気付けば随分日が落ちてきていた。夕暮れ時と言える空。
お母さんはまだ名残惜しそうだったけれど、あまり遅くなっても行けないから今日はここで終わりにした。
「じゃあセイ、ちゃんとハナくんを送っていくのよ」
「うん」
帰り道がわからないハナを、噴水の公園までわたしが送っていく。
ハナは「ひとりでも大丈夫だよ」と言っていたけれど、ハナと違ってわたしはそういう遠慮はしないのだ。
「ハナくん、セイのこと、よろしくね」
お母さんに、ハナは少しだけ間を置いてから「はい」と返事をした。
お母さんは嬉しそうに笑って、家を出るわたしたちを手を振って見送った。
門を抜けて少し歩いたところで「バイクがあった」とふいにハナが言う。
「ああ、うん。あれがわたしの原付」
「ゲンツキ」
「うん。高校出たらね、二輪の免許取ってもっと大きいバイク買うんだ。ふたり乗りも楽にできちゃうやつ」
「大きいのが欲しいの?」
「そうだよ。ハナと一緒に乗るの」
もっとわたしが大人になったら。
ハナをわたしのバイクの後ろに乗せて、どこまでも行きたい場所へ行くんだ。
思い出のあの丘とか、他にももっとたくさん。わたしもハナも知らないいろんな場所へ。
「それは……俺とした約束?」
「違うよ。ただのわたしの願望」
「そっか……」
そのときなんとなく、隣を歩くハナを見上げた。
どきっとしたのは、見惚れたわけじゃなく。
夕焼けでオレンジに染まる横顔。それがとても綺麗で、いつまでも見ていたくて。
だけど、それよりも、不安になったせいだった。
「…………」
ハナの表情に見覚えがある気がした。何かに似ていた。
そう、いつかハナが撮った、わたしの写真と同じ顔。
何かを必死で考えているときの表情だ。誰にも言えない、自分にとっての大事なこと。
「ねえセイちゃん」
ハナが呼ぶ。ハッとして、でも咄嗟に答えることができなかった。
ハナは真っ直ぐ前を向いたままだった。わたしを見ないままで、どこか遠くを見つめていた。
「セイちゃんが俺に側に居て欲しいと思うとき、俺はいつでも、きみの側に居るよ」
唐突にそんなことを言って、「でも」と続けたところで、ハナの目が一度だけこっちを見た。
一瞬合った視線の中で、ハナはちょっとだけ笑って、それからまた、前を向く。
……何を、言い出すのか。突然何を、言おうとしているのか。
「でもね、もしもきみが俺のことを嫌になったら、そのときは構わずに、離れていっていいからね」
笑顔が。笑いたくて笑っているんじゃないんだと、わかった。
いつだって誰より綺麗に笑うきみの、いつもの顔と全然違うから。
「なんで……」
なんでそんな顔をするのかわからない。
なんできみが、そんなことを言うのか。
でも。
「…………」
でも、きっとたくさん考えて言った言葉。
自分の中に積もりに積もったいろんなこと、必死に考えて、ハナはわたしにそう言うんだろう。
離れていっていいからと。
どれだけ一緒に居たって心の中まで知ることはできなくて、わたしはきみが何を考えているのか、知りたくても、知れないけれど。
「……わかった」
ぎゅ、と隣を歩いていたハナの手を握った。ハナは少し驚いた顔をして、指先で、わたしの手を握り返す。
「わかったよ。でもその代わり、もしもハナがわたしのことを嫌になっても、わたし絶対、離れていかないから」
わたしはきみが何を必死に考えているかわからないんだ。
きみはわたしの心に寄り添ってくれるけど、それすらできないわたしはもう、仕方がないから、自分の心の思うままに行くしかない。
歩く道の先は、ゆっくりと藍色に包まれていく空。
太陽は背中の方に落ちていって、地面に影が長く伸びる。
ハナの影の方が少しだけ長い。わたしたちが歩くのとおんなじようにその黒い分身は進んでいって、でも、ぴたりと、長い方の影だけが止まった。
「……どうしたの?」
わたしも立ち止まって振り返る。右手と左手だけで繋がった、少し距離を空けた後ろで、ハナはじっとわたしを見ていた。
夕日を背負っているせいで眩しかった。ハナの顔が、あまりはっきりと見えない。
「セイちゃん」
声は、透き通ってよく聞こえた。ほかの音が一切聞こえなくて、ハナのその声だけが、わたしの中へ沁みていく。
「ありがとう。きみに会えて、本当によかった」
ハナ、どんな顔してるの。
ハナ、わたしは今、どんな顔してる?
