1日以上前の記憶が、すべて消える。
忘れる、のでは、なく。
「……うそ、だよ。だってわたしのこと憶えてたじゃん」
そうだ。
ハナはわたしのことを憶えていた。
本当に1日だけしか記憶がないなら、一昨日会ったわたしのことを、憶えているわけがない。
『俺、きみのこと憶えてた』
さっき自分で言ったばかりだ。
妙に嬉しそうに、わたしのこと。
「うん、そうだね。憶えてた」
ひょい、と、まだわたしの手にあったアルバムを取って、ハナはペラペラと、ゆっくり1枚ずつページを捲っていく。
隙間なく埋められた写真に映るのは、本当に様々なもの。
風景や、生き物や、人。
「1日前のこと、俺は憶えていられないんだけどね。でも、何もかもが1日経てば全部リセットされちゃうわけじゃないんだよね」
そして捲られていく最後にあるのは、やっぱり、わたしの写真。
「たとえば一昨日食べた夕飯のこと。もし、昨日の時点でアレを食べたなあって思い出していれば、それを思い出してからまた1日、今日までは、そのことを憶えてられる。厳密に言えばそれを食べたことって言うより、それを食べたと思い出したことを憶えてる、って感じなんだけど」
「うん……って、言うと、つまり……」
「つまりね。俺がきみに会ったのは、1日よりももっと前。きみと会ったそのときのこと、俺は思い出せないけれど、きみのことは憶えてた。そう、つまり、なんでかわかる?」
ハナが、小さな子どもに問い掛けるような口調で、わたしの顔を覗きこんだ。
わたしはゆっくり首を横に振る。
本当は、その問いの答えはなんとなくわかっていたんだけど、でも、自分で答えるなんてできるはずもなくて、だから、わからないと、首を振った。
ハナが笑う。
「ずっと、きみのこと考えてたんだ」
──トン、と、胸の奥が叩かれた。
こそばゆい感覚。それでいて、じんと何かが沁みてくる感覚。
心と言葉の間に、少しの距離もないみたいだ。
ハナの言葉はだからこそ。
だからこそやっぱり、体の真ん中へんに響いて、もう、きみの目だって、見ていられなくなる。
「考えてたから、憶えてた。公園で会った女の子。忘れたくないなんて、たぶん、思う暇もなかったくらいに」
「何言ってんの……」
「また会えたらいいなって思ってた。そしたら、また会えたね」
最悪だ。
なんでもう雨止んじゃったんだろう。
傘さえあれば隠せたのに。
恥ずかしすぎて見られたくない、こんな、変な顔。
真っ赤になってるに違いないんだ。
他の人に言われたら、鼻で笑っちゃうような台詞。
なんでか知らないけどきみが言うと、おかしいくらいに真に受けて、死にそうなくらいに恥ずかしくて。
それと同じくらい、不思議に、とても、泣きそうになる。
「セイちゃん」
ハナが呼ぶ。
まだ、数えるほどしか呼ばれたことのない声だ。
呼ばれ慣れてなんかいるわけなくて、それなのに、きみは、まるで何度も呼び合ったものみたいに、わたしの名前を声に出す。
「ねえ、セイちゃん」
まだ振り向きたくはなかったけれど、その声につられてしまった。
顔を上げた先にはやっぱり、わたしの気持ちなんてちっとも知らない顔のハナがいて。
「デートしよう」
「は?」
「さ、行こう」
「え!?」
あまりの唐突さに恥ずかしさも吹き飛んだ。
いきなり何、と思いはしても訊ねる暇すらなくて、ハナはわたしの腕を強くひっぱり丘を下りていく。
「ちょ、ちょっとハナ! どこ行くの!?」
「デートだよ。どこに行くかは……決めてないけど」
「デ、デートって……」
「もしかして、これから何か予定あった?」
振り返って、そう訊ねて、でも足はもちろん止めないままだ。
足元を見ずに器用に坂道を下りるハナと違い、わたしは下を見つつでも滑りそうになりながら坂を進む。
「な、ないけど」
「じゃあ決まり。まだ時間も早いし、気の済むまでいろんなとこ行こう」
「気の済むまでって……誰の?」
「もちろん、俺の」
そう言って、今すぐ飛び跳ねでもしそうなくらいに軽やかな背中に手を引かれ。
力が抜けて転びかけたところをなんとか持ちこたえながら、すっかり晴れた空を見上げてみる。
ハナのせいで、呆れすぎて頭がおかしくなりそうだ。
だけど、呆れているのに抗おうとしない自分に、なによりも、呆れかえっていたんだけれど。
ハナとのデートは、とてもじゃないけどデートなんて呼べるようなものじゃなかった。
