ハナが、パタンとノートを閉じて大事そうにバッグにしまった。
「俺に付いてきて欲しくはないみたいだから、一緒に帰るのはやめておこう。っていうつもりで書いたんだって解釈して、今日もそうしたんだけど」
ゆっくりとわたしと目を合わせるハナは、珍しくムスッとした顔をしている。
怖くはないけれど、普段そういう顔をしない分、見ると少しどきっとする。
顔が自然と引きつるのは、仕方のないことだと思う。
「でも家が遠いならやっぱり危ないし、今日は送っていくよ。もうこんなに暗いしね」
「いや、あの、でも、本当に大丈夫だから。ひとりで帰りたいっていうの、合ってるし……」
「それは俺を納得させられるだけの理由なわけ?」
「う……えっと……」
知らず知らず俯いてしまう。
正面で組んだ手で、スカートを、きゅっと握る。
「ハナに……来てほしくなかったから。わたしの場所に。ハナとは、違う。だから……」
それはとても説明なんて言えるものじゃなかった。
あやふやで、不明瞭で。だって言葉にするのは、難しすぎて。
それでも。ハナは受け取ってくれる。それでいて。
「俺は、気にしないよ」
「わたしが気にするの! 絶対に、ハナには……」
言葉が詰まった。
しばらく、しんと静まり返って、それからすぐ脇を車が通り過ぎていったのを合図にしたみたいに、ハナが小さく息を吐いた。
「……わかった。ごめん。セイちゃんが嫌なら無理は言わない」
「うん……わたしも、ごめん。ありがと」
のそりと顔を上げると、ハナはふわりとした顔で笑った。
わたしは上手く笑えなかったけれど、もう、下は向かなかった。
「じゃあ、送ってく代わりに」
ハナが、パッと両腕を広げた。
またきょとんとして、ぽーっと立ち尽くしているわたしに、ハナはひとつ微笑んで、それから。
「…………」
声をあげる暇すらなかった。
気付いたときには腕の中。
ぎゅっと包まれた状態で、こめかみのあたりを、ふわふわの毛がくすぐっている。
ハナの温度と柔らかな匂いが、どこよりも近くでわたしに伝わる。
「……なっ……」
なんで、なにが、どうなってる。
叫び出しそうで、でも、声が、出ない。
「な、なに……」
「セイちゃんがきちんと家に帰れるおまじない」
どうにか絞り出した声。裏腹に、ハナの返事は、いつもどおりの声だった。
「こ、こんなことされたら、余計にきちんと帰れない……!」
「そう?」
あたりまえ。体中がふっとうしそうなのに。
全身の熱がぐるぐる回って、顔なんて真っ赤に決まってる。
心臓がバクバク音を立てて、夜空の向こうまで、届いてしまいそうで。
こんなに近かったらハナにだって聞こえちゃう。
こんな、こんなに近くに、きみが、いるせいで。
「あとね、セイちゃんがもう、ひとりで膝を抱えないように」
ハナの腕が解かれていく。
少しだけ開いた距離。
でもまだすぐ側にいるきみ。
わたしはすごく変な顔をしていたに違いない。
真っ赤で、狐につままれたみたいな、自分でなんて到底見られないような顔。
それなのにハナは、やっぱり綺麗に、わたしとは全然違う顔で、わたしを見るんだ。
「セイちゃん。泣きたいときも、泣きたくないときも、きみがひとりなら、そのときは迷わず、俺のところへおいで」
ハナはそっと目を細めて、それからわたしの両手を握り、ちゅ、とおでこにキスをした。
「俺が側に居てあげる」
ゆっくりと離れる手。
わたしは小さく頷いて、一歩、後ろに下がった。
ハナは微笑んだまま「気を付けて」と言って、わたしはそれにまた頷いて、踵を返した。
背中を向けるのは、いつもわたしからだ。
一度だけ途中で振り返ったことがあるけれど、わたしが遠くまで行っても、まだハナは見送ってくれていた。
思えば、ずっと見ていてくれるのも、早く帰そうとするのも、わたしをひとりで帰らせることに対する、ハナの精一杯の心配りだったのかもしれない。
今日は振り返らなかった。
息が切れて足がもつれそうになるまで、ずっと走って帰った。
しばらくしたら自然に足が止まって、それからはゆっくりと歩いたけれど、体力が戻っても、夜風で冷まされても、いつまで経っても、体は熱いままで、心臓の音は、世界中に響き渡りそうだった。
ポケットに入れていた携帯がブルブルッと震える。
取り出してみると、最近アドレスを交換した三浦さんからメールが届いたところだった。
『マイ原付ゲットしました』
たくさんの可愛い絵文字と一緒に送られてきたのはその一文と、1枚の写メ。
深いグリーンの色をしたスクーターが写っている。
三浦さんが原付の免許を取ったのは先週のことだ。
テスト週間最終日で、午前中で学校が終わった後に取りに行ってきたらしい。
