息を止めた。
その一瞬だけが、言葉の持つ意味を理解するのにかかった時間だった。
記憶が短くなっている。
ハナに残っている思い出が、どんどん、消える速度を速めていく。
たった1日しかない記憶が、もう、たった1日すら残せなく。
「…………」
それは、一体、どこまで。
たとえば──
「……可能性は、確かにあって。うちの両親がずっと記録を付けてたんだ。主治医の先生とも一緒に検証をして、それで間違いなく、ここ数ヶ月で徐々に記憶される時間が減っているって判断された。おそらくこれから先も、もっと……」
「ハナはそれを、知っているんですか?」
「……知ってる。少し前の、まだ『もしかしたら』という段階から伝えてた。ちゃんと受け入れて、今日、確かになった結果を伝えても、わかったって、笑いながら、それだけを言ってたって」
騒いだり、喚いたり、悲嘆に暮れたりしなかった。
覚悟して、なすがままに、すべてを受け入れたように見えた。
でも。
「平気なわけがないんだ。苦しいに決まってる。何も言わないだけだ、人に心配かけたくなくて。あの馬鹿、本当に……!!」
いつから……いつからハナは、それを考えていた?
自分の記憶が、さらになくなっていくかもしれないこと。
あのノートに、大切な記憶のノートに書いていたに違いない。毎朝見て、知って、どれだけ、ひとりで、ハナは悩んできたんだろう。
『セイちゃんが俺に側に居て欲しいと思うとき、俺はいつでも、きみの側に居るよ』
わたしに心から笑ってくれていたときも。下を向いたわたしに手を差し伸べてくれたときも。光の見える場所へ、わたしを引っ張り上げてくれたときも。
『でもね、もしもきみが俺のことを嫌になったら、そのときは構わずに、離れていっていいからね』
きみはずっと考えていたの?
ずっと、ずっと、ひどく苦しんでいる心で、だけどわたしの手を、離さず握っていてくれたの?
「……ハナ」
記憶がなくなるって、どういうことなのかな。
眠りに就いて、目が覚めて。毎朝、何ひとつ知らない世界に降り立つこと。
昨日までの自分がわからない。今の自分さえわからない。
世界に取り残される感覚。それがどれだけ辛くて恐いことか。
わたしたちには、きっといつまでだって理解できない。
想像もできないほどのことなんだ。
それをハナは、たったひとりで、小さな体で、必死に受け入れようとした。
きっと、心の奥に、とても暗い場所をつくって。いろんな思いをそこに沈めて。
きみの見る、何より美しい世界の裏側に、隠されていた深い暗闇。
星のない夜空のような。
何も見えない、真っ黒な世界。
ずっと、たった、ひとりで。
きみはそんな場所で、膝を抱えて泣けずにいたの。
「……セイちゃん」
お兄さんが、掠れた声で言う。
「ハナを、助けてあげて」
必死な叫びだった。
決して大きくはないのに、こんなにも強く響く祈り。
「ハナは……意識的にか無意識かは知らないけどね、事故に遭ってからはあんまり人と関わらなくなった。忘れちゃうのが恐くて、たくさんの人に囲まれてるのに、どっかでいつもひとりで居たんだ」
いつか、三浦さんが言っていたことを思い出す。
『いつもすごく楽しそうだったよ。でも反面、よく早退したり、休みがちでもあったみたいだけどね』
笑っている顔。
忘れたくなくて、見つけた景色を写真に撮る。
でも、忘れてしまう。
忘れたことすら忘れる、もう二度と、戻らない思い出。
「だけどたったひとつだけ。どうしてだろう。とても大切にしたものがあるんだ」
消えていくきみの記憶。
その中に残った、わたしの姿。
「セイちゃんだけなんだ。記憶がもたなくなってから、あいつが持った、大切なもの」
──きみは俺の宝物。
いつかの声が聞こえた気がして、知らず、唇を噛む。
「セイちゃん、俺からのお願い」
お兄さんは涙を拭った。
そして真っ直ぐにわたしを見つめて、もう震えはしない声で、もう一度言った。
「ハナを助けてあげて」
──ねえ。
きみは今、どこに居るんだろう。
どこに居て、何を思っているんだろう。
心の奥で、本当はわたしと同じに膝を抱えていたはずのきみは、それでもわたしに笑って、わたしに手を差し伸べてくれた。
ここに居ていいんだと、声高く言うきみの言葉が、わたしに空を見上げさせた。
だったらわたしは。
わたしはきみに、一体何ができるんだろう。
何をしてあげられるんだろう。
たった1日……それよりも短い記憶の中に。
わたしは、何を、残してあげられるんだろう。
「……できません。わたしには、ハナを、助けられない」
目を見開くお兄さんを、わたしは息を短く吸って見上げた。
視界にはいつもの丘と、楓の木。そしてオレンジと紺の混ざる、狭い不透明な空。
「わたしはハナを、助けてあげられるような人間じゃない。ハナの気持ちにも気付けなかったし、今だって、何をすればハナが心から笑ってくれるのかもわからない」
きみは簡単に、わたしの心を正直にしてくれたのに。
わたしにはそれがどんなことより難しい。
優しい人であれたらいいけど、わたしはいつも結局自分勝手だし。
きみに笑って欲しいのは、きみが笑ってくれたらわたしが嬉しいからで。
そのうえいつだってその方法を探してあたふたしているだけで、きみがわたしの知らないところで抱えていたものにすら気づかない。
こんなわたしのこと、きみは笑う?