「きみは俺の宝物」
ハナ、わたしまた、あのときと同じ顔しちゃってるんじゃないのかな。
きみと全然違った顔。
でも今は、きみも、おんなじ顔をしちゃっているね。
ハナが、わたしの瞼にひとつ小さなキスを落とした。
すぐ側で見るきみはとても綺麗で、嬉しくて、だけどすごく、涙が出そうで。
行こうか、と握り返してくれる手を、離れないようにきつく包んだ。
側に居てね、側に居るから。
そう、繋いだ手に、祈ることしかできなかった。
「星、ちょっと手伝ってー!」
1階から声が聞こえて、慌てて下に降りていった。
もう出掛けようとしてたのに、とブラウスのボタンを留めつつ、リビングのお母さんのところへ向かう。
リビングは随分散らかっていた。
物が散乱しているわけじゃなく、そこかしこに段ボール箱が置かれているからだ。
「何を手伝う?」
「そこの箱みっつ、玄関のところに置いといてー」
「それくらい自分でやってよ。わたしもう出掛けるのに」
「だって重いのよ。お母さん腰痛めちゃうから」
「もー」
抱えると、その段ボール箱は本当に何入ってんだってくらいに重かった。
これじゃわたしも腰痛めるぞ。
呆れながら、必死で3個の重たい箱を玄関まで運んでいく。
明日が、お母さんが家を出る日だった。
隣の市のアパートへの引っ越しだ。近くで働く場所ももう決まっているという。
わたしはやっぱり、お父さんとここに住むことに決めた。
お父さんの一人暮らしは心配だったし、十数年ぶりに仕事を始めるお母さんの負担にもなりたくなかったからだ。
「いつでも遊びにおいでね。ハナくんも、一緒にね」
お父さんと居る、とわたしが伝えたとき、お母さんはそう言ってくれた。
少し寂しそうな顔をしていたのが辛かったけれど、これがまた新しい始まりだと思えば我慢もできた。
「置いておいたよ。わたしもう行くね」
「うん。ハナくんによろしくね」
「はーい。いってきまーす」
いってらっしゃい、という声を背中に受けて、少し重たいカバンを背負い、家を出た。
今日は、月に一度の検査の日だと聞いていた。
病院が終わるのが何時くらいかは、これまでの経験で知っている。
だから、それに合わせてわたしも少し、遅く家を出るつもりではいたけど、思わぬ労働で予定よりもさらに出発時間が遅れてしまった。
最近は負けることが多いから、今日は先に着いてやろうと思っているのに。
通い慣れた道を、足早に進んでいく。
駅の側のいつもの公園。相変わらず仕事をしていない噴水の前を通り過ぎて、ちょこっと広場の奥へ進めば、いつだってひと気のない、芝生の生えそろった丘の場所へ着く。
ちょっと期待はしたけれど、そこにはやっぱりもうきみが居る。
ああ、また負けちゃった。たまにはきみを待っていたいのになあ。
少し歩く速度を緩めてゆるい丘の下へ行く。
そこで、顔を上げて、きみの名前を。
──ハナ。
「…………」
呼ぼうとして、でも、呼べなかったのは。
ハナの表情が、とても悲しそうな。今にも泣きそうで、でも、絶対に泣かない顔をしていたせい。
──あれは。
最近よく見る……わたしが、ハナに出会った頃にしていた顔と、おんなじ顔だ。
何かを必死に考えているときの顔。何を考えているのかは、わからないけれど。
思い返せば何度か心当たりがあるんだ。ふと気付くとその表情を見せていて、でも、すぐにいつもの顔に戻る。
わたしには気付かせたくないみたいだった。それもわたしと同じだ。わたしも、誰にも何も知られたくなかった。
空を見上げているハナは、わたしに気付いていないみたいだった。
どうしたらいいのかな。でも、どうしたらいいのかわからない。
だってわたしには、なんでハナがこんな顔をするのかがわからないから。
何を考えているのか。何をしたら、笑ってくれるのか。
「…………」
掛ける言葉は見つけられなかった。
その代わりに、急いでカバンを開いて、持ってきたものを取り出した。
