僕は何度でも、きみに初めての恋をする。


「手伝ってあげたいけど、なかなか難しい」

「えっと……大変って、いうか……」


呆気にとられた。そんな言葉が、返ってくるなんて思わなかったから。

優しい言葉を欲しがったわけじゃない。妙に気を遣われるのは嫌だから、馬鹿にしてくれるくらいで丁度良かったのに。

初めて言われた、そんなこと。

手伝ってあげたい、とか。大変とか。

宿題を溜め込んでるわけじゃないんだし、ふつうはそんな言葉を選びはしないのに。


だけど……なんだろうな、その言葉。

他の誰かが何度もくれた、どんな気を遣った丁寧な言葉より、ずっと、楽な心で受け取れる。

なんだか間が抜けてるからかな。言われたらフッと、空気が抜けちゃうような。

よくわからないけど、なんだろう、なんか。

なんか、変な感じ。


「セイちゃんはさ、きっと、俺には及びもしないようないろんなこと、いつも必死で考えてるんだね」


ハナがもう一度立ち上がる。

そして、もうすぐ星が光り出す、半透明の空を見上げる。


「苦しいことがちょっと多いのかな。そういう顔してた。でも、そういう思いばっかり駆け巡ってるからってさ、セイちゃんに綺麗な世界が見えないからってさ。セイちゃん自身が綺麗じゃないとは限らないんじゃない?」


