「また、明日も会える?」
唐突な問い掛けに、ちょっとだけ目を丸くした。
でも、それの答えはもう決まっていた。
「さあ」
適当な返事。だけどハナは、あの日と同じ、嬉しそうな顔。
「セイちゃん俺より早く来てそうだなあ」
「さあって言ってるじゃん。来るかわかんないよ」
「そうだね。わかんない。会えたらいいね」
のんきに笑って、そんなことを言うから。もうわたしは何だって言い返せない。
案外自分勝手なきみの、言葉と笑顔に、乗せられっぱなしで。
「さて」
ハナが立ち上がる。わたしはそれを見上げている。
揺れるふわふわの髪。太陽できらきら光る。
3段下りて振り返ったきみ。その姿が眩しくて、わたしは咄嗟に目を細めた。
首から下がったカメラが揺れていた。
レンズはこっちを見ていたけれど、もうわたしを勝手に焼き付けたりはしなかった。
ハナの手が、向けられる。
「行こうか、セイちゃん」
わたしは立ち上がらないまま「どこへ」と訊ねた。
「どこへ行こうか」訊いたのに、返ってきたのはまた問い掛けだった。
少しだけ、膝におでこをつけて、ハナが見ていないところで笑う。
それから立ち上がって、向けられたままの手に、自分の手を重ねた。
「行こう、ハナ」
息を吸った。風が吹いた。
ハナの手が、わたしのそれをふわりと握る。
温かかったのはたぶん気のせいじゃない。体温なんてそんなに違わないはずなのに、自分のじゃない誰かの温度って、こんなにも、温かかったんだなあって、なんか、気付いた。
「ねえハナ、わたしお腹すいた」
「なら何か食べようか。何がいい?」
「わらびもち」
「じゃあ、わらびもち屋さん探さないと」
ハナが飛ぶみたいにして階段を下りていくから、わたしも不恰好にそれを追いかけた。
街はまだまだ低いところに見えて、だから、まるで本当に空を飛んでいるみたいだった。
太陽は随分と高い。
デートと言う名の小さな冒険は、きっとまだ、終わらない。
──ハナ
と、意味もなく名前を呼びたくなった。
だけど心の中だけで。口に出しては言わなかった。
背中を追いかけながら、掴まれた手を、ちょっとだけ握り返してみた。
ハナは何も言わなかったけれど、指先にぎゅっと力がこもったのがわかったから、わたしは思わず、なんにも無い空を見上げた。
その日から始まった、約束の無い約束。
『明日も』
会おうね、なんて、言い合ったことはない。
会えたらいいねと、いつも笑った。
約束はいらない。
それが、わたしたちの、ただひとつの約束。
「三浦さん」
お昼休み。
お弁当を食べ終えて次の授業の準備をしていると、たまたま三浦さんがひとりで居たから、ちょうどいいと思って声を掛けた。
普段わたしから声を掛けることなんて滅多にないから、相手がわたしだったことに三浦さんはちょっと驚いたみたいだ。でもすぐに、ふわりと表情を緩めてくれる。
「倉沢さん、どうしたの?」
「これ、この間言ってたやつね、持って来たんだけど」
「うん?」
手渡したのは、わたしが使っていた原付免許を取るための問題集。
買ったはいいけれど試験は一度きりだし、その一度きりも実は大して勉強しなかったから、まだその本の綺麗さは新品とほとんど変わらない。
「え! ほんとうに借りちゃっていいの!?」
「うん。それに返さなくてもいいから。まわりでまた取る人いたら、譲っていいよ」
「うわあ、嬉しい! ありがとう!」
「いいよ。だって1回取っちゃえば、もう使わないしね」
それもそうだ、と三浦さんは笑いながら、ぺらぺらと適当にページを捲った。
それから少し顔を引きつらせて「が、がんばってみる……」と呟いていた。
そういえば三浦さんは勉強が苦手だって言ってたなあ。わたし的は学校の勉強なんかよりよっぽど楽しかったから、続けられそうな気もするけど。
「あ、そうだ」
席に戻ろうとしたところで、でもふと思い出して振り返った。
「ねえ、三浦さんってさ」
「うん、なに?」