馬鹿にされても、笑ってくれるならそれでいいけど。でも、ハナ、きみはそんな風に、わたしを笑ったりはしないんだよね。
笑い者にすらなれないわたしは、ほんとに何をしたらいいかわかんないよ。
だけど、だけどね。
ひとつだけ決めてたことがある。
「それでもわたし、側に居る。ハナが泣きたくても泣けないときは側に居るって、それから、笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣けるようになったときも、わたしはハナの側に居るって。決めてたんです」
きっと、わたしはまだ暗闇を照らす光にはなれない。
だけどその代わりに、きみがしてくれたように、光が見える場所へ、暗いところに沈んだきみを引っ張り上げてあげるから。
上を向いてと。
確かにあると。
真っ暗だと思ったそこには、小さな星が浮かんでいると。
教えてあげるために。
きみがわたしに教えてくれたように。
今度はわたしが、暗闇の中うつむくきみへ。
「わたし、行きますね」
足を踏み出して通り過ぎたわたしを、お兄さんは追いかけて来なかった。
きっと振り向きもしなかった。
誰よりも今すぐ走り出したいはずの人は、それでも。わたしに言葉だけを預けて。
「ハナを、よろしくね」
背中越しに声だけを聞いた。
振り向かずに、わたしは真っ直ぐに、自分の行きたいところへ走った。
きみが居る場所が、わかっていたわけじゃない。
ただ、なんとなく、そこに居るんだろうと思っていた。
公園の小さな裏口から続く、丘陵に沿った真っ直ぐな階段。
住宅の隙間を縫ってところどころうねうねと曲がるそれは、どこでもない場所へと繋がっている。
いくつもの段をのぼったその先。
階段の終点の、近所の猫の昼寝スポット。
いつか見つけた場所だ。ここからの景色を見て、わたしたちは揃って言葉を失ったっけ。
とても綺麗な景色だった。でも今でも何より鮮やかに思い出すのは、ここから見える景色の中で笑う、きみの顔。
ここは、わたしときみの、秘密の場所。
「ハナ」
小さな声で、呼んでみた。
膝に置かれていた頭が、そっと持ち上がる。
「……セイちゃん?」
「こんにちは」
「なんで……ここに居るの」
ハナは随分驚いた顔をしていた。
わたしはハナの場所より数段下で、見上げる形で立っている。
「ハナこそ、なんでこんなところに居るわけ」
「……わかんない。ここ、どこだろ。セイちゃんは知ってる?」
「知ってる。教えないけど」
「あは、なにそれ」
「秘密の場所だもん」
ハナは笑顔だった。でも笑ってなんかいなかった。
少し風が吹いて、きみの髪が揺れる。
綺麗なそれを、わたしは見ている。
「…………」
じっと、何も言わずに見つめ合っていた。
長い時間のような気がして、でも本当は、たった数秒の間。
ハナの顔が、ゆっくりと歪んだ。
「……セイちゃん」
声はほんの微かで、吹いた風に飛ばされてしまいそうなくらいだ。
だけど確かにきみの喉は、わたしの名前を呼んだ。
「セイちゃん」
泣きたいんだと、言っているみたいだった。
それでも泣けなくて苦しんでいる。
わたしの名前を呼んでいる。
きみの心が、叫んでいる。
「俺は、誰も居ないところへ行きたい」
きっと、きみは、誰よりも。
この世界が好きなのに。
「十分だったのにね。今があるだけで。でもいつのまにか、すごく怖くなった。
忘れるのが。どんなに大事だと思っても、眠って、朝起きたら何もかも忘れてること。忘れたことも忘れて、誰かを傷付けて。たったひとり、いつまでも、この場所に取り残されるのが」
「…………」
「セイちゃん……俺は、もう……記憶だけが消えてなくなるのなら、全部をここから、消してしまいたいよ」
いつかきみが言っていたこと。
『辛くはないんだ。だって今、楽しいから』
1日しかもたない記憶を、辛くはないのかってわたしが訊いたら、きみはそう答えてくれた。