ハナの声は歌うみたいだ。

心地良く響いて、拒否できなくて、あたたかくて、揺るぎない。

だからこそ。


「きみは綺麗だよ。きみが知らなくても、俺が知っててあげる」


瞳がわたしと向かい合う。

まっすぐに。貫いたりはしないけど、柔らかく包んで捉えるような、そんな風に。


「…………」


何を、言ってるんだ。

わたしのことなんて何も知らないくせに。

勝手なことを言って。恥ずかしいことを恥ずかしげもなく。


わたしが綺麗? そんなわけない。

こんな世界、綺麗なものなんてひとつも無くて、わたしだって、例外じゃなくて。

いつだってどろどろしててぐちゃぐちゃで、誰にだって、優しくできない。

こんな、わたし。


わたしを、きみは──


「……帰る」

「ん?」

「もう、暗くなるから帰る」


バッと立ち上がって鞄を背負い直した。

ハナはちょっと驚いた顔をして、でもすぐに「そうだね」と表情を戻す。

ふわりとした、わたしと違う、柔らかな表情。

「じゃあ俺も帰ろ」

「家、近いの?」

「ん、そんなに遠くないよ。セイちゃんは?」

「……わたしも、遠くない」


嘘だ。結構距離はあるんだけど、送ってく、なんて言いだしたら困るから。

ハナが「そっか」と呟いて、長いカメラの紐を斜めにして肩に掛ける。


「今日はありがとう。気を付けてね」

「うん」

「変なおじさんについてっちゃだめだよ」

「ついてかないって」

「横断歩道は信号を見て渡ってね」

「わかってるって。じゃあね」


チカチカと光り出す街灯。

太陽よりもずっと眩しいそれを目指して、視線を地面に落としながら、坂道の芝生をしくしくと踏んだ。


「セイちゃん」


背中から聞こえた声。


「ねえ、明日も会えるかな」


最後に一度だけ、振り返る。


「さあ」


それだけを答えた。

ロクな返事じゃなかったけど、ハナは嬉しそうに笑っていた。


わたしは遠くて暗い道のりを、少し遅いペースで歩いて帰った。

街灯の減ったところで顔を上げてみたら、すっかり暗くなった空に、小さいけど真っ白な星が、いくつかそこに浮かんでいた。


そっと手を伸ばしてみる。掴めるはずもない。

宙で、ぎゅっと手を握って、それから腕を下ろした。掴みそこなった小さな星は、今もそこで、光っていた。





家に帰るのが嫌になったのは、いつからだったっけ。

よく見知った町並みを見るたびに足が重くなって、心臓がなんだかやけに、嫌に痛くなる。


1階の遮光カーテンの隙間から灯りが点いているのが見えていた。

携帯で時間を確認してみると、まだ、お父さんは帰っていない時間だ。

ドアを開ける前にひとつだけ呼吸をしてノブを回した。

明るい玄関と、その先に続く廊下に、リビングの灯りがもれていた。


「……ただいま」


ぼそりと呟いて、廊下をゆっくりと進む。ミシ、と床が軋んで「星?」とリビングから声が聞こえた。


「帰ったの?」

「うん……ただいま」

「おかえり」


覗くと、ソファに座っていたお母さんが微笑んだ。

だからわたしもどうにかして、笑顔を作って浮かべてみせる。

難しい、笑うのが。

たぶん、家に帰るのが嫌になったのと同じころに、お母さんとお父さんに、自然な笑顔の見せ方が、わからなくなった。


「ごはんあるけど、食べる?」

「ううん、いらない。ごめんね。もうシャワー浴びて寝るから」

「そう……温かくして寝なさいね」

「うん」


おやすみ、と言って、その場を離れた。

視線を逸らす瞬間、お母さんの笑みが少し崩れていたのを見て、ああ、お母さんもわたしに笑いかけるのが難しいのかなって思った。

前は、こんなふうじゃなかったんだけど。

ごはんはいつも一緒に食べていたし、会話だって尽きることがなかった。

お母さんもお父さんも大きな声で笑うし、それを見るとわたしも嬉しくて笑った。


お母さんは、ちょっと髪の毛に白髪が多くなった。

お父さんは、帰ってくるのが遅くなった。


わたしは家に帰るのが嫌で、でもどこかへ行くこともできなくて。いつも逃げるみたいにして部屋に籠もって、ベッドの中でうずくまっていた。



そのうち、いつもみたいに耳障りな叫び声が聞こえてきた。

扉を閉めても毛布を被っても消えないから、丸まって、できるだけ小さくなって、それからきつく、痛いくらいにくちびるを噛んだ。

ああ、うっとうしい。何もかもこんなふうなら、全部消えちゃえばいいのに。

全部全部、いらない思いは全部。

ゴミみたいにして綺麗さっぱり、消えてなくなっちゃえばいいのに。


『きみは綺麗だよ』


ドクンと、小さく心臓が鳴った。

今日聞いた、聞き慣れない声が、頭の中に響いてぐるぐる渦巻く。


「…………」


いつもと変わらない吐き気がするような思いの他に、なんだか違うものもずっと胸につかえていた。

それは決して心地良いものじゃなくて、でも、一緒に感じている不快なものとも全然違って。

言葉にするのは難しいけど、どうしてか、頭の奥の方から涙が溢れてきそうになる、そういう感覚。


不快じゃない、嫌じゃない、気持ち悪くない。

でもその気持ちがあるせいで、いつも以上に心の奥が、苦しくなっていたんだ。






昨日の晴天が嘘みたいにどしゃ降りの今日。

教室の大きな窓一面に打ち付ける強い雨粒は、ひとつひとつがライフル銃の弾みたいに、するどく正確に窓際のわたしを狙ってくる。

そのうちこの窓割れちゃうんじゃないかな、って。そんなことだって本気で思えるくらいに勢いはすごくて、雨粒の攻撃のうるささで先生の声だってロクに聞こえはしない。

昼間なのに空は重たく黒くて、校庭は海みたいにうねうね波をつくっている。


明日まで続くらしいこの雨は、ニュースで話題になるくらいの珍しい大雨だ。

かと言って風はあんまり強くないから学校はいつも通りにはじまっていて、生徒の文句がいたるところで聞こえている。



お昼休みが終わった後の授業中。

降り止むどころかどんどん強さを増す雨を眺めて、まるでこの世の終わりみたいだなと思っていた。

分厚い雲に覆われた空はなんとも不気味だし、勢いよく降る滝のような雨は、世界中をうねって、流してしまいそうな感じ。

こんなのでも、あの人は、綺麗だって言うのかなあ。

と、考えたのが先で、それから、昨日会った人のことを思い出した。

なんだか、不思議な人だった。

世界が、わたしすらも、綺麗に見えているらしい人。


『ねえ、明日も会えるかな』


そんなことを、言っていた。


うん、とは答えなかった。

会おうとも、会わないとも、決めてなんかいなかった。でも。

どしゃ降りの大雨。朝よりもずっと勢いを増しているその中に、一歩足を踏み入れることすら煩わしいこんな日に、わざわざ公園に行く人なんて一体どこにいるんだろう。

きっとあの人も、今日はいない。

星の数みたいな雨が降り続ける空に、なんとなく、息を吐く。



「倉沢さん」


6時間目の授業が終わって、放課後。帰ろうかと席を立ったときに、ふと呼ばれて振り向いた。

呼んだのは同じクラスの三浦さんだった。三浦さんとは仲が悪いわけじゃないし、嫌いでももちろんないけれど、そんなによく話すわけでもないからこうやって声をかけられるのは珍しい。