おかげで免許取得のための勉強しかしなかったから、学校のほうのテストは笑えない結果だったと笑いながら言っていた。
わたしは立ち止まって、すぐ脇にあったお店のショーウィンドウの隅にもたれながら返事を打つ。
『その色にしたんだね。三浦さんに合ってると思う』
三浦さんと違って絵文字を上手く使いこなせないわたしのメールはなんとも素っ気ない。
どうにか最後に笑顔マークとバイクの絵を付けて、送信ボタンをポンと押した。
それからもう一度、三浦さんからのメールを開いて写真を見てみる。
免許を取る前から、ふたりで相談しながら決めた車種。
使い勝手がいいスクータータイプ、それから何よりオシャレさを重視してこれを選んだ。
だけど最後まで悩んでいたのが車体のカラー。
気に入ったのはレッド、アイボリー、グリーンの3色で、それから三浦さんはたったひとつをなかなか決められずにいた。
そして彼女が選んだのは、わたしも同じくこれが一番だと思った色。
パッと見た印象では、鮮やかな赤や優しいアイボリーのほうが彼女には合ってるようにも見えた。
だけど、明るいだけじゃない三浦さんの人柄の朗らかさには、やっぱりこれが、一番似合う。
携帯をしまってまた歩きだす。人の波の中へ、逆らわずに乗っていく。
土曜日の駅前の大通りはいつにも増した賑わいで、よそ見をしているとすぐに誰かとぶつかってしまいそうになった。
誰もが、お洒落が売りの商店街でお買い物を楽しみ中で、ショーウィンドウに並ぶマネキンや小物を足を止めつつ眺めている。
その中に紛れて、ときどき隙間をぬって、わたしはなるべく道の端っこを歩きながら、早く公園へ続く小路へ抜けたいと少し早足になって進んでいた。
今日は、どれくらい待つだろうかと。
無意識に足を動かしながら、そんなことを考える。
まともに会う約束すらしていないわたしたちが、集まる時間なんて決めているわけもない。
学校帰りと決まっている平日はともかくとしても、1日中という長い時間がある休みの日には、ハナが来るまで随分と待たされることも多かった。
もちろん、逆に待たせてしまうこともあったから文句を言ったことはない。
それに、わたしはハナを待っているひとりの時間も、実はけっこう好きだった。
人混みの中、ようやく辿り着いたいつもの小路への曲がり角。
そこを行こうとしたところで、ふいに。
「セイちゃん」
わたしを呼ぶ声が聞こえた。
聞き慣れたような、聞き慣れないような。よく聞いているものに似ているけれど、それよりも少し低い声。
振り返ると、ハナのお兄さんがそこに居た。
向こうも、ここでわたしと会ったことに驚いているみたいで少し目を見開いていたけれど、そのうちふわりと、ハナに似た柔らかい笑顔を見せた。
駅のすぐ近くにあるオシャレなカフェのテラス席。
ここのお店のことは前から知っていたけれど、OLさんや大学生のお客さんばかりで、高校生のわたしが入るのはちょっと気が引けて今まで来たことはなかった。
「おごるよ。好きなもの注文して」
「じゃあ……ミルクティーを、お願いします」
「それだけでいいの? ケーキもあるよ」
「大丈夫、です」
斜め前に座るハナのお兄さんを、上目で覗きながら答える。
お兄さんはふっと微笑んで、わたしのミルクティーと自分用のカプチーノ、それからミルフィーユをふたつ頼んだ。
お兄さんは、通っている大学へ行く途中だったらしい。
偶然わたしを見かけて(向こうは写真で何度もわたしを見ていて、顔はばっちり憶えていたとのこと)つい名前を呼んだみたいだった。
『ちょっと、話せる?』
ここでお兄さんに会ったこともそうだけど、そう言われたこともわたしには思いがけなくて、驚いた。
一瞬、公園に居るかもしれないハナのことを考えたけど、誘いを断ることもできずに、お兄さんとふたりで近くのこのカフェに入った。
「ハナに会いに行くところだった?」
注文が届くまでの間、手持無沙汰で道を行く人の流れを見ていたとき、お兄さんにそう訊かれた。
一応こくりと頷いたけれど、お兄さんも本当は訊くまでもなく、その答えはわかっていたみたいだ。
「ハナのことは気にしなくていいよ。あいつ、今日は公園に行くの結構遅いだろうから」
「……なにかあるんですか?」
「ん、病院。月イチでね、定期的に行ってんの」
お兄さんは人差し指でこつこつと自分のこめかみをつつくと、少しだけ、眉を下げた。
微笑んではいたけれど、楽しそうな顔には見えなかった。
「セイちゃんは、ハナの怪我のこと、知ってる?」
ちょうど、注文した品が届いた。お兄さんは頼んだミルフィーユのひとつを、わたしにくれる。
「はい。記憶が1日しかもたないことなら、ハナから聞きました。それが事故の怪我によるものだってことは、ハナのことを知っていた、