ご案内します」 と須藤さんと静夏を促し

歩き出した。

数歩歩いたところで静夏が引き返し、私の耳元に顔を寄せこう告げた。



「珠貴さんのお相手が決まったこと、間違いだったみたい。

婚約は親戚の方のお話だったんですって。 

今朝ね、お母さまから聞いたの。宗に言うのを忘れてたわ。じゃぁね」



どうしてそれを早く言わないんだと静夏を怒鳴りつけたいところだが、

肝心の妹は逃げるように須藤さんのそばへと行ってしまった。

噂に振り回され、妹に振り回され、この数日間の鬱々とした思いは

なんだったのか。

すべては取り越し苦労だった。

はぁ……と、大きなため息をついた私を、珠貴が ”どうしたの?” と

いうように覗き込んでいる。


 
「あっ、いや、なんでもない。このあとどうする。帰るなら送るよ」


「私も、まだ帰りたくない気分なの」


「少し話をしようか……バーは外野がうるさそうだな。俺の部屋でもいい?」



珠貴は黙ったまま頷き、ゆっくりと立ち上がった。

会場を出るまでに何人もの知り合いに声を掛けられたが、そちらへはいつもと

変わらぬ対応をして笑顔で言葉を交わしていたのに、いま私のすぐ後ろを歩いて

くる彼女は黙ったまま、言葉を忘れたように口を閉ざしていた。