ただ、どちらかというと三浦さんは、ハナと似たようなタイプだ。相手を問わずに仲良くなれるっていうか。

だけど三浦さんはハナと違って、問答無用に距離を詰めてきたりはしないけど。


「吉本先生が課題、早く提出しろって」

「ああ、うん、ありがとう。今から出しに行く」

「珍しいよね、倉沢さんが課題忘れるなんてさ。なんか、そういうとこ真面目なイメージあるから」

「そんなこと、ないけど」


いや、うん、確かに。課題はたいていきっちりこなすタイプだと思う。こんなふうに忘れることって自分でもホント、珍しい。

でも、近頃はそんなことすらままならないくらいに、ちょっと、心に余裕がないのかもしれない。

なんだかいろんなことが、上手く回らないんだ。

「ありがとう」ともう一度言って、軽い鞄を背負った。

朝、登校中に濡れてしまったそれは、随分時間が経った今でもところどころが微妙に湿っている。

気持ち悪いし、大雨の中帰るのも億劫だし、おまけに職員室に寄るのもめんどくさい。

いろんなことが煩わしいな、そんなことを思う背中に、「倉沢さん」とまた呼ぶ声が掛かる。


「あのさあ……」

「ん、なに?」


まだ先生、何か文句を言ってたかな。

だけど振り返ってみれば、どうやらそうじゃないみたいだ。

「ちょっと聞きたいんだけど」と、もじもじしながら視線を逸らす三浦さんに、なんだろう、と首を傾げると。


「倉沢さん、原付の免許持ってるってほんと?」

「えっと……うん、持ってるけど」

「あ、やっぱり本当なんだ!」


急にらんらんと目が輝いて、ぐっと身を乗り出してくるからちょっと後ろに引いてしまった。

だけど三浦さんはおかまいなしに、逸らしていたはずの目を真っ直ぐに向けてくる。


「あのね! 実はあたしももうすぐ取ろうと思っててね! でもまわりに取ってる子いないからさあ、試験とかどんなのだろうと思って」


そして、どうやらわたしが免許を持っているということを聞きつけて、訊ねてみたということらしい。


「な、なるほど」

「あの、ごめんね、急に」


うちの学校は基本的には免許取得は厳禁だ。

数少ないヤンキーぽい人たちは堂々と取得を言いふらしているけど、できる限り平穏でいたいっていうわたしみたいなタイプの人は、あんまり口には出さずにこっそりと取りに行っている。

だからわたしも本当は内緒にしたいはずだろうと、三浦さんはちょっと話しにくかったみたいだ。

そんなこと気にしなくていいのになって、こそっと小さく笑ってみる。


「三浦さんて、自転車乗れる?」

「自転車? うん、乗れるけど?」

「じゃあ大丈夫。簡単だからすぐに乗れるよ。あとは学科かなあ、これもそんなに難しくはないけど」

「でもあたし、そういうの苦手だからなあ。ちょっと心配……」

「んー、でも確かに、勉強はしたほうがいいかも。あ、問題集があるから貸そうか」

「え、いいの!?」


こくりと頷くと、三浦さんは「ありがとー!」とがっしりわたしの両手を掴んだ。

そうしてぶんぶんと振られるから、たじろぎつつもされるがまま。元気だなあと、悪天候なのに晴れ晴れとした顔を見ながら思う。


「じゃあ明日……は休みだっけ。来週持ってくるね」

「うん、本当にありがとう倉沢さん!」


相談して良かったと、大したことなんてひとつも言えてないのに言われるから、少し申し訳なくなる。

何度も手を振りながら教室を出て行く三浦さんを見送って、わたしはもう一度鞄を背負い直した。


職員室に寄ってから、昇降口で自分の傘を拾って、滝みたいな雨に向かって突き出す。

広げると、途端に端から流れ落ちていく滴。

地面全部が水たまりで、あっという間にローファーの中に水が染み込んだ。

真っ黒な空。立っているのも辛い大雨。


何気なく、東の方向に目を向けてみた。

見えるのは当然、グラウンドに立つ照明くらい。他には何も、見えたりしない。


──ドンと、帰宅の人波に肩を押されて、いつの間にか立ち止まっていた足を動かした。

今日は真っ直ぐに、家までの一本道を歩いて帰った。