──いつからこんな風に?
知らない。どうでもいい。
──なんでこんなことに?
今さらわかるはずもない。
「……わたし、は」
ずっとひとつだと思っていた。
小さな世界ではそれだけがすべてだった。
小さな両の手のひらを、ぎゅっと握りしめてくれる温かなぬくもり。
絶対的に安心できる場所。
どんなときでも側に在る、たったひとつのかけがえのないもの。
大切な、家族。
「わたしは……お父さんとお母さんの、子どもでしょ」
ふたりが居たからわたしが居る。
ふたりが家族になったから、わたしはこうして生まれてきた。
ふたりの繋がりを、形にしたのがわたしなんだ。
……じゃあ、そうじゃなくなったら。
お父さんとお母さんが、バラバラになってしまったら。
わたしは。
「わたしは、何になるの」
もう、なんでもないよ。
何よりもそれが恐かった。
バラバラになることで、家族がひとつじゃなくなることで。
わたしの全部が嘘になってしまうということ。
ふたりの絆の証だったわたしが居れば、どうにか繋ぎとめていられると思っていた。
どんどん世界が汚れても。
なんにも見えなくなっても。
本当は、心のどこかで信じてた。
あのとき。みんなで手を繋いで見た星空みたいに。
真っ暗闇の中で、キラキラ輝く小さな光みたいに。
世界は必ず、明るく照らされるってことを。
『きれい、おほしさま』
『うん、星の名前とお揃いだ』
わたしとおんなじ名前の光。
わたしもいつか、あの光とおんなじように、キラキラと、真っ暗闇を照らせる光に。
なれるって、信じてた、けど。
だめだった。
わたしは、夜空の星みたいにはなれなかった。
わたしの世界は淀んだまま。
どんどんどんどん暗くなって。
たったひとりで、うずくまって。
それどころかもう。
もう、本当に。
ただの、要らない存在になってしまうことが。
何よりも、恐くて。
胸の奥で、何かが止まった気がした。
電源を切るみたいに、ブツンと、世界が、途端に、色を失くした。
「もう戻れないなら……言ってよ、ちゃんと。そんな風に怒鳴り合わなくてもいいから、もう、わたしに」
言葉を発するたびに震えが大きくなる。
冷えていた体中が、一気に、中心だけを残して、熱を、廻らせて。
「わたしにちゃんと言って! もう要らないんだって!!」
息が苦しい。
心臓が痛い。
吐いてしまいたい。
大声で泣きたい。
「邪魔ならそう言ってよ。わたしが居ない方が好きに生きられるって。そうなんでしょ、そうしたら今みたいに怒鳴り合わなくて済むんでしょ。いいんだよ、だって、どっちにしろ、お父さんとお母さんが離れちゃったら、わたし……」
目を、見た。ふたりの目。
何を思っているのかは、わからなかった。
「わたしには、何の意味もないよ」
持っていたものを、すべて割れた破片の上に落とした。
カバンも、ケーキが3つ入った箱も。
それがどうなったかなんて見ないまま、走って玄関を飛び出した。
「星っ!!」
声が聞こえたけど振り向かなかった。止まりもしなかった。
何もかもをからっぽにして、どこかに向かって、走っていた。
どこか、遠いところへ行きたかった。
走って、走って、どこまでも、ここじゃないどこかへ。
もっと遠くまで行きたくて、小さなバイクを買った。
でも、それでも、ここを離れることはできなかった。
わたしはどこへも行けなかった。
汚れきったこの場所から、出られないまま、真っ暗闇に閉ざされた。
暗いのは嫌だ。
ひとりは嫌だ。
本当は、わたしは、誰よりも愛されたくて。
大好きな人たちと、もう一度。
あの景色が、見たくて。
◇
胸に手を当てると、心臓の鼓動が直接手のひらに打ちつけてきた。
血液の押される音が、耳のすぐ横で聞こえている。
大きく息を吸って、吐いた。
それだけじゃ足りなくて、何度もそれを繰り返した。
頬を拭った。でも渇いていた。
熱のある咳を吐き出しながら、止まっていた足をゆっくりと進める。
石畳の広場から、短く生えそろった芝生へ。
夜の静かな冷えた空気に、くしゃりと芝を踏む音が、微かに響いて消えていく。
なんで、と、思った。
夜も更けた、真っ暗な外。
少ない星の下、照らすのは、少ない街灯だけの中。
「……ハナ?」
なんでここに、きみが居るの。
空を見上げていたハナは、わたしの声に、ゆっくりと視線を下げた。
「……セイちゃん」
ハナも驚いているみたいだった。
わたしが今、この場所に居ることに。
「なんで……ハナ、まだここに、居るの」
「セイちゃんこそ、どうしたの」
わたしは。
と、言いかけて、言葉が、出なかった。
ハナがしくしくと草を踏んで丘を下りてくる。
立ち竦んだわたしの前に来て、右手で、頬を包んで。
「どうしたの」
もう一度、そう訊いた。
「……っ……!」
二度目の問い掛けにも答えることができなかった。
喉の奥が詰まって、息も出来なくて。
体の中心から、何かが、込み上げてくる。
「セイちゃん」
ふわりと温かな温度に、夜の冷たい風が遮られた。
