どんな形でも良いから、愛されたかった。



彼女が東京へ行くと言い出した時、私は捨てられたような気分になった。

新幹線で3時間もかかるほど遠いところへ彼女が1人で行ってしまうということが、信じられなかった。

「考え直してよ、美穂ちゃん。

ただでさえ会えなかったのに、更に会えなくなっちゃうじゃん。」

いつもは彼女に遠慮して何も言えない私だったけれど、この時ばかりは少し強い口調で、不機嫌を隠さずにそう言えた。

ドレッサーの前で化粧をしている彼女・美穂ちゃんは、私の方を一切振り返らなかった。

多分泣いているのだと分かる。

ずっと一緒にいたのだから、彼女のことは誰よりも知っている。

だから、私は彼女に対して誰よりも我が儘だ。

「向こうに、彼氏がいるの。

こっちにいたって、皆はウチに冷たいじゃん。」

美穂ちゃんの言葉に、私は机を勢いよく叩いた。

「私がいつ美穂ちゃんに冷たくしたの!?」

肩を跳ね上がらせた美穂ちゃんだったけれど、此方を振り向こうとはしなかった。

マスカラを何度も上塗りしながら、「さぁ……」と疲れ切った声で言った。



美穂ちゃんを愛せるのは自分だけだと、ずっと思っていた。

美穂ちゃんは誰よりも弱くて可哀想な子だった。

誰にも理解されなくて、親からも酷い扱いを受けていて、恋人はしょっちゅう変わった。

彼女と1番長い付き合いを持っているのは、私か彼女の兄だ。

美穂ちゃんの手首にはたくさんの切り込みが入っていて、美穂ちゃんの服の下には酷いアトピーがある。

小さい頃からたくさんの人と寝てきた彼女は、心身ともにボロボロになっている。

普段は明るく振る舞っているけれど、私の顔を見た途端、生気の抜けたような顔をする。



「彼氏って、何歳くらいの人なの。」

私は少しだけ優しい声に戻した。

美穂ちゃんが怯えて帰ってしまうのが嫌だったからだ。

美穂ちゃんは化粧をする手を止めて、やはり振り返らずにぽつりと言った。

「40代。オッサン。」

明らかに駄目じゃないか……。

私は溜息を零して、美穂ちゃんの肩に手を掛けた。

強引に振り返らせると、彼女はやはり泣いていた。

「ねぇ、美穂ちゃん。もうやめよ。

美穂ちゃんのこと好きな人は、まだいるんだよ。」

私の言葉に彼女は首を激しく振った。

「いない。

何であんたなんかにそんなことが分かるの。

いないの。

親父にも死ねって言われたし、母さんにも『あんたと家族だってことが恥ずかしい』って…はっきり言われたんだよ?」

「ご両親に言われただけでしょ!?」

彼女はもっと激しく首を横へ振った。

前の彼氏も、その前の彼も、ずっと前の彼氏も。

もうメールを送っても返してくれないのだという。

「都合良すぎるんだよ、私。

だから、皆から嫌われているんだよ。」

力のない美穂ちゃんの言葉に、私は思わず舌打ちをしそうになった。

――勝手に皆って決めつけるなよ。

夜遅くに部屋へ迎え入れた私の気持ちはどうなるんだ……。

苛立った私は灰皿を机へ乱暴に置いた。

ムッと煙草の匂いが立ちこめ、思わず咳き込む。



「私じゃ、駄目なの?」

日付が変わった。

美穂ちゃんは電源を切ってしまっているけれど、私のケータイには彼女の両親からずっと電話がかかってきている。

着信拒否にしようとも思ったけれど、ご両親の気持ちが分からないわけでもないのでやめておく。

美穂ちゃんは私の顔をちらりと見て、それから鼻で笑った。

「弱虫泣き虫のあんたと?

