「……星が、居なきゃいいなんて、思ったこと一度もない」
もう嗚咽混じりの声だ。
お母さんの涙はぼろぼろと止まらなくて、何度も何度も瞬きをしながら、しずくを零してわたしを見る。
「あたりまえでしょう。居る意味すら考えたことが無いくらい、どんなときだってわたしたちには、星が必要なの」
呼吸をするなら空気が要るみたいに。
魚が泳ぐなら水が要るみたいに。
晴れがあるなら雨があるみたいに。
「星が居るから、わたしたちが居るの」
あたりまえのように、必要とする。
不可欠な。絶対に。
そっか。これが家族なんだ。
「……うん」
お父さんとお母さんが居るからわたしが居る。
そしてわたしが居るからふたりが居る。
なんで、とか、どうして、とか。そういう理由は必要なかった。
ただ側に在ればよくて、それこそがすべてで。
最初っから、そういうふうに、世界はちゃんとできていて。
「……星」
呟いたのはお父さんだった。
お母さんにつられたらしい。必死で我慢していた涙がまた溢れそうになっている。
一度だけ、お父さんは目を瞑った。
そのせいでゆっくりと涙が流れた。
もう我慢はしていなかった。流れるままに、お父さんは泣いて、たった一言だけをわたしに言った。
「ここに居ていいんだ、星」
ひとつの星が照らしていた夜が、ゆっくりと白く明けていく。
『居ていいんだよ、セイちゃん』
何よりも聞きたかった言葉だ。
ずっとそれを探していた。
狭いところに隠れて、小さくうずくまって、ひとりで逃げて、手を伸ばそうともしないで。
目を瞑って、耳を塞ぎながら、でも本当は聞きたかった。
たったひとつのその言葉。
居ちゃいけないと思った。居たくないと思った。
でも本当はここに居たかった。
わたしはずっと、そう言って欲しかった。
お父さんとお母さんに。わたしの居場所に。
一緒に居て欲しい人に、その、言葉を。
そして、ああ、そうだったんだ、と気付く。
なんでハナの言葉を聞くと、よく泣きたくなっていたんだろうって。
不思議だった。なんで涙が出そうなのか、自分でも全然わからなかった。
──そうだったんだ。
ずっと初めからそうだった。
わたしが聞きたかった言葉。
ハナの言葉の裏側にはいつだって、その言葉が、隠れていた。
ここに居ていいんだ。
きみはわたしに、いつだって、そう言ってくれていたんだね。
「……ありがとう」
ぽつりと、口の中で呟いた。
変かなって思ったけど、他に何を言えばいいのかわからなかった。
お父さんもお母さんもわたしを見つめて、それからまた余計に恥ずかしげもなく泣くから。
わたしも泣きそうだったのになんだか気が抜けて、仕方がないからへらっと笑った。
まあいいか、と思う。
泣きたかったけれど、泣けなくなったこと。
まあいいんだ。きっと泣かなくたってよくなっただけだから。
だってこんなにも心の中、あたたかな気持ちになっているんだから。
泣くよりは笑った方が、なんか、お得な気がするし、お父さんとお母さんも泣きながら笑ってくれたから、よしとしようと思う。
──少しだけ、明るくなったような気がする。
明日から、きっと、世界は何ひとつ変わっちゃいないけれど、あの丘の上から見る空は、もしかしたら、今日までよりもずっと青く見えるかもしれない。
そう、きみの目がファインダー越しに見るその景色と、おんなじような、晴れた青に。
わかんないけれど。どうせ気のせいだけど。
それでもその気のせいを、精一杯、大きな声で、きみに伝えてみたいんだ。
きみが引っ張り上げてくれた世界には、光が確かにあったから。
真っ暗闇だと思ったそこには、小さな星が、煌めいていたから。
わたしはそこで、もう、膝を抱えずに、ちゃんと立ち上がってみようと思うよ。
だから、ね。
はやく、はやくきみに。
会って、話したいことがたくさんあるんだ。
ねえ、ハナ──
明日も、きみに会えるかな。
まるで、この世のものじゃないみたいだった。
小さな瞳で見上げた、満天の夜空。
毎日家のベランダから見ていた夜とはまったく違った。
キラキラと光るいくつもの光。
手を伸ばせば掴めそうで、必死で背伸びをしてみた。
だけど届かなかった。
あんなに近くにありそうなのに、その光は、ずっと遠くにあるみたいだった。
でも、側に、感じていた。
小さな。綺麗な。
夜空に輝く、真っ白な星。
わたしと同じ名前の、暗闇を照らす、かすかな、光。
今はまだ届きもしないそれに、自分もいつかなれるだろうか。
幼い心でそう思った。
真っ暗闇の中、ひとり俯く人へ。