少しだけ苦しい。でも、とても、安心する。
「ねえ、セイちゃん」
きみの肩越しに見える景色、それは、綺麗ではない星空で。
「泣きたい?」
いつか聞いた言葉だった。
あのときわたしは、泣きたくないと、答えた。
泣いてしまえば、今まで心の奥にしまっていたものすべてが、涙と一緒に溢れてしまいそうな気がして。
泣きたくは、なかったんだ。
「……泣き、たい」
わたしを包んでいたハナの腕に、ぎゅっと力がこもった。
真っ黒に汚れた世界から、わたしを隠すみたいに。
ハナの匂いがした。
ふんわり甘い匂い。
柔らかな髪の毛が鼻の先をくすぐる。
わたしのおでこに触れた頬は、少しだけ、冷えていた。
「いいよ、セイちゃん」
耳元で、声がした。
じわじわと湧き上がってくる熱い感覚。
唇が震える。
背中に回した腕で、ハナのカーディガンを握り締める。
「……っ……ぅ……」
為す術はない。
何も見えないこんな世界で、ただひとつ色を持つ場所が、この、きみの側なんだから。
わたしにはもうどうしようもない。
この涙を止められない。
喉を擦り切る大きな声も、きみの背中を逃がさない腕も、零れ出た、いろんな思い出や感情も。
わたしにはどうしようもないのに、こんなにも、溢れてしまって。
「もうっ……いやだ……!!」
止まらないよ。
だって、ずっと、本当は、こうやって。
「わたしなんか……消えちゃえばいい!!」
ずっとずっと、叫びたかったんだ。
なんで、わたしはここに居るんだろう。
なんのために居るんだろう。
どこかに意味なんてあるのかな。
世界がつくった意味がどこかに。
だけどそんなのわからなかった。
知る必要すら本当はなかった。
だってわたしにとっての意味は、ちゃんといつだって側に在ったから。
いつも隣に居る人。
笑ってくれる人。
手を繋いでくれる人。
どこまでも、一緒に歩いてくれる人。
大切な人がいた。
大好きな人がいた。
家族が、いた。
それが、わたしがわたしに見つけた、たったひとつの意味だった。
「……もう……こんなところになんか」
わたしがここに居る理由。
愛してくれる人の手のひらの温度が、それの、確かな形だったのに。
「こんなところになんか、居たく、ないよ」
全部無くなって、わたしの世界は、真っ黒に汚れた。
星のひとつも見えない場所の、どこで、わたしは、立っていればいいの。
もう、わかんないんだ。
「……っ……」
唇を強く噛み締めた。
しょっぱい味と、苦い鉄の味がした。
遠くで電車の音が聞こえる。
線路を走る車輪の音。
ゆっくりと止まって、また、軋みながら、動き出す。
「……なら、セイちゃん」
体から離れた温もりが、代わりに手のひらを握り締める。
「俺と一緒に、誰も知らない場所へ行こうか」
顔を上げた。
涙が流れた後の晴れた視界に、ハナの表情が映っていた。
「きみが望むのなら連れて行ってあげる。全部捨てて、俺たちだけで、他の誰も、居ないところへ」
──何も、答えられなかったのは、ハナが本気で言ってくれているからだった。
わたしを慰めるために、いつものおどけた調子で言っているわけじゃない。
真っ直ぐに向けられた目。
きつく握られた手。
それから伝わる、ハナの思い。
子どもみたいな夢物語だ。
ふたりで、誰も知らない場所になんて行けるはずもない。
そんな場所はどこにもないし、わたしたちは決められた小さな世界でしか生きられない。
でも、もしも。わたしが今頷いたなら、ハナは必ず連れて行ってくれる。
ここじゃないどこかへ。誰も居ないところへ。
この手を取って、ふたりで。
行けるはずもないのに。そんなことはわかっているのに。
でもハナは、必ず。
だからこそ、わたしは──
「……答えられないでしょう」
ふわりと、ハナの顔が緩んだ。
星のない空の下、公園の街灯が柔らかな表情を浮かばせる。
「答えられないのが答えだって、自分でわかってる?」
「……わたし、は」
「消えたいとか、居なくなりたいとか、その気持ち嘘じゃないかもしれないけど。捨てたくはない大事なものも、セイちゃんにはきっと、たくさんあるんでしょう」
コロン、と、胸の中で何かが転がり落ちた気がした。
──そっか、これだったんだ。
この思い。
すごく苦しいのも、嫌なのも、どんどん目の前が淀んでいくのも。
はやくこの場所から逃げたいのに、どこにも行けないからじゃなかった。
本当は、ずっと、大切なときの形のままで、大切にし続けていきたかった。
わたしの世界。
好きな人が側に居て、他に、何も、なくていいから、ただ笑っていられる毎日を。
これからもこうして、繋げていきたかっただけだった。
「……ハナ……」
「ん?」
「わたし……ここに、居たいよ。みんなで、一緒に……!」
「うん」
ハナのおでこが、こつんとわたしのおでこに触れる。
距離の無い距離。
伝えられない心の声を、伝え合うための違う温度。
「居ていいんだよ、セイちゃん」
そう、ずっと。
それが、聞きたかったんだ。