たぶん、今どき幼稚園児だってもっとムードのあるデートをしているはずだ。
なんと言ってもただ、街を歩くだけ。
おまけにお洒落な商店街が売りのこの駅前において、なぜだかハナはその反対の、古い住宅街のほうへと向かって行くから、余計にデートなんていう雰囲気じゃなくなっていくんだ。
緩い坂道をくねくね曲がりながら、上へ上へ。立ち寄るのはもちろんアパレルショップなんかじゃなく、小さな公園やボロい神社。
ハナは、そこで見つけた野の花とか、虫とか、鳥とかを気まぐれに写真に撮ったり、たまたま出会った人たちと、まるで旧知の仲みたいに楽しげに喋ったりしていた。
わたしはそんなハナを、少し離れたとこから見ているばかりで。時々、溜め息を吐いては、知らない空を眺めたりした。
カラッとした風が吹く。
流れた髪を掴んだところで、声が、聞こえた。
「セイちゃん!」
嫌な予感がした。この、ちょっと声を張り上げた、嬉々とした呼び方。
ハナは、カメラを抱えながら、民家に挟まれた狭い道路の真ん中で、もっと狭い脇に逸れる小路のほうを向いていた。
ビッと指差した先。わたしには見えていないけど、何があるかなんてもう想像はつく。
「追いかけようセイちゃん!」
「またあ!?」
ちょっと待ってよ。なんて言う暇もなくハナは小路へと姿を消した。
そうするともうどうしようもなく、わたしは畳んだ傘を振り回しながら、駆けていくハナの背中を必死に追いかけるしかない。
ああ、これで何度目だろう。
ハナが野良猫を追いかけて、突然走り始めるの。
別にお洒落なデートをしなくたって、ただ街を廻るだけならそれでもよかった。のんびり散歩をするのは別に嫌いじゃないから。
だけどハナとのこの“デート”は、デートと呼べないばかりかのどかな散歩とも言えなかった。
どうやら彼はただ今、野良猫にご執心らしい。
よくわからないけど、ハナ曰く「いい感じ」の猫を見つけては、近づいて、逃げられて、そして追いかけ回しているわけだ。
それからさらにその後ろを、わたしが追いかける形になり。
このデートは、思いのほか、ハードなものになっている。
「あ! やった、あそこで休んでる……かわいいなあ」
「……はあ……やっと、止まってくれた……」
息を切らしながらどうにかこうにか追いついたのは、人ふたりがぎりぎり通れるくらいの狭い道の突き当り。
両脇と数メートル先の正面は、ここよりも少し土台の高い古い家の裏側になっている。あまりにも静かなせいなのかな、生活感はあっても、人の気配は感じない。なんだか、不思議な場所だ。
ハナが追いかけていた茶色と白の混ざった猫は、わたしたちの先、左手の建物がちょうど無くなって日の当たっている場所で寝ころんでいた。
まだ渇ききっていない地面が多い中、日当たりのいいそこはすっかりカラっと渇いている。
なるほど日向ぼっこには最適だ。お気に入りの場所なのかもしれない。
「ちょっと……わたしも、休んでいいかな……」
「どうぞ。セイちゃんも一緒に撮ってあげる」
「やめて……! 今人に見せられない顔してるから!」
「俺はもう見ちゃってるよ。大丈夫。かわいい」
「……うぅ」
また平気でそういうこと言って……。
もういい。どうとでもなれ。
重い足を引きずって、猫の隣に座り込んだ。
猫は、あれほど素早く逃げ回っていたくせに、よほどこの場所がお気に入りで落ち着くのか、地面にへばりついたまま動こうとはしない。
時々気だるそうにわたしを見ては「ガー」と可愛くない声を上げている。
「あは、いい感じ。セイちゃんと猫くん、そっくり」
「それは罵りと受け取っていいのかな」
家に挟まれた日の当たらない場所から、ハナは妙に楽しそうにシャッターを切っていた。
わたしはもう、表情を作るのもレンズを見るのも撮るのをやめさせるのも億劫で、ぼうっと視点の定まらない目でハナを眺めていたんだけれど。
ふと、猫が寝ているのと反対側、開けている方にまだ道が続いているのに気づいて。
ここは行き止まりじゃなかったんだと思いながら、あんまりはっきりしない思考のままで横を向いた。
「…………」
向いて、息を呑んだ。
──その瞬間、ザアッと、風が吹き抜けたような気がした。
強くなんて吹いてなかったけれど、それでも目を細めてしまいそうなくらいに、正面から吹き抜けた風。
「……っ、」
光が、何もかもを鮮やかに映し出していた。
空、地平線、山々と、街。
「ハ、ハナ!!」
「ん?」
