『本を食べちゃいけないよ』
母親は、繰り返しそう言った。
まるで、小さな子供に言い聞かせるように。
それが最期だった。

街の片隅の小さな古本屋。
昔はここに、僕の母が座っていた。
今はもういない。
僕は日がな1日、本を読んでいる。
きっと、売った本よりも読んだ本の方が多い。
今日はそろそろ閉めようか。
そんな事を考えていたら、1人の男が入ってきた。
『いらっしゃい』
声をかけたが、男は僕に目もくれずに、熱心に棚を見つめる。
一冊、一冊、何かを確かめるように。
やがて、一冊手に取ってレジに持ってきた。
『380円です』
僕が言うと、男はポケットから10円玉と、1円玉を手のひらに並べて数えだした。
変わった人だなと思いながら、僕も一緒になって男の手のひらを覗き込んでいた。
男はやっと僕を見た。
数え終わった小銭を握って差し出す。
その目は、虚ろなようで、血走っていた。
『ありがとうございます』
小銭を受け取った瞬間…

ばりっ

男は本を1ページ破った。
驚く僕をよそに、破ったページをくしゃっとまるめて口に入れた。
慌てて止める。
『何してるんですか』
男は僕の手を払いのけ、口を動かしている。
やがて、唾液でぐしゃぐしゃになったページを口から吐き出した。
『食えない…』
大の大人の男が、本を食べられない事を悲しがり泣き出した。
何だか怖くなり、何でもいいから早く店から追い出したくなった。
『本は食べられませんよ』
僕がなだめると、男は涙と鼻水でどろどろになった顔を上げ、『そんな事はない』と言った。
『食えるんだよ。現に俺は一冊食っちまったんだ』
何の事かさっぱり分からない。
でもこの人は、動く気配がない。
どうしたものか。
もっと分かりやすく怖い相手なら、警察でも呼ぶところだが、こんなに泣きじゃくっている人間相手にその対応は人情がない気がして腰が引けた。

とりあえず僕は、男にお茶とティッシュを渡した。
男は落ち着いてくると、もとの虚ろなような血走ったような目に戻った。
それから遠くを見ながら話し出した。
食べられる本の話を。


ただのサラリーマンだった。
毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗って。
たまに電車で見る女の子を見てかわいいな、なんて思って。
会社につけば、ひたすら愛想笑いをして書類に向かう。
暑い中、方にジャケットをひっかけながらハンカチで汗を拭きながら、お得意先まで行って特に興味もない野球の話に花を咲かせて。
夜、帰りの電車の中で読む小説なんかが楽しみだった。
人気のない電車。
あの照明は何だか明るくて薄い緑色に見えた。

あの日も電車を待ちながら、駅のホームにある売店で小説を物色していた。
一冊手に取ってパラパラめくりながら買おうかどうか迷っている時に、あの男が近づいてきた。
男は「小説を買うのかい?」と私に話しかけてきた。
へらりと笑って答えずにいたら、男は懐から一冊の本を取り出した。
私にそれを渡して来た。
正直、そんな行動を取る事自体も理解できなかったし、何よりもその風貌がお世辞にもきれいとは言い難かったので、私は受け取ることを躊躇した。
男は押しつけるように、私に本を押し当てて言った。
「たまには食べる本もいいだろう」
料理の本か何かだと思い「いえ、興味がありませんので」と断ったが、男は私に本を押し付けて歩きだした。
「あの…」
私が声をかけると、男は振り返って笑った。
「まあ、騙されたと思って口に入れてみればいい」
男は向き直ると、あっという間に階段に吸い込まれるように消えていった。
私はあっけにとられて、追いかける事も忘れていた。
ふと気付いた時には、もう遅かった。
どうしたものかと考えていたら、ちょうど電車が到着した。

まあ、相手も好意でくれると言ったのだから、読む読まないは置いておいてもらっておく分には構わないだろう、それくらいにしか思っていなかった。
電車に乗り込み、さっそく1ページ開いてみる。
「雲の上」
タイトルのページかと思った。
次のページをめくってみるが、次のページは何も書いていない。
その次のページも、その次のページも。
真白なページが続いている。
私は何が何だか分からなかった。
それを鞄にしまいこみ、何だか妙に疲れた気持になってそのまま眠ってしまった。
それからその本の事はすっかり忘れていた。

本を受け取ってから、どのくらいの期間がたっていただろうか。
ある日とても酔っ払って帰宅した日があった。
鞄を放り投げるように置くと、一冊の本が飛び出した。
あの男からもらった本だ。
「そういえば、食べてみろと言っていたな」
酔った頭はなかなか単純な作りになっている。
私は「雲の上」と書かれたページを試しになめてみた。
そうしたら、急に私の体はふわりと浮かんだんだ。
なんとも言えないふかふかした寝心地のベッドに横になっているような気分。
そう、例えるとしたらちょうど「雲の上」に寝ているような気分だった。
一瞬ですべての感覚は元に戻った。
酔っているんだろうと思ってそのまま眠ってしまった。

翌日、休日だった事私は昼過ぎまで眠っていた。
起きて痛む頭に昨日は失敗したな、なんて思いながら台所に立って水を飲んだ。
煙草を吸おうと、居間のソファに座った時にテーブルの上に無造作に置いた本に気づいた。
夕べは酔っていたから、あんな気分になったのだろうと疑ってかかっていた。
私はもう一度、「雲の上」のページを開いた。
まだ酒が残っていたのかもしれない。
私は、そのページをもう一度舐めてみた。
昨夜と同じように、まるで雲の上に眠っているような気分になった。
その感覚は夕べと同じように、一瞬で元に戻った。
私は恐る恐るページの端を破いて口に入れた。
今度は周りにふわふわした雲のようなものが見えた。
上は真っ青な空。
気持ちの良い風が吹いて、私は雲の上のようなベッドに横たわっている。
それはしばらく続いた。
目が覚めると、もう夕暮れだった。
休日の大半を眠って過ごしてしまったのに、妙にすっきりした気持ちになっていた。
その日から、週に一度本を食べては気持ちよく昼寝をするのが休日の楽しみになった。

