きみに出会ったのはいつだっただろう。
なんて、自分に訊くまでもなくはっきりと憶えている。
空の色だって、風の匂いだって。
ふわりと笑う、きみの顔だって、全部。
ひとりで帰った暗い空に、そっと手を伸ばしてみたあの日。
いつもとは違うことなんて、何ひとつだってなかったけれど。
確かに変わった。世界が変わった。
今になって、そう思う。
はっきりと憶えているその瞬間を、いつか忘れてしまったとしても、大丈夫だって、構わないって、強く頷くことができるのは。
きみが見せてくれた世界が、今、ここにあるからなんだと。
それは全部、きみとの出会いがあったからなんだと。
大きな声で叫べるんだ。
世界はすべてが美しい。
そんな綺麗ごと、今もわたしは思ってないけど。
でも、もしも、きみと同じ景色が見られるようになった今。
その綺麗事を、本当のことだと信じるのなら。
きっと、わたしの世界は、きみと出会ってはじまった。
【Starry heavens】
キミといる星月夜
肌がまだ少しべたつく季節だ。
衣替え前の夏服のブラウスは、あんまり風通しが良くなくて、湿った肌によくくっつく。
ローファーの爪先が古いマンホールを踏んだ。
頭の上で、小さな飛行機が、雲を引きつれて飛んでいった。
帰り道を変えたのは、たぶん、本当にただの気まぐれ。
ほとんど一本で繋がっていたような学校から家までの道を、ふたつめの交差点で右折したのは、別に何か目的があってのことじゃない。
いつもどおり6時間目までで終わった学校。部活も補習も、他の予定だってひとつもないから、カバンを背負って向かう場所は、たったひとつしかないはずなのに。
──ニャア
とどこかで猫が鳴いた。数歩分先の道の上で、茶色のしましま模様の猫がときどき振り向いては前を歩いていた。
道案内してくれているのかな、なんて変なことを考えてみたら、それの返事みたいにまた「ニャア」と鳴くから、またなんとなくの気まぐれで、少し曲がったしっぽの先を追いかけるみたいにその後を歩いた。
ここは、いつもと違う帰り道。
干からびたミミズ。珍しい名前の表札。錆びた看板。ふわふわ揺れる道端の花。
そんなものを見つけながら、ときどき、空を見て、知らない道を、どこかへ向かってただ歩いた。
小さな案内人に連れて来られたのは、普段は滅多に来ない街の東の駅の前。
げ、と思ったときにはもう遅かった。知らない道ばかり来たからまったく気づかなかったけど、まさかこんなに遠くまで来てしまっていたなんて。
この街で一番新しいその駅のそばは、新興住宅地の建設に併せて造られたお洒落な商店街が売りの賑やかで活気のある場所だ。
車も人も多い大通り。いろんな物や音で溢れ返る場所。それに沿って歩いてみるけれど、なんとなく、居心地の悪さに足の進みが遅くなる。
帰宅ラッシュの騒がしい時間帯だ。どんどん人波は増していく。どうしよう、と思ったときに、ふと目を向けた先で脇道へ折れるしっぽを見つけて、慌ててそれを追いかけた。
その道の先は、緩やかな坂になっていた。進むたび、だんだんと無くなっていく音に、ざわざわしていた胸の奥がゆっくりと落ち着いていく。
前を行く猫は、気ままにのんびりと歩いている。ぼーっと、少しずつ色を変える空を見上げながら付いて行けば、広い、噴水のある静かな公園に辿り着いた。
「ニャア」
噴水は、下のほうにあんまり綺麗じゃない水が溜まっているだけで水を噴いてはいなかった。枯れかけて落ちた葉っぱが、ふよふよと円形の水の中を、つまらなそうに泳いでいるだけ。
お役目御免、とでも言うように走り去る猫のお尻を見送りながら、わたしは噴水のフチに座って疲れた足を休ませた。
思った以上に歩いてしまった。でも、いい、時間つぶしにはなったと思う。
息を吐いて、それから、頭の上の空を見上げてみる。
いつの間にか色は不思議なグラデーションカラーだ。オレンジと、水色と、藍色の変な組み合わせ。
そのうちあっという間に真っ暗になって、今日が終わって明日になるんだろう。
変わらない毎日。
勝手に過ぎていく毎日。
何もない毎日。
意味のない毎日。
嫌なことだけが、積み重なって、繋がっていく。
空を見上げるのが癖だった。
空を見て、何かを思うわけじゃないけれど。
ただ、汚いものばかりの中で、空だけは澄んで透明だから、見ていると落ち着いて、いろんなことを忘れられる。
心臓の奥がぎゅっと苦しくなったりするとき、わたしはそうして空を見上げた。からっぽにすると楽だった。
頭の中とか、胸のところとか、ごちゃごちゃしたものを全部捨ててしまって、なんにも考えずに時間だけを過ぎさせる。
見る空は何色でもいい。ただこのまま、この景色だけを見て、他には何も感じずにいられたらって、いつも、いつもそれだけを思った。
気づくのが遅かったのは、そうして頭をからっぽにしていたせいだ。
遠くの雑踏、車のエンジン音、電車の車輪とブレーキの音。
いろんな音が響いていて、でもそのどれもが、意識の外で鳴っていた、静かな静かなわたしの中。
そこに、ふいに聞こえた、ひとつの音。
