僕は何度でも、きみに初めての恋をする。


忘れていた思い出だった。

消えたわけじゃない。心のずっと遠くにしまわれていた記憶。


のそりと体を起こして窓の外を見上げた。すっかり真っ黒に染まった空には、ぽつぽつといくつかの星。

空はたったひとつのはずなのに、思い出の中の空とは、違う空。

ここじゃない空を、わたしは憶えている。


「……確か」


もうひとつ、思い出したことがあった。

わたしの頭の中だけにあるその景色を、確かな“物”として、残してあること。

思い出を形にしたものがあるんだ。そう、ハナが、いつもやっているのと同じ方法で。


「…………」


少し考えてからベッドを下りた。あれはリビングのどこかにあったはず。

音はあまり立てないようにドアを開けた。部屋を出て、静かに1階へ続く階段を下りていく。

だけどその、途中で。


「うるさい!!」


ぴたっと……足が止まった。

一番下の階段、下ろした足でそれを踏む前に、体はもう動かなくなった。


……ああ、だめだ。もうだめ。

見えていたもの、どんどん、どんどん消えていく。


「だから付き合いだって言ってるだろうが!」

「こんなに毎日行かなくちゃいけないものなの!?」

「仕方がないだろ! 仕事のひとつなんだよ!」

「仕事だって言えばそれで納得するとでも思ってるわけ!?」


リビングから聞こえる地鳴りみたいなお父さんの声と金属を切るようなお母さんの声。


心臓が、いやに大きく響いた。

耳の奥で鳴っているようで、だけど痛いのは、やっぱり胸で。

呼吸さえ止まってしまう。

無理やりに。世界を、止める。


お父さんがもう帰って来ていたなんて気付かなかった。

知っていたら下りては来なかったのに。いつもみたいに布団にもぐって、ただ、小さく小さくうずくまっていたのに。


お父さんとお母さん、ふたりが揃うときはいつだってこうだ。

顔なんて合わせなきゃいいのに、それでもお互いを見ないまま、ぶつかり合って、ひびをつくる。


「疲れてるんだ。もう騒ぐのはよしてくれ」

「そういう言い方はないでしょう! 私だって色々と大変なのよ!?」

「俺だけが働いてるんだ! 家のことはお前が全部やる約束だろう!」

「あなたはいつもそうやって……なんでもかんでも私だけに任せて好き勝手にやって!」

「好き勝手とはなんだ! 俺だってなあ!!」

「何よ、全部私ばっかりじゃない! 星のことだってねえ……!!」


──ギシ、と床が軋んだ。

同時にふたりの視線がハッとこちらに向いた。

しん、と、耳が痛いくらいの静けさが、一瞬だけ漂う。


「……星」


今までのものと違う、掠れた、お父さんの声が名前を呼んだ。

わたしは階段の陰から出て、ゆっくりと、ふたりに視線を合わせる。


なんとも言えない、顔をしていた。酷い顔だ。

でもきっとそれ以上に、今のわたしも、見られない顔をしているんだろう。


「…………」


無理にでも笑って、お父さんお帰り、とでも言えば、よかったんだろうか。

だけどどうしても笑えなくて、それどころか、声だって、出せなかった。


お父さんが、居た堪れない様子で視線を逸らし「風呂入ってくる」とリビングを出た。

わたしは動かない足で、その場に立ちすくんだままで。


「星?」


お母さんの小さな声が、聞こえる。

「どうしたの、お腹でも空いた? 何か作ろうか。何食べたい?」


無理に、明るい声を出しているみたいだった。

気を遣っているようで、なおかつ、わたしの様子を窺っているようで。


「オムレツ作ろうか?」

「いらない……」

「……じゃあ、紅茶淹れる? すぐにできるよ」

「いらない……なにも、ない」


お腹が空いてるわけじゃない。でも、何も、ないわけじゃなかった。

本当は、お母さんに訊きたいことがあったんだ。そのために下りてきた。

どこかにしまってあるはずの、1冊のアルバムの場所。

でも……。


「なにもないよ。もう、寝るね」

「星」

「おやすみ」


お母さんの顔は見ずに、今下りて来たばかりの階段を駆け足でのぼった。お母さんはもう一度「星」とわたしの名前を呼んだけど、追いかけて来ることはなかった。


部屋に戻って、ベッドの中でぎゅっと目を瞑ってうずくまった。

真っ暗闇の中、必死で、震えるものを抱き締めた。


「……っ」