無理、冗談でしょ。」

私は美穂ちゃんの肩から手を離す。

分かっていた答えだったのに、やけに傷付いた。

「親戚じゃなかったら、あんたなんかと付き合ってないって。」

美穂ちゃんは鼻をすすりながらそう言うと、床に転がっていたクッションを力一杯抱き締めた。

「守って欲しいし、大好きって言って欲しいし、寂しい時は抱き締めて欲しいし……。

あんた冷たいし、そういうの無理じゃん。」

否定はできなかった。

確かに私は今まで美穂ちゃんにずっと冷たく接してきていた気がする。

出会い系に登録してネット彼氏の話を延々とする彼女のことを、心の何処かで軽蔑さえしていたかもしれない。

でも、好きだった。

親戚だし、女の子だし、色々抱えているけれど、それでもずっと好きだった。

「私いなくなっても、あんたは困らないでしょ。

友達色々いるみたいだし、すぐ忘れてよ。」

美穂ちゃんは鞄の中に荷物を詰めて、玄関へと歩いて行く。

「今日は家帰る。

あいつらが警察に電話する前に戻らないと…。」

そう言う声がまだ震えていて、私まで悲しい気持ちになった。



美穂ちゃんが出て行った後の我が家はやけに静かだった。



朝、美穂ちゃんの香水の匂いに包まれて目が覚めた。

朝食を食べるという行程を減らし、着替えるとすぐ鞄を持って家を出る。

予備校の講義は朝早いうちから行われていた。

仮にも受験生だ。

高校へ通わなかった分真面目に勉強しなくてはいけない。

昨日のことが気になって少しだけ胸が重かったけれど、「今はそれよりも…」と自分に言い聞かせた。

後ろの席に座った男子から親しげに話しかけられて、私は愛想笑いを返す。

「坂崎さん、今日香水の匂い違くね?」

他の男子からも声をかけられ、私は再び曖昧な笑顔を作った。

「あ、もしかして彼氏?

これ、ユニセックスの香水?」

冷やかし半分の彼らに「バーカ」と返して、私はルーズリーフを整理する。

美穂ちゃんは本当に家へ帰ったのだろうか。

彼女のご両親からの電話が途切れたということは、帰ったのだろう。

そう納得して私は講義に集中することにした。



私は虐められっ子で、美穂ちゃんは虐めっ子だった。

本来なら此所で虐めが成立しちゃうところなのに、私たちは幸か不幸か遠いながらに親戚同士だった。

私が誰かに虐められていると、仕方ないなぁという風に美穂ちゃんが私を助けてくれる。

これが中学へ上がるまでの私たちだった。

中学に入ってからは、ほとんど関わり合いもなくなった。

私が私立の中学へ進んでしまい、そのせいで会える日も減って行った。

美穂ちゃんは同じ学校の友人とバンドを組んだらしく、その練習に忙しかったらしく、会えるのは年に3回くらいだった。

中学を卒業してから、再会した。

何故だか同じくらいの時期に2人とも高校を中退してしまっていた。

一緒に遊ぶことが多くなったけれど、かつてのように無邪気な遊びではなかった。

2人で繁華街に出て行って、ナンパされるのを1日中待っていたり。

試しと言ってお酒や煙草をやってみたり。

何でも恐る恐るの手探りではあったけれど、私たちはそれらをそつなくこなしてしまった。

他の高校生たちよりも早く大人になっていっているという気分だった。



美穂ちゃんのことは、小学生の頃から好きだった。

当初は憧れに近かったけれど、再会してからは同等な立場から好きになった。

同じような感覚を持っているように思えたのだ。



なのに。



「東京って遠いよね……」

私の言葉に、後ろの席の男子が身を乗り出して来た。

「何、坂崎さん東京の大学行くの?」

だと良いんだけどねー…。私は返事をするのも億劫になり、首を横へと振った。

大学は、県内の宗教学科のあるところに決めていた。

どうしても宗教について勉強したかった。妙な執着があって。

「だよねー。あ、何処の大学志望?