世界を照らす、小さな光を。
見上げれば必ずあるんだと。世界は暗闇じゃないんだと。
あなたはひとりじゃないんだと。
伝えられる人に、いつかわたしも──
◇
派手すぎない花柄のワンピースは、わたしの唯一のとっておきの服だった。
別に、特別な日でもないのになんとなくそれを着て、靴もお気に入りのパンプスを合わせた。
「いってきます」
そうして家を出る。
行く先なんて、ひとつしかなかった。
何度も自転車通学に変えようかとか、休みの日には原付で行こうかとか考えたりもした。
それでも近くはない距離をいつも歩いて向かうのは、きみに付き合わされるデートと言う名の散歩をちゃんと隣で歩くためだ。
それにきみに会うために掛けるこの長い時間が、なんだかんだで結構好きだったりするのも、めんどくさい手段を取る理由の、ひとつだったりする。
知らなかった街も、最近じゃ見慣れたようになってきた。
よく見る珍しい名前の表札、顔見知りになった猫。
電車の駅の周りには、新興住宅地の建設に合わせて開発された商店街。
メインの大通りはオシャレさが売りの、若者に人気のお店が揃い、平日は近くの職場のサラリーマンやOLの姿もよく見かける。
だけどメイン通りを少し抜けると、そこは昔からの静かな住宅街が広がっている。
丘陵に沿って上へのぼっていくいくつもの小路。その脇に段々と建つ民家や商店。歩く野良猫。
そしてその丘陵地の、下のほうに当たる場所に、噴水のある公園はあった。
噴水と言っても、実際に水を噴いているところは見たことがない。いつも、下のほうに葉っぱの浮いた綺麗じゃない水がぶよぶよ溜まっているだけだ。
聞くところによると、真夏にときどき役目を果たすことがあるらしい。
ぜひにもそのときは見てみたいと思うけど、水はちゃんと新しいものに変えてくれているのか、それだけは不安だ。
噴水の広場よりも奥へ行くと、敷かれていた石畳がなくなって芝生が生えそろう場所に出る。
そこには遊具もベンチも池も、公園らしいものは何もなく、代わりに小さな丘がぽつんとつくられていた。
約束をしないわたしたちが、毎日出会う場所はここ。
そうして今日も、また、この場所できみを見つける。
「ハナ」
空か、鳥か、楓の木か。丘の一番高いところから真っ直ぐと、どこかにカメラを向けているところだった。
ハナはレンズを下ろすとこっちを向いて、ふわりと笑う。
「セイちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
本当は少し気恥ずかしかった。昨日のことで、いろいろと、カッコ悪い部分を見せちゃったから。
でもやっぱり会いたかった。
会って、言いたいことがたくさんあった。
だから会いに来た。
「今日のセイちゃん、素敵だね」
「……わたしはいつも素敵です」
「そうだった」
丘を登っていくと、ハナがいつものようにぺたりと座り込むから、わたしもその横に並んだ。
休日でも公園はいつもどおり静かで、この丘のまわりも相変わらずわたしたち以外誰もいない。
鳥が3羽、飛んでいた。
寄り添うように、ひとつになって、何もない空を駆け抜ける。
だけどそのうちかたまりは、ゆっくりと、1羽ずつに離れていった。
それぞれの場所へ。行きたいところへ。
「ねえ、ハナ」
「ん?」
「あのね」
まだ、昨日の夜のことは憶えているはずだ。
それでも訊いてこないのは、わたしから、言わなきゃいけないことだからなんだろう。
少しだけ、間を置いた。ハナは言葉の続きを黙って待っていた。
見上げた空は青い。
とても綺麗で、気分が良かった。
「うちの両親、離婚することになった」
ハナはちょっとだけ驚いた顔をした。
だけどそのあとそっと微笑んで、「そっか」とだけ答えた。
「準備ができ次第で、お母さんが出て行くんだ。わたしはまだ、どっちに付くか決めてないけど」
昨日、家族で話し合ったことだった。
バラバラになるわけじゃなく、これからもたったひとつの家族であるために、これからは、離れて暮らすこと。
「お母さんと行くなら、一緒に引っ越すことになる?」
「うん。でもたぶん、お父さんに付くと思う。まだ高校入ったばっかりだし、経済的なところを考えるとね。あとうちのお父さんなんにも家事できないから、ひとりにすると死にそうだし」
「だけどお母さんは寂しいんじゃない?」
「たぶんね。ふたりともが『お前が好きな方を選べ。でもできればこっちに来い』って感じだったから。だけどお母さんにも会えなくなるわけじゃないし。そんなに遠くには行かないから、いつでも会えるよ」
