毎日退屈なデスクワークを繰り返していた私だったが、今日はいつも以上に仕事の終わりが待ち遠しかった。退屈な仕事、同僚との交遊も少ない私は会社での仕事を終え、いつもならば帰路につくはずだが、今日は帰らずに上司のくれたカードに記載されている場所へと向かった。いつものように凝った肩を使い、計算するだけの書類を永遠としていた私に、上司が突如渡してきたこの黒いカードには「忘れ屋」とかかれ、電話番号などはなく、ただただ住所と周辺地図と、「忘れ屋」の文字だけが書かれていた。上司になにかと尋ねても、
「行けばわかる。」
としか言わなかった。
「新手の風俗なのだろうか。」
そう思いつつ、私は若干の期待と不安を持ちつつ行くことにした。
会社からそう遠くない、都会から少し離れた最寄駅で降りると、最小限の情報のみが書かれた地図を元に忘れ屋を目指した。
かれこれ15分くらい歩くと、建ってから随分とたつであろう老朽化したマンションの脇にある、小さなバーの入口ような黒い扉を発見した。扉の横には小さい看板に「忘れ屋」と書いてあり、風俗にはにつかない地味な出で立ちである。
「なにはともあれ、入ってみるか。」
ここまで来て帰るというのも骨折り損であるし、なによりなにが起こるのかという冒険心が私を誘った。
黒い扉のノブに手を掛け、意を決して開けると中はカウンターと小洒落た丸椅子が並ぶ、まさにバーのようになっており、カウンターのスーツ姿の50代後半くらいの男性が軽く会釈をした。
正直、落胆した。来てみたらただのバーとは拍子抜けにも程がある。
私は扉を閉め、小さく溜息をつくと、とりあえずはマスターの前の丸椅子に座った。扉を開けておいてそのまま帰るとはいかない、適当にひっかけて帰ることにした。
室内にはジュークボックスからクラシックが心地良く響いている。
客は誰もいなく、狭い空間は広く感じた。
雰囲気は良いものだが、期待していた刺激には程遠い。
私はしばらく考えて
「マティーニを。」
というとマスターは、かしこまりましたとだけ言って作り始めた。
こんなことなら会社の近くの適当なバーでよかったなと改めて後悔の念が押し寄せた。

「カードはお持ちですか?」
マスターが突然尋ねてきた。
私はポケットから上司から貰ったカードを取り出した
「これですか?」
「ああ、お持ちで。」
「会員カードなのですか?」
「まぁ、そのようなところで。」
こんな閑古鳥がないたバーに会員カードなるものがあるのに驚いた。
「会員だとなにか違うのですか?」
多少の嫌味を含んでそう言うと
「ええ、それは勿論。」
と答えた。
「いくら割引に?」
「いえ、割引になるわけではございません。」
「では何が?」
「会員の方には『忘れ』を提供させて頂いております。」
「『忘れ』?」