──お父さん。お母さん。


たったひとつの家族なのに、なんで、ひとつになれないんだろう。

いつから、こんな風に、バラバラになっちゃったんだろう。

……どうしたら、わたしたち、家族に戻れるんだろう。


「……ハナ」


狭い狭い空間の中で、ぽつりと名前を呟いた。

ハナに、無性に会いたかった。


笑ってくれる人。見えない世界を見せてくれる人。

ほんのわずかな間だけでも、わたしを、ここから、出してくれる人。



「ハナ」



今すごく、きみに会いたい。




いつもよりも早く家を出た。

制服を来て、鞄を背負って。毎日通う学校までの道を、まだ静かな朝の中、足音を立てて進んでいく。

結局、探したかったものは見つけられないまま。

夜が更けて朝が来る。いつも通りの日々に、もう、嫌気が差すことすら忘れた。


「……空、薄いな」


少し家を出るのが早すぎたかもしれない。もともと朝の始まりが遅いこのあたりは、本当に静かで、わたしがゆっくり吐いた息さえ、やけに大きく響いて消える。

一歩、一歩、空を見上げながら歩いていた。歩き慣れた道だ。そのうえ人も車も見当たらない。

前なんて向かなくたって、平気で進んでいける。

ローファーがこつこつと、あんまり良くないリズムで、アスファルトを蹴っていく。


いろいろ、思い出した。

小さな頃の記憶。


ずっとずっと小さい頃に、お父さんとお母さんの手に引かれて見上げた、どこまでも続く果てのない暗闇。

怖いのが苦手で真っ暗が大嫌いだった小さなわたし。でも、そのとき見た暗闇の世界だけは、他のどんなものよりわたしの心を鷲掴んだ。

小さな光の穴が、いくつも暗闇に空いていた。

届きそうで届かなくて、でも確かにそこにある、とても綺麗なもの。


『きれい、おほしさま』

『うん、星の名前とお揃いだ』

『おそろい』

『そうだよ。あのお星さまと同じくらいに、星もきっと、とても綺麗な人になる』


……いつの間にか、足が止まっていた。

見上げていたはずの顔も、地面に立つつま先を見て。両手はぎゅっとスカートを握って、唇を、痛いくらいに噛み締めている。


「…………」


だめだ、と、思った。

今日はもうだめだ。

本当に、きつく唇を結んでいなきゃ、今にも何かが零れそうで。


気付いたときには別の場所に向かっていた。

学校へ向かう通学路じゃない道を。走って。肺とか足の痛みなんて無視してひたすらに。

体だけで、心は置いて逃げるみたいに。

なんにも考えずに、どこかに向かって走って行った。




体中の痛みと息苦しさがやって来たのは、ようやく立ち止まった瞬間にだった。

心臓の音はまるで耳元で鳴っているみたいで、体の外にまで聞こえてしまいそうなくらいに大きい。

何度空気を吸っても足りなくて、乾いた目からだって、理由のない涙が出てくる。


今すぐ大の字になって寝転がりたかった。

でもそれをしないのは、ここが外だからとかそんな理由からじゃなくて。


ただ、そこにいるきみから、目を、離せないから。


「セイちゃん」


いつものあの公園。その丘の上に居るハナは、驚いたみたいにわたしを見ていた。

たぶんわたしも、同じ顔でハナを見ていたと思う。


だって、なんでこんなところにきみがいるんだろう。駅前のラッシュとは全然違う、人なんてまったくいないここに、きみがいるわけなんかないのに。

会いに来たけど、会えるなんて、思ってなんかいなかったのに。


「……ハナ」

「おはよう、セイちゃん」


ハナの表情は、すぐにいつものふわりとしたものになった。

それを見上げていたら、なんだか張り詰めていたものがパンとはじけて、わたしはへなへなと、空気が抜けるみたいにその場に座り込んでしまった。

三角に膝を折って顔を埋める。心臓は苦しくてかかとはたぶん擦り剥けてて、もう、なんか、全部が痛い。


「セイちゃん? どうしたの」


珍しく慌てた様子のハナが、しゅくしゅくと芝を踏んで下りてくるのがわかる。

でもわたしは顔を埋めたまま、何も応えられないし、目も合わせられない。


「セイちゃん」


ハナがわたしの名前を呼びながら、わたしの前にしゃがみ込んだ。


「どうしたの。何かあった? お腹痛い?」

「…………」


わたしは何も言えなくて、ああ、呆れられるかなあって、小さな狭い自分だけのスペースで息を吐いた。