引っ越し先はまだこれから決めるけど、わたしが今の家と新しい家とを簡単に行き来できるくらいの距離にするって言っていた。
どちらに付いても、どちらもに気軽に会いに行けるように。
「だから、今までと形は少し変わっちゃうけど、寂しくはない」
望んでいたような元通りには、やっぱり戻ることはなかった。
それでも時間が経てば人の心は変わる。
今のわたしたちには、これが一番最適な家族の形なんだと思う。
「そうだハナ。見せたいものがあるんだ」
「ん、何?」
「写真。わたしのね、小さい頃の写真なんだけど」
「セイちゃんの小さい頃? それすごく見たい」
「違うよ、見せたいのはわたしのことじゃなくて」
苦笑いしながら、カバンの中からアルバムを取り出す。
昨日の夜にお母さんに出してもらった、10年も前の古いアルバムだ。
お母さんも、あの場所のことはよく憶えていた。
そのときの写真を納めたアルバムの場所も、ちゃんと忘れずいてくれた。
「懐かしいね。星が憶えてるとは思わなかったけど」
押し入れにしまっていた段ボール箱の中には、いくつものアルバムが詰められていた。
ひっくり返されたその中から、お母さんが拾い上げた1冊のアルバム。
表紙は赤のチェック柄。1ページに1枚だけを挟むサイズだ。
「そういえば星は、空ばっかり見てたけど」
出て来たアルバムをわたしに手渡しながらお母さんはそう言った。
「本当はあの場所には、夜空だけを見に行ったわけじゃないのよ。そのことはもう、憶えてないかなあ」
くすくすと笑うお母さんに、わたしは首を傾げていた。
だって思い出せるのは綺麗な星空ばかりで、それ以外のことなんてまったく憶えていないから。
他に何かあったっけと、がんばって思い出そうとするけれど、やっぱりわたしには頭の上のきらきらの景色しか浮かんではこない。
「そのアルバム見たらわかるよ」
お母さんはそう言って教えてはくれないし。
わたしはアルバムを抱えて、うん、と曖昧に頷くしかなかった。
「それにしても突然そんなの見たいだなんて、なんかあるの?」
「……ん、別に、ちょっと思い出して。見てみたいなーって」
「そう……お母さんは、思い出を見せたい相手でもいるのかなあって思ったんだけど」
「……そういうわけじゃ、ないよ」
「ふうん、そう。まあ、満足いくようにやりなさいね」
意味深に言って、お母さんは散らかった段ボールのまわりを片付け始めるから。
母親ってもんは恐ろしいなあと、わたしはそっとその場を離れた。
だけどそのうち、紹介はしなきゃ。
わたしの大切な人へ。わたしの大切な人を。
今はまだ恥ずかしいけど、そのうちに。
実はまだわたしも、そのアルバムを見ていなかった。
ハナと一緒に見ようと思ったから、お母さんに渡されてそのままカバンに突っ込んできたのだ。
「小さい頃にね、お父さんとお母さんと一緒に、ここから車で1時間くらいのところにある丘陵地に遊びに行ったんだ。自然が売りの、それ以外本当に何にもないところでね。でも街の中で育ってるわたしには、ものすごく新鮮な場所だった」
確か、海も側にあった。
記憶の中では微かに、潮の香りも漂っていた。
夜だったから見えなかったけど、昼間ならその丘から、海も見えるとお父さんが言っていた。
昼なら星は出ていないから、もしも行った時間が違ったら、わたしは海に夢中になっていただろうか。
「そういえばあれって海のことだったのかなあ?」
「ん、なにが?」
「その場所ね、星がものすごくよく見えて、わたしもそのことばっかり憶えてたんだけど。お母さんがあの場所には、星だけを見に行ったわけじゃないって言ってたから」
「へえ、そうなんだ」
「あ、でもこの写真に写ってるって言ってたから、海じゃないのかなあ。見えなかったし」
「見てみようよ。俺も気になる」
「うん、そうだね」
ふたりの真ん中にくるように、それぞれの脚の上にアルバムを置いた。
表紙をめくった1ページ目。
同時に、感嘆の声を上げた。
「……わあ」
最初の写真は一面に、真っ白な星が散りばめられた夜空の写真だった。
小さな四角に切り取った、広大な夜空のたった一部。
だけど偉大な、空に透ける、遥かな宇宙。
「……すごいね」
「うん、すごい」
真っ暗だけど、真っ黒じゃない。
そんな夜空にいくつも開いた、いびつな大きさの光の穴。
この場所から見る夜空とは全然違った。
同じはずなのに、でも、違う。
とても暗いのに、とても明るくて、吸い込まれそうな、闇と光の夢の世界。