重たいそれを顔の前に掲げる。よく理解できなかった本の内容を、手探りで、試してみる。
──カシャ
乾いた音が、静かに響いた。
ファインダー越しに、ハナと、目が合う。
「セイちゃん?」
カメラを下ろすと、ハナは驚いた顔をした。
「こんにちは、ハナ」
「こんにちは……って、え? 今、もしかして写真撮った?」
「うん、もしかしなくても撮った。ハナのこと撮った」
「ちょっと、嘘。やだ俺、今変な顔してなかった?」
「してた。ちゃんと撮っておいたから、現像したら見せてあげるね。絶対綺麗に撮れてるはず」
「やめてよー、うわあ、すごく恥ずかしいんだけど」
「これでわたしの気持ちも少しは理解したでしょ」
「なんのこと?」
「変な顔を撮られる恥ずかしさ」
「セイちゃんが変な顔をしてたときなんてないよ」
「いっぱいあるっての。ハナのアルバムはわたしの恥ずかし記録ばっかりだよ」
カメラを抱えたままでずんずんと丘を登っていく。
隣に立った頃にはもう、ハナはいつもの柔らかな表情に戻っていて、よかった、と安心しながら、横にぺたんと座った。
草の匂いがする。
「いいでしょ、わたしのカメラ」
「びっくりしたよ。でも隠し撮りはよくないな」
「その言葉そっくりそのまんまハナに返すよ。思い知れ、わたしの常日頃の恥を」
と言ってもハナは自分は隠し撮りなんてしないと思っているから、わたしの言葉なんて聞く耳持たずだ。
なんだか最強のとぼけ方だなあと思う。
「かっこいいね、そのカメラ。どうしたの?」
「お父さんに貰ったんだ。少し古いし重いけどね、性能はいいみたい」
「へえ……ちょっと借りていい?」
ハナはカメラを手に取ると、空に向けて、カシャリとシャッターを切った。
わたしのカメラに刻まれる、ハナの見る世界。
「ほんとだ。俺のよりもちょっと重いね。大きさもこっちのほうが大きいし」
「うん。だからね、持ってると腕疲れちゃうんだよ。三脚買おうかな」
「あは、三脚持ち歩くほうが疲れちゃうよ」
返ってきたカメラをカバンにしまう。
パンパンのファスナーをどうにか閉めて、それから、ハナに訊ねる。
「今日はどうする?」
ハナは「んー」と唸ったあと、ごろんとその場に寝ころんだ。
芝生の上で眩しそうに目を閉じるのを、わたしは横から見下ろしていた。
どこに行こうって今日は言うのかな。わたしの知らない場所かな、ハナの知らない場所かな。
それともふたりとも知らない新しいところかな。
まだ知らない場所、どれだけ見つけられるんだろうか。
「そうだね、今日は」
だけど返ってきた答えは思いがけず、こんなこと。
「今日は、ここでのんびりしてたい気分」
「ここで?」
「うん、たまには」
珍しいなあと思った。ハナはわたしよりもずっと、歩き回るのが好きなタイプだ。
でもきみがそう言うのなら。
「わかった。じゃあわたしも寝よっと。おやすみ」
わたしが何かを望むとき、きみは必ずその通りにしてくれるので。
その代わりにいつもはわたしが、きみの気まぐれに付き合うのだ。
「ちょっとセイちゃん。俺、別に寝てはいないよ」
「わたしは寝ちゃいそうだから、寝ないようになんか話して」
「んー、じゃあ、うちのコロの話をしようか」
ハナの話は、愛犬コロちゃんがハナのお家に来たときの話。
コロちゃんはご近所さんの家から貰ってきた子で、一緒に産まれた6匹の中で一番小さな子犬だったそうだ。
そのせいで他の兄弟に負けてお母さんのおっぱいもなかなか吸えなくて、余計に成長の遅い子だったらしい。
だけど初めて会いに行ったとき、ハナは一目でその子を気に入った。たったひとりで頑張っていた小さな子。
「この子を、自分の家族にしたいと思ったんだよ」
それはもう、3回くらい聞いたことのある話。
でもわたしは今回も、それを静かに、何ひとつ聞き逃さないよう、大切に聞いた。
何気ない日常だ。特に面白味もない、ありきたりなもの。
でもそれは、紛れもなく、もう増えないだろうハナの、大事な思い出のひとつだったから。