ささやかだけれど、休日の楽しみがある事が嬉しくて調子に乗って仕事をしていた。
始めは順調だったが、そのうちに過信が出て私は仕事で大きな失敗をしてしまった。
翌日仕事があるにも関わらず、私はその夜本を食べた。
「雲の上」のページはそろそろなくなりかけていた。

休日だけと思っていたのに、平日も3日に一度本を食べるようになった。
さらに、間隔は2日に一度から毎日へどんどん狭くなった。
挙句に仕事の休憩中にひとなめするようになった。
もう「雲の上」のページは食べきっていたが、私はこの本の使い方に気づいてしまった。
白紙のページには、自分が望む事を書いてから食べればいい。
こんなに良いものは他にあるだろうか?
ページに自分の望みを書いて口にするだけで叶う。
それが、単に短い時間の夢であったとしても。
私は本の無い生活が考えられなくなった。
男はもうぬるくなっているはずのお茶をすすった。
深呼吸か、溜息か分からない長さの吐息を吐いた。
『幸せな時間を過ごすことができたんでしょう?』
静かな空気を破って僕は話しかけた。
ちょっと中毒みたいだけれど、という考えは浮かんだけれど初対面の人にそんな事を言うのも失礼かと思って控えた。
男はあざ笑うような自嘲するような、不思議な笑みを漏らした。
『俺が幸せそうに見えるか?』
確かに…と言いかけて止めた。
『俺は、本を食うことしかしない人間になった』
やっぱり中毒症状だなと思った。
ドラマでいくと、実は麻薬が仕込まれているという展開が予想できるところだ。
『持っていたものを全部失っていき、あの本だけが頼りだった。あの本だけがあれば、他には何もいらなくなった』
僕も一口お茶を飲んだ。
『持っている物をなくすなんて簡単だ。あっと言う間に全部なくなった。それでも本は残っていた』
本だけを頼りにして、その本がなくなってしまった結果がきっとこの男なのだろう。
男は何か言葉を一つ飲み込んでコップをカウンターに置いた。
『ごちそうさま』
ふらふらと店を出ていった。
僕は無言で彼の背中を見送った。
残ったのは汚れたティッシュと、ほんの少しお茶の残ったコップと、一枚ページが破られた古本だけ。
僕は身動きもできずに、そのままカウンターに座っていた。

僕は今日もカウンターに座り、本を読む。
気温が高い時期になってくると、このクーラーの無い店内は暑い。
入口のドアを開ける。
濁った生暖かい風が入ってきた。
閉めようか迷ったけれど、閉め切っているよりはましだろうと開けたままにしてカウンターに戻り、団扇を片手に本の続きを読む。
遠くでサイレンの音がした。
人のお客は来ないが、猫が一匹迷い混んできた。
他にすることもなかったので、冷蔵庫から牛乳を出し飲ませる。
猫は必至で牛乳を飲み、飲み終わると僕に最速するように鳴きかけてくる。
きっともうそれほど飲みたいわけではないのだろう。
でも、今もらっておかなければ次にもらえる機会がいつくるか分からない。
だからこんなに必至なんだろうなと思い、猫をなでた。
いつもなら、「しょうがないな」なんてひとりごとを言いながらもう一杯ごちそうするところだけれど、あまりそんな気持ちになれなかった。
『また来いよ』
猫に話しかける。
猫は僕がおかわりを出さない事を悟ったのだろう。
くるりと背中を向けて店を出て行った。

今日も気温は上がり続けている。
昔からこんなに暑かっただろうか、なんてどうしようもない事を考えながら麦茶を飲む。
冷たい麦茶を入れたガラスのコップの表面は、まるで汗をかく僕みたいにしずくが垂れている。
久し振りに店内に、僕以外の人の足音が響いた。
脇に茶封筒をはさんで、しきりに汗を拭きながら入ってきた。
そんなに暑いのならせめてスーツのジャケットを脱げばいいのになと思いながら『いらっしゃいませ』と声をかけた。
日が沈みかけている。
僕の目の前には紙切れが一枚ある。
無造作に破られた紙。
ぐしゃぐしゃで、何度も折った跡がある。
昼間来た人間が、ある男が交通事故で亡くなったと告げた。
浮浪者のような風体で、結局家族どころか住まいすら分からない男が一人亡くなったという。
その男が奇妙な遺言を残した。
この紙切れを、僕に渡してほしいと言い残したそうだ。
そして、その紙切れが今僕の手元にある。

紙切れを眺めるうちにすっかり辺りは暗くなった。
ぐしゃぐしゃの紙。
何度も折った跡のある紙。
何度も、何かを書いては消した跡。
持ち主が誰で、これが何なのかは見当がついた。
あの日のあの男が僕に語った、食べられる本の1ページなんだろう。
食べ切ったような口ぶりだったが、最後の1ページだけは残していたんだ。
それはどんな気持ちだったのだろうか。
その紙に残った言葉。
―元の生活
本を食べて叶うのはただの夢と知っていたはずなのに。
それでも最後の願いはこれだった男の事を思う。
男の悲しさ、あの日引き止めなかった事への後悔。
色々な気持ちが湧いた。
そして、この紙を食べてみたいという好奇心。