──カシャ
短く乾いた小さな響きだった。
頭の隅に届いた異質な音。
異質だけど、空気にすっと馴染む音。
それは、少しの間を空けながら、何度もリズムよく鳴り響く。
───カシャ、カシャ、カシャ
空は、少しオレンジが広がっていた。
真上を鳩が2羽駆けて、それと一緒にまた音が鳴る。
───カシャ
すうっと息を吸って、視線を前に戻した。
賑やかな商店街と静かな公園とを隔てる大きな楓。
そしてそれを背にしてそこに立つ、真っ黒なカメラを掲げる男の子。
わたしが真っ直ぐに向き合うと、もう一度カシャリと音が鳴った。
一瞬、空を見上げるときとはまた違った意味で思考が止まって、わたしは丸く、不思議な群青に光るレンズと、しばらく見つめ合っていた。
しん、ととても長く、でも本当はほんの僅かな時間が過ぎて。
誰。何。と真っ白な頭に疑問が過ぎった頃に、その人の、顔の前に掲げられていたカメラが下ろされた。
こてん、と首を傾げる動作で、ふわりと茶色い髪が揺れた。
子犬みたいな、柔らかな表情の人だった。
きっとわたしと正反対の。
ああ、綺麗な人だなあって。
何を見ても思わなかった、そんな単純なことを、思った。
「はじめまして、こんにちは」
少し低い、でも耳触りのいい声だった。
その人は人懐こそうな顔でわたしに笑って、自然に、離れた距離を詰めてくる。
わたしはその場に座ったまま、返事なんてしないまま、ただ、ゆっくりと近くなる、その人を見上げていた。
「…………」
そんなに高くない背と柔らかな顔つきから、中学生かと思ったけれど、近くで見ればわたしと同じくらいの歳に見えた。
たぶん同じ、高校生だろう。私服でいるけど、大学生とか社会人には、さすがにちょっと見えない。
「ねえ、俺はハナ」
わたしをちょうど見下ろすような場所に立ったところで、その人がすっと右手を伸ばす。
「きみは?」
上を向いた手のひら。
ハナ──と名乗ったその人は、わたしに向かって、それを差し出した。
少しだけ、風が吹いていた。
あんまり綺麗じゃない空気の混ざった生温い風。
目に見えはしないのに、でも、どろどろと淀んでいるような汚れた空気の流れ。
いつだってそうだ。息をするのも嫌なくらい、常に世界は汚いもので溢れてる。
──でも、なんでだろう。
そう、そのときだけは確かに。
きみのそばを行くそれだけは確かに。
限りなく透明だった、風。
「……セイ」
なんで答えたのかは自分でもよくわからない。
少し色素の薄い瞳をじっと見上げたまま、向けられた手のひらに、自分のを重ねたりはしなかったけれど。答えなくてもよかった問いかけの答えは、ぽつりと、くちびるの隙間からこぼれた。
わたしの名前。
「セイちゃん。うん、憶えておけたらいいな。よろしくね」
空のままの手が下ろされて、代わりにその人──ハナ、と呼べばいいのかな──が、ふわりと花が開くみたいに笑った。
セイちゃん、と、もう一度わたしの名前を独り言みたいに呟いたのは、まるで刻み込むような、静かな声。
「ねえ……きみ何。わたしに何か用?」
憶えておけたらいいな、なんて。自分から訊いておいて忘れること前提で言ってるし。なんなんだろ、この人。
「写真撮るの、邪魔なようならここ退くけど」
「あ、違う違う。そういうんじゃないんだ。いいよ、ここにいて」
わたしが眉を寄せたら、ハナは反対にちょっと上げた。もちろん口元は微笑んだまま。わたしとは、真逆の表情だ。
「今ね、きみの写真を撮らせてもらってたんだよね。だからごめん、声も掛けちゃったんだけど」
「写真? あれ、やっぱりわたしを撮ってたんだ」
「うん、そう。そのことを言おうと思ってね」
隣いい? と言うハナに、曖昧に頷くと、ハナは少しだけ距離を空けて噴水の縁に座った。
ゆっくりと腰かける動作は男の子の癖に妙に上品で、育ちがいいのかなあ、なんてどうでもいいことを思った。
初対面の人と話すのは、そんなに得意なほうじゃないけれど。人懐こい雰囲気に離れるタイミングを逃してしまったみたいだ。
人に嫌な気を与えさせる前に距離を詰めるのが上手な人ってたまに居る。なんだか、この人は、そんな感じ。
あまりにもわたしと真逆すぎて、それがはっきり、よくわかる。
「…………」
少し薄暗くなってきた景色の中、でも隣にあるその横顔が、なぜだか妙に眩しく見えて、軽く、目を細めた。
ハナが、笑っているみたいに言う。
「不思議な色してたでしょう」
ハナは、さっきまでわたしがしていたみたいに空を見上げていた。
つられて上を向くと、より一層オレンジが濃く広く、ついでに藍色の部分もちょっと深くなっている。
「綺麗だなあと思って写真を撮っていたら、俺と同じように同じ場所を見上げてる子がいてね。でも、なんだか、俺とは違うような気持ちで見てるみたいな顔してたから、ちょっと興味を持って」
「その子って、わたしのことだよね」
「まあ、そうなんだけどね」
ハナの視線がわたしに向く。
そんなふうにさっきも、ファインダーを向けて、そうしたらこっちを見たから、ついシャッターを切った。ということらしい。