急いで呼んだ。
目なんか離せなかったから、必死で手だけをぶんぶん振って。
ハナが隣にやってくる。
そしてわたしと同じものを目に映して、同じように、言葉をなくした。
猫だけが行く細い細い路地の奥。
その先は行き止まりじゃなく曲がり角。下へ続く階段が、さらに先へ進んでいる。
その秘密の階段を、降りる人の目の前には、遮るものなんてたったひとつだってなかった。
街を囲む山脈、地元を走るローカル電車、わたしの通う学校、見慣れた町並み。そして、地平線まで広がる透明な晴天。
視界の全部にそれが広がっていた。それがどこまでも広がっていた。
普段見ている景色とは全然違う、それは、とても、とても広い空。
「すごい……こんなところがあったなんて俺知らなかったよ」
「うん……わたしも」
なんだろ、この心臓の音。嬉しいだとか怖いだとか、そういうときのとはまったく違った胸の高鳴りだ。
興奮してるのかな。ううん、違う。なんだろうこれ。でもなんだか、全然、鳴り止まない。
「どきどきするね」
ハナが言う。わたしのほうなんて向かないまま。
わたしも、ハナのことなんて見ないまま。
でも、同じものを見て。
「うん、どきどきする」
「ずっとここに居たいくらいだ」
感動だなあ、とハナが呟くのを聞いて、そっか、これって感動してるんだ、って知った。
わたし、この景色を見て、素直に、感動してる。
綺麗だって。
「……ハナ、写真撮らなくていいの?」
「あ、忘れてた。大事だった」
ハナは、階段の一番上に腰掛けする、広い風景をカシャリとフィルムに焼き付けた。
でも、さっきまでは何回もシャッターを切っていたのに、この景色は一度しか写真に撮らなかった。
わたしもハナの横に座る。太陽の光が真っ直ぐに、でも、優しく全身に当たる。
「…………」
ハナはじっと、レンズ越しにじゃなく、自分の目で今の瞬間を見ていた。
まるで刻みつけているみたいだって思った。ずっと自分の中で憶えておくために、色とか、音とか、感覚とか、そういうのを丁寧に記憶に沁み込ませているみたいに。
……きっと、忘れてしまうのに。
「ねえ、ハナ」
振り向くハナに、わたしもゆっくりと視線を合わせる。
穏やかな表情。すっかり晴れた今の空みたいに、少しの曇りだって無いような顔だ。
「記憶が1日しかもたないって、ほんと?」
訊ねたわたしに、ハナはなんでかちょっとだけ笑った。
それから「うん」と、そのままの顔で答えた。
「頭のビョーキでね。じゃなくて、ケガだったかな。忘れちゃった」
「そ、っか……」
前に、ハナが言っていたことを思い出す。
『綺麗だと思うから憶えておきたい。だから俺は写真を撮るんだ』
憶えておくために。
綺麗だと思ったものを、この先もずっと。
記憶が1日しかもたない。
ハナの頭の中には、いつだって、たった1日分の記憶しかない。
『今この瞬間に見たものを、この先もずっとね』
あのときは、ハナの記憶がわたしのそれとは違うってことを知らなかった。
知るわけもない。思い至るわけもない。
その言葉の中に、どんな重みが含まれていたのかなんて、わたしにわかるわけがない。
今だってそうだよ。
記憶のことを知ったからって、想いまで知れるわけじゃない。
1日過ぎれば、今のこの瞬間をハナは忘れてしまうんだろう。
それってどういうことなのかな。きっと、忘れたことすら忘れてしまうくらい、綺麗に、何ひとつ残らず、なくなってしまうってことなのかな。
わたしのことみたいに憶えていたとしても、それは紛れもないこの瞬間のことじゃなく、「思い出した」っていう新しい記憶。
ハナは忘れてしまうんだ。
自分の頭の中で、憶えておきたいことを、憶えてはいられない。
わたしにはそれがわからない。
ハナがどんな想いでわたしにあの言葉を言ったのか。どんな想いで、忘れてしまう“今”の、写真を撮り続けているのか。
わたしには、わからない。
「辛くないの?」
その質問は、自分にとっても不意だった。
考えるよりも先に言葉になって出ていたもの。
だから、言った瞬間後悔した。わたし今、なんて心無い質問をしちゃったんだろう、って。
辛くないか、なんて。
そんなの辛いに決まってるし、そもそもその質問をされること自体が、きっと、とんでもない苦痛のはずなのに。
だってわたしもそうだから。そんなことくらいわかってる。
わかってたのに、なにを、わたし、こんな馬鹿みたいなこと。