何もかもが新鮮に見える日々。毎日新しいことを見つけられる日々。とても美しい日々。
「だめなんだ。いつからこんなに身勝手になったんだろ。十分じゃなくなっちゃった。俺は明日も明後日も、ずっと、いつまでも、今と同じ“今”を、繰り返していたいと思うようになっちゃったんだよ」
綺麗な綺麗なきみの世界を。
こんなに愛しているからこそ、きみは、とても。
とても、悲しいんだね。
繰り返し新しくなる世界。きらきらした宝物であふれていたきみの世界。
そこをひとりで歩きながら、ハナはいろんなものを見つけて、そして忘れていったけれど。
どんどん狭くなっていく世界が、とうとう、自分の立つ場所だけしか残らなくなってしまった。
とても小さな陽だまり。まわりの消えた、自分ひとりだけの場所。
きみの見ていた世界に置いて行かれて、きみだけが、その場所に取り残される。
「ハナ」
それはどれだけ怖いことかな。わたしにはわからないよ。
でもひとつだけ、きみと同じ思いを持っている。わたしも同じ。
いつまでも大切に抱えていたいものを、この綺麗なだけじゃない世界に、見つけてしまった。
「ねえハナ、だったら」
残りの階段をのぼって行く。
静かな足音が空に響く。
夕暮れももうすぐ、長い夜に変わる。
「わたしと一緒に、誰も知らない場所へ行こうか」
きみの目の前で、きみに目線を合わせた。
目を見開いた顔に、きっとあのときのわたしも同じ顔をしていたんだなあと、少しだけ可笑しくなる。
「ハナが望むなら連れて行ってあげるよ。他の全部をここに置いて、わたしたちだけで、他の誰も居ないところへ」
ぎゅっとカーディガンを掴む手に、わたしの手を重ねた。
こんなことしても伝わるのは温もりだけだと知っている。
でも、離しはしない。
「……俺、は」
もし、ハナがここで頷いたら。本当にきみを連れてふたりで遠くどこかへ行こう。
誰に馬鹿だと言われても、子どもの幼稚な考えだと笑われても。
きみを連れて、ふたりきりで、きみの行きたいところへ。
どこまでもずっと。
誰も居ないところへ。たったふたりだけの場所へ。
「…………」
でも、ハナは、答えなかった。
あの日のわたしと同じだった。
あのときわたしは、真剣なきみの瞳に何も言うことができなくて。
答えなんて決まっていると思っていたのに、それは喉から出て行かなくて、本当に決めていた答えは、自分が思っていたものと違った。
「……っぷ」
「……セイちゃん?」
「ごめん、なんでもない。ねえ、ハナは、憶えてないかもしれないけど」
わたしの中には鮮やかに残ってるんだ。
きみがくれた、たくさんの言葉。
「今の言葉ね、ハナがわたしに言ってくれたんだよ。消えたいって言ったわたしに、なら、誰も知らない場所へ行こうかって。わたし何も答えられなかった。そしたらハナね、それが答えだって言ったんだよ」
消えたい気持ちは嘘じゃなかった。
それなのに答えることができなかったのはなんでなんだろう。
わからなかった。ずっと。ハナに言われて、初めて気付いた。
「わたしまだ捨てられないもの、たくさん持ってた。本当に捨ててしまってからじゃもう取り戻せない、かけがえのない、大切なもの」
いろんなものが嫌いになったのは、そのすべてが大好きだったからなんだと、知った。
大好きだから嫌いになった。嫌いになっても、まだ、ずっと、大切だった。
「わたしはハナがどれだけこの街が好きか知ってるよ。ハナが大好きな人も、ハナのことを大好きな人も知ってる。ハナだって、わかっているはずでしょう」
きみは確かにたくさん持ってる。わたしよりずっと、そのことを知っている。
だってきみの見る世界には、宝物みたいに綺麗なものが、あんなにもたくさん、溢れているから。
そうでしょハナ。
小さな小さなきみの世界、だけどそれは誰のどれより、輝いている世界なんだ。
「……でも、セイちゃん」
ぎゅ、と。重ねていただけの手が、ハナの手のひらに包まれる。