いい陽気の日だった。
しばらくの何気ないおしゃべりのあと、自然と黙って空を見ていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。雲の数を数えてみる。ラッパみたいな変な雲。お尻が溶けてる薄い雲。
こういう形とか、数とか。たぶんすぐに忘れちゃうんだろうな。
でも、それを誰と一緒に見たのかは、きっとずっと憶えてる。
きみと過ごした時間。確かに隣にいた瞬間。
ずっとずっと先の未来まで、何が起きたって大丈夫なように。
思い出が側にいてくれるように。いつだって近くにあるように。
きみの中にもあるように。願いながら。
この瞬間を、憶えてる。
太陽は、最初に寝ころんだときよりも少し低い位置に落ちていた。
時計を確認すると、日が暮れるには早すぎる時間。いつもハナが「もう帰ろうか」と言い出す時間はまだ先だ。
「ねえハナ」
「ねえセイちゃん」
呼び合ったのは同時だった。
少し驚きながら、体を起こして仰向けに寝ているハナを見下ろす。
「なに?」
「ん……俺はいいよ、すごくどうでもいいことだったから。セイちゃんは?」
「わたしは……明日お母さんの引っ越しの日だから、準備手伝いたくて、今日はもう帰ろうかなって」
「そっか」
ハナものそりと起き上がる。
そしてそのまま立ち上がって、まだ座ったままのわたしにそっと手を差し出した。
「じゃあ今日はもう帰りな。お母さんによろしくね」
「あ……うん」
握った手に引かれてゆっくり丘を下りていく。
一歩、一歩、進む先にハナが居る。見慣れたふわふわの髪が、小さなリズムで揺れている。
どうしてか。本当にどうしてか、わからないんだけど。
なんとなく、胸がざわついた。
なんだろうこの不安な気持ち。自分じゃ答えを出せないものが、体の真ん中らへんでぐるぐるしてる。
そう、ときどき不思議と思う、きみが消えてしまうんじゃないかって考えるときと、同じ気持ち。
「…………」
──ハナはわたしに、何を言おうとしたんだろう。それは本当に、すごくどうでもいいことだった?
でも、それは訊けないまま、いつも別れる公園の入り口で最後にハナと向き合った。
ねえハナ、ともう一度呼ぼうとしたけれど、
「気を付けて」
ハナが先にそう言うから、わたしは頷くしかなくて、そのままハナに背を向けた。
そのときハナは、確かに、笑っていた。
なんとなく気持ちは晴れないまま、家に帰って、お母さんの引っ越しの手伝いをした。
大方の荷物はもう整理してあるけれど、残りのこまごまとしたものを片付けたり、ついでにいらないものの処分もしたり。
家の中はだいぶすっきりしている。
家具などはほとんどそのままなのに、ほんの少し物がなくなるだけで随分様子が変わるものだ。
玄関前の廊下に積まれた荷物。
明日、お父さんが借りてくる軽トラックに乗せて、このお母さんの荷物が別の場所へ運ばれていく。
「こうしちゃうとなんだか寂しいね。初めて一人暮らししたときみたいなワクワクも実はあるんだけど」
「とても今から離婚する人の心境とは思えないね」
「ふふ、そうね」
お母さんとふたり、山積みの段ボールを感慨深く眺めていた。
今日は仕事のお父さんも、日曜の明日は引っ越しを全面的に手伝う予定だ。
「……明日かあ」
明日にはこの家からお母さんが居なくなると思うと、急に寂しくなった。
ガランとした、物の少ない家。
それは、決まってはいてもなんとなく現実味がなかった今までと違い、嫌でも家族が減ったことを思い知らされる。
今までとは違う生活。
知らない、新しい日々。
「……不安?」
お母さんがふいに訊ねた。
わたしは曖昧に、頷いてみせる。
「お母さんは、不安じゃないの? 寂しくはないの?」
「んー……確かに寂しいわね。これからは一人だから。たぶんアパートに越したら、余計それを感じると思う」
ぽこぽこと段ボール箱を叩いて、お母さんは少しだけ目を細めた。