「確か東中の出身だったよね」
市内に住んでいるクラスメイトであれば、誰がどこの中学から来たかは大体自然と把握する。
三浦さんが通っていた東中は、わたしの通っていたところと隣り合わせの学区になる。ハナと会っているあの駅前の、近くにある学校だ。
「そうだけど、どうかした?」
「あのさ……」
首を傾げる三浦さんに、少し迷いつつも訊ねた。
「ひとつ上の学年なんだけど、ハナって名前の人、知ってたりする?」
「ハナ?」
三浦さんがきょとんとした顔をした。
やっぱり、そりゃそうだよね。学年だって違うしわかるわけないよ。
変なこと聞いちゃったな。なんでもないよって言わないと。
でも。
「ああ! それって、芳野先輩のことじゃない」
高い声を上げて、三浦さんが人差し指を立てる。
「ヨシノ……」
「うん、芳野ハナ先輩。男の子だよね、女の子みたいな名前だけど」
ハナの、苗字は知らなかったけれど、たぶん三浦さんが思い浮かべている人とわたしの知っているハナは、おんなじな気がする。なんとなく、だけど。
「三浦さん、知ってるの?」
「ちょっとかわいいふわふわした感じの人でしょ。なんか掴みどころがないって言うか。あと……」
三浦さんはそこで少し表情を変えた。
そのあとは続けなかったけれど、ハナの、記憶のことなんだろうって思った。
やっぱり、彼のことを知っている。
ハナが、通っている高校を教えてくれたとき。あとから行っていた中学校のことも教えてくれた。
三浦さんが通っていたところと同じ、市立の東中学。
そのときに不思議だったのが、高校はメモを見ながら教えてくれたのに中学校の名前はそれを見ずに言えていたこと。
なんとなく、ハナ本人にそのわけを訊こうとは思えなかった。
ハナも、どうしてそれは憶えているのか、わたしに言いはしなかったし。
かと言ってやっぱり気にならないってわけじゃなく、こうして知っていそうな他の人に訊いてしまっている。
わたしの知らないハナのこと。
「倉沢さん、芳野先輩と知り合いなんだ?」
「う、うん……ちょっと」
どんな関係かって、突き詰められると困ったけれど、三浦さんはそういうことは訊かなかった。
「まあ座りなよ」とまるで自分のものみたいに隣の席をポンポン叩いて、立ちっぱなしだったわたしを座らせて目線を合わせる。
「あたし、先輩とは全然関わりないんだけど、うちの兄貴とさ、芳野先輩のお兄さんが同学年で。まあそうじゃなくても芳野先輩のこと知らない人、うちの学校にいなかったと思うけどね」
「ハナ……お兄さんいたんだ」
「うん。すんごいかっこよくてさ、しかも頭いいんだって。うちの兄貴と違ってレベル高い大学行ってるらしいよ」
「そうなんだ」
三浦さんの言い方が、ハナのお兄さんを褒めているというより自分のお兄さんを貶している方が強くて、失礼だけど少し笑えた。
そうしたら三浦さんも一緒になって笑うから、この人は、わたしなんかよりもずっとハナと気が合いそうだなあと思った。
「で、倉沢さんは、芳野先輩の何をあたしに訊きたいわけ?」
ふと、真面目な顔つきになったかと思えば、三浦さんの目がじっとわたしを見据える。
好奇心に満ちている目。キラキラしつつギラギラしたそれは、まるで、逃がさないぞ、とでも言いたげだ。
「えっと、ね……」
わたしは、ハナの記憶については知っているということを伝えた。
だけどなんでそうなったのか。詳しいことについては、何も知らないということも。
「なるほど、つまり、その辺りの詳しい情報を知りたいってこと?」
「うん……本人にはなかなか訊けなくて。でも、知っておきたいなって思うから」
「ふうん。うんうん、なるほど」
途端、三浦さんの表情が悪そうな笑みに変わった。
ハッと直感が働く。もちろん嫌なほう。
「ちょっと待って、違うからね、そういうんじゃなくて」
「いやいや、わかってるよ。ナイショにしておくから。倉沢さんに彼氏いるなんて知れたら、悲しむ男子多そうだしね」