良かったら同じ大学も受けてみない?」

しつこく背後から質問攻めをされ、私は舌打ちをしながら振り返った。

「お寺の子がキリスト教学科って……無理でしょ。」

私の言葉に、男子は「え」と目を丸くしてから、一気にがっかりしたような表情に変わった。

「そっかー、坂崎さんってプロテスタントの中学出身なんだっけー。」

「Yes」

短く返し、私は再び黒板を見た。

先生が去って行った後の黒板には、ぼんやりと美穂ちゃんの顔が浮かんで見えた。


しばらくして、真夜中に美穂ちゃんから電話がかかってきた。

眠たくなくて本を読んでいたために、ワンコールで取ることができた。

私がもしもし、と言わずにいると、向こうは躊躇ったように切り出して来た。

「坂崎、一緒に東京行かない?」

と。

私は読んでいた本を閉じて、ケータイを持ち直す。

答え方が分からずに、馬鹿みたいに聞き返してしまった。

「1人暮らし、不安なんだよ……」

東京には彼氏がいるんじゃなかったっけ?

私は首を傾げながらも、そのことは言わないでおいた。

「私、大学進学したいんだ。

できることなら、こっちのN大。」

本当は良いよと言いたかったけれど、数分で決めて良いようなことでもなかった。

親に言ったらどう考えても反対される。

私の両親は一般家庭よりもずっと厳格だから。

「だよなー、そうだよなー。」

電話の向こうの美穂ちゃんは、また泣いていた。

私が返事に迷っていると、彼女はプツリと通話を切ってしまった。



慌ててかけ直したが、「運転中です」とテクノボイスが聞こえてくるだけ。

美穂ちゃんは電話に出てくれなかった。



通り魔殺人のニュースを聞きながら、朝食を口へと運んだ。

私だって人くらい殺したいさ……。

小さく溜息をついて、私は食器を流しへと持って行く。

必要以上に洗剤をスポンジに乗せて、流しを泡だらけにしながら洗い物をした。

憂鬱な気分が晴れないままだったけれど、それでも予備校へは行くことにした。



男子は相変わらず私の後ろの席へと座る。

そして、ちょっかいをかけてくる。

適当にあしらおうとも思ったけれど、ふと思いついて私は振り返った。

「ねぇ、君さ。

私が東京の大学へ行ったら、君も東京まで来てくれる?」

男子は少しだけ驚いたような顔をして、それから首を横へ振った。

「だよねー、そうだよねー。」

昨日の美穂ちゃんみたいに私は相槌を振って、すぐに椅子へと座り直した。

いつものように昨日の分のルーズリーフを整理する。

している途中で、背後から声が聞こえた。

「好きだからって、ずっと一緒にいるのはおかしいと思うし。」

こいつにしてはまともな意見だ……。

私は振り向かずに小さく頷いた。

「離れていても、気持ちは簡単には変わらないだろうし。」

それは人次第だけれど…とも思った。

案外この人になら言ってもいいような気がした。

さすがに家庭の事情のことまで話すのは嫌だったから、結局は黙っておいたけれど。


美穂ちゃんが使っているMAYBELLINEのマスカラを、薬局で購入した。

アイプチも真似しようと思ったけれど、やめた。

マスカラを1本だけ持ってレジへ行く。

平日から私服で買い物に来ている高校生を見て、パートのおばちゃんは不審そうな顔をしていた。



家に帰ってすぐ、マスカラを試してみた。

今まではマスカラよりもつけまつげの方が好きで、マスカラをする時も100均で買ったダマのできやすいものばかり使っていた。

不慣れだからか、目の端や目の中に黒ずみが付いてしまった。

昔から、不器用なのだ。

美穂ちゃんと違って、簡単には何もできない。

料理も洗濯もお掃除も、最初は何もできなかった。

美穂ちゃんがいなくなっちゃったら、私はマスカラもろくにできないまま大人になるのだろうか。

1人暮らしが不安なのは、私だって一緒だ。

美穂ちゃんと一緒に住みたい。

その気持ちもある。



もう1度、電話をかけてみた。