どれだけ長いことここに居たのか、いつも温かい手はすっかり冷え切っていたけれど、それでも悲しいくらいに温度は伝わる。
こんなに側に、熱までわかるくらいに、近くに、確かに、わたしたちは居るのに。
「……俺は」
指先に込められた力は痛いくらいに強くて。
微かに、震えていた。
「……ハナ」
ハナが、泣いている。
大きな目から涙を落として、唇を噛み締めて、ハナは泣いていた。
ぼろぼろと止まらない涙は頬を流れて、地面にいくつも染みをつくる。
目を離せなかった。涙を流すきみから。
「忘れたくないんだ……セイちゃん、きみのことを」
一滴がわたしの手に落ちて、それから、ハナの震える指先へ伝う。
「だって、この世界に、きみ以上に大切なものを見つけられない」
光るきみの涙。
とても綺麗な透明だった。
いつから溜めていたものなんだろう。
たくさん苦しみながら、誰にも見せられなくて隠し続けていたそれを、きみは今、わたしに見せてくれた。
とても大切な言葉と一緒に。
知ってるよ、そんなこと。
何をいまさらそんなこと。
わたしがきみの、何より大事なものだって。
そんなの知ってる。
だってわたしも、きみが世界で一番大切だから。
きみだけが居ればそれでいいなんて、今はもう思わないけれど。
きみが居なきゃわたしの世界は、少しも色を持たないままだ。
だって思うんだよ。
淀んでばかりいたわたしの世界が、少しだけ綺麗に見えるようになった今。
“世界は綺麗だ”という言葉を信じるのなら、きっと、わたしの世界はきみと出会ってはじまった。
だから──
「立って、ハナ」
「……え?」
「立って。行くよ」
戸惑うきみを引っ張り上げて階段を下りていく。
そうしながら携帯で、ある人に電話を掛けた。
もう空は暗くなってきている。
きっとあと少しで、星が昇り始める。
「セイちゃん……どこ行くの」
「誰も知らない場所へは行かない。でもちょっとだけ」
振り返る。
まだ、涙で濡れたきみの頬を手のひらで拭って、驚いたままの顔に、わたしは、笑う。
「今からハナを、誘拐する」
きみのためになんて何もできないわたしが、できることはなんだろうって、必死になって考えた。
大したことは何ひとつない。
きみがよろこんでくれるかもわからない。
だけど後先考えずに突っ走るくらいがちょうどいいんだ。
怒るのも反省するのもあとにして。
今はただ、きみの手を取って走るよ。
きみに見せたい、景色がある。
◇
原付は、公園の入り口に止めてあった。
裏口から公園に戻って、丘の脇を通って噴水の広場へ。
そこにはハナのお兄さんがいた。
お兄さんはわたしとハナの姿を見つけると、座っていた噴水の縁から立ち上がって、大きな声で叫んだ。
「ハナ!」
「……兄貴?」
少しの距離を開けて立ち止まる。ハナも、お兄さんも、同じような表情をしてお互いのことを見ていた。
しんと静かな夕方の公園。ゆるく吹いた風が楓を揺らして、ざわっと葉擦れの音だけ聞こえる。
お兄さんは何かを言おうとして、でも何も言わずに開きかけた口を閉じた。ハナも同じだった。
泣かないけれど、今にも泣いてしまいそうな顔。
「お兄さん」
呼ぶと、ハナに似た瞳がわたしに向いた。
本当ならここでお兄さんにハナを引き渡すべきなんだろう。
お兄さんの気持ち、少しはわかってるつもりだ。誰よりハナを大切に思ってるあの人は、きっと今すぐハナを、ぎゅっと抱きしめてあげたいに違いないんだから。
でも、もう少しだけ。
「お兄さん、少しだけ、ハナを借ります」
それは確認じゃなく宣言だった。だってだめって言われたって連れて行くつもりだから。
「…………」
ハナがわたしを見た気がしたけど、わたしはじっと、お兄さんから目を逸らさずにいた。
お兄さんは、小さく縦に頷いた。それからさっきと同じようにわたしに向かって、
「ハナをよろしくね」
そう言ったから、わたしも頷いて、そして繋いでいた自分のじゃない手のひらを、ぎゅっと強く握り直した。