「だから違うってば!」
やっぱり変な勘違いをされている。
わたしとハナの関係。訊いてこないと思ったら、なんか、勝手に。
「ハナは、そういうんじゃなくて……なんていうか、その……」
友達とも言えないけれど、だからって、彼氏だとか、好きな人だとか、そういうのとは違って。
嫌いじゃないし、もちろん好きだけど、その好きっていうのは、三浦さんが思ってるのと違くて。
わたしは、ただ。
「……倉沢さんってもっとクールな人だと思ってたけど、案外、ていうかすごくかわいいね」
「……三浦さんは、結構いじわるだね」
鏡を見なくても今の自分の顔がどういう状態かわかるから、恥ずかしすぎて顔を見られなくて目を伏せた。
どれだけ否定したって、こんな顔じゃ説得力はまるきりゼロだ。
……くそ。ハナのやつ、おぼえてろ。
なんて、意味のない八つ当たりを、心の中でしてみたり。
「ま、その辺りはおいおい訊くとして、芳野先輩のことだけど」
三浦さんは机の上をこつこつと指で突きながら、思い返すように視線を斜めに飛ばした。
「あたしも、そんなに詳しくは知らないんだけどね。ただ、あの障害は事故でって兄貴に聞いたよ」
「事故?」
「うん。中1のとき。結構派手な事故だったらしいよ。交通事故」
その事故についての詳細はわからないけれど、しばらく入院していたほどの大きなものだったみたいだ。
『頭のビョーキでね。じゃなくて、ケガだったかな。忘れちゃった』
本当に綺麗に忘れていることなのか、それとも知ってはいたけどとぼけていたのか。
わからないけれど、ハナはあのとき、そう言っていた。
でも、事故、っていうことはつまり、病気じゃなくて怪我が原因?
後天的に、突然に、理不尽に起こったこと。
「確か、1日しか記憶がもたないんだっけ。なんかね、その事故より前の記憶は普通にあるんだけど、それよりも後の記憶が、1日しか続かなくなったって」
「……そう、なんだ」
だからハナは、中学校の名前は言えたんだ。
わたしが憶えているのと同じように、そこに通っていた記憶は頭にあるから。
でも、中学校生活の大半と、高校に上がってからの今まで。そして、これから。
ハナの頭の中には、たった1日しかない。
「……芳野先輩ってさ」
わたしの顔を見て、三浦さんが少し困ったように眉を下げる。
「そういう事情もあって目立ったからね、学校ではよく目に付いたけど、障害のことなんて知らなきゃ本当にわかんないくらいいつもすごく楽しそうだったよ。でも反面、よく早退したり、休みがちでもあったみたいだけどね」
「今でも、高校よく休むんだって」
「そうなんだ。あはは、なーんか全然変わってなさそう」
表情を変えて明るく笑う三浦さんには、嫌味も同情もひとつもなくて、やっぱりハナと仲良くなれそうだなあ、なんて思った。
それから、こういう人たちばかりが、どうかきみの側に居てくれたらって。
「どんな人なのかなあ。ちょっと気になるな」
三浦さんが頬杖を突く。
「ハナのこと?」
「うん。なんか思い出したら、気になった。本当はどんな人なんだろうってさ」
「どんな人、か……」
「そ。て言うか、なんだろ。倉沢さんが気にしてる人がどんな人か興味がある、って言う方が、近いかな」
にいっと唇を持ち上げて、三浦さんは上目でわたしを見上げた。
まるい大きな瞳は、まさに楽しげで、それでいて、悪戯気。
「なんか進展あったら絶対教えてね」
「だ、だから……わたしとハナは、そういうのじゃないって……」
「はいはい。あ、そうだ、倉沢さんってもう原付持ってる?」
「え? う、うん……持ってるけど」
なんだかうまい具合にかわされてしまったみたい。
追及されたくもないけれど、こんな中途半端に誤解というか、変な解釈をされたままなのも困る。
かと言って、もう面倒で、言い返す気にもならないけれど。
苦笑いを零しながら、わたしは小さく息を吐く。