やはり繋がらなかった。

仕方なく自宅にかけてみた。

すぐに美穂ちゃんのお母さんが出た。



「美穂のこと説得して下さい。

あの子、東京に行く為にバイトたくさん入れたりして、私たちの言うことまったく聞かないんです」

美穂ちゃんのお母さんは、そう言ってから電話を美穂ちゃんに取り次いでくれた。

私に説得なんてどうせ無理だ…、そう思っていたけれど、何故だかやけに緊張した。

電話の向こうの美穂ちゃんはやけに不機嫌だった。

「ケータイ、出てくれなかったから。

家にかけちゃって、迷惑だった?」

私のことなど一切無視するように、美穂ちゃんは言った。

「東京、行くから。」

行けっこないのに、非現実的にも程があるのに、それでも美穂ちゃんなら東京に行ってしまいそうな気がした。

ご両親にちゃんと止めて貰いたかったけれど、彼らはきっと心の底では美穂ちゃんが東京へ行くことを望んでいるのだろう。

もう、止めるのは私くらいだと思った。

「東京の彼氏、良い人じゃないんでしょ?」

電話の向こうは、無言だった。

少しだけ時間をおいて、不機嫌な声が聞こえてきた。

「彼女が、できたんだって。」

じゃあ……と私が言う前に、美穂ちゃんは言った。

「でも、行くから」と。



「私と離れて、寂しくないの?」

思いきって聞いてみた。

美穂ちゃんは少しだけ言葉に迷ったようだったが、やがて「うん」と言った。

「とにかく家を出たい、それだけだから。」

電話はまた一方的に切られてしまった。

何デだよ……。

私は小さく呟いて、ケータイを床に叩きつけた。

誰もいない家に、その音は大きく響いた。


美穂ちゃんの家へ訪れたのは、模試が終わってからだった。

あまりにも散漫な結果に、両親からは顔をしかめられた。

「あんた、これでN大はちょっと…。

レベル下げるか、もっと頑張るか、どちらかにしなさい。」

家を出る時に母親から言われた言葉が、ウォークマンを無視して頭の中をリピートする。

別にN大じゃなくても構わない。けれど、今更言い出せなかった。

高校を辞めたことだけでも両親への負い目なのに、志望校まで下げたくはなかった。

周りからの目を親が気にしていることは知っていたから。



――家族なんだから…。

家出を重ねる美穂ちゃんにそう説得したことがあったけれど。

あぁそうか……家族だからこそなんだ。

がっかりさせたくないんだ。

遠慮しちゃうんだ、お世話になった分。



美穂ちゃんは留守だった。

その間に部屋を確認して欲しいと言われ、私は美穂ちゃんの部屋へ通された。

想像していたよりはずっと整頓された部屋だったけれど、机の上は雑誌やノートが山積みになっていた。

たくさんの原宿系ファッション誌を私は仕方なく整頓し始める。

私の影響を彼女がモロに受けてしまったことを悟った。

――青文字系って感じじゃなかったじゃん、美穂ちゃん。

心の中で思いながら、雑誌を発行順に集めて壁に立てかけた時だった。

残された雑誌以外の冊子に目が留まった。



「――専門学校?」

声優養成で有名な専門学校のパンフレットが、雑誌に隠されるようにして置かれていた。

私も興味のあるテーマに、思わずパンフレットをめくった。

シャープペンが目印にはさまれていた。

学費についてのページだった。

書き込みがある。

『あと○万円!!』

思わず美穂ちゃんのお母さんを部屋に呼びそうになる程、私は宝物を見つけたような気持ちになっていた。

それは嬉しいだけではなくて、大きなものを見つけてしまった戸惑いも含まれる。

残っている冊子にパンフレットを挟み隠そうとして、私はまた目を大きく見開いた。

残っているものはすべて、難関私立大学のパンフレットだった。

高校中退して、しかも予備校にも通わず、勉強もしていない。

そんな美穂ちゃんが興味を持つはずもないような有名校ばかりだ。

付箋が貼られているページを1つ1つ確認して、息を呑んだ。