ほんとにわたし、子どもみたいだ。

ハナも付き合わなくていいんだよ。こんなわたし、呆れて放って、どこかに行っちゃっていいのに。


でもハナは、どこにも行かない。

何も言わないわたしに、もう何も訊かない代わりに、両手を軽く握ったままで、わたしの顔が上がるまで、黙って側に居てくれて。


のそりと顔を上げたのは、随分と経ってからだった。

酷い顔だったと思う。見なくてもわかるくらいに。

見上げた先にはハナがいた。

ハナは、わたしとは正反対の顔で、明るい場所へ現れたわたしを出迎えてくれた。

ふたりで向かい合ってしゃがんだまま。また、地面に視線を落としちゃうわたしの指を、ハナの指が掴んで。


「泣きたい? セイちゃん」


ハナが訊く。


「……泣きたくない」

「そっか」


ハナは、ショルダーバッグの中からあのぼろぼろのノートを取り出した。

それを、何かを探すように先頭から1枚1枚とめくっていく。


「俺ね、起きたらこれを見るのが日課なんだ。枕元に置いてて、1日のはじまり、何をするよりも先にこのノートを見てる」


ハナの指先の動きはゆっくりで、でも、止まることはなかった。

時間の流れみたいに、どんなに遅くても確かに進む。


「昨日までの俺は、何をして、何を見て、何に出会って、何を感じたのか」


あるページをめくった先、ハナの指が、ふっと止まった。

「ねえ、セイちゃん」そうしてハナは、そのノートをわたしに見せる。


「ここに連れて行ってよ。今から、ここに行こう」


ハナが指差した先の一文。


『素敵なところを発見。秘密なその場所は、セイちゃんが知っている』


わたしとハナの、秘密の場所。





公園の丘の裏側から、そこへの階段が続いていることはもう知っていた。

いつも入ってくる入口よりも随分と狭い、民家の門みたいな裏口を出ると、そこからすぐにずーっと長い階段が上の方まで伸びている。

なんのためのものなのか。坂道に段々と建つ住宅の隙間を縫って、ところどころうねうねと曲がりながら、どこでもない場所へと続く階段。


「そう言えば、学校行かないの?」


トントンと、わたしたちはゆっくりとそこをのぼっていた。


「ハナこそ」

「俺はいいんだよ。でもセイちゃん制服だし、今日学校あるんじゃないの」

「あるけど、今日はもう行かない」

「サボりはよくないな」

「ハナに言われたくないよ」


わたしが言うと、ハナはぷすすと笑った。

街はもう活動を始めて、いろんな音が聞こえてくる。でも、ここには、わたしとハナのふたりしかいない。


「ねえセイちゃん、グリコって知ってる?」


真ん中へんまで来たところで、ハナが唐突にそう言った。


「知ってるけど? お菓子じゃなくて、ゲームの方だよね」

「うん、じゃんけんするやつ。あれやろうよ」

「別に、いいけど……」


一瞬恥ずかしさも掠めたけれど、どうせ人なんていないからまあいっかと開き直った。

ハナがぴたっと足を止めたのと同じ段で、わたしも立ち止まる。

「じゃあいくよ。さいしょはグー、じゃんけんぽん」


ハナの声に合わせて同時に右手を出した。

あいこにはならずに最初で決まる。ハナはグー。わたしはパー。


「やった! わたしの勝ちだね」

「あ、残念だなあ。最初は勝ちたかったのに」

「ぱ、い、な、つ、ぷ、る」


ハナを置いて、パーで勝った6段分、上へと向かう。

両足をピタリと止めた先で振り返ると、悔しそうな顔でハナがわたしを見上げていた。


「セイちゃん、次は俺が勝つよ」

「あ、わたしがじゃんけん強いことを知らないな」

「俺だって強いということを教えてあげる」

「負けたくせに」

「だから次は勝つって」


ハナがグーを突き出すから、わたしも負けじと突き出して。


「さいしょはグー!」


ふたり同時に、声を上げた。




何度もじゃんけんを繰り返して、少しずつ少しずつ進んだ階段のゴール。

それがようやく目の前に来た今。ハナはあと9段でゴール。そしてわたしは、ハナの3段下。

現段階では負け中だ。でもまだ結果はわからない。


「あと2回勝てば俺の勝ちだね」

「くっそ……絶対負けない」


同時にこぶしを向け合って「さいしょはグー」と呟いた。

大きく腕を振りながら、無意識で、手を開く。


「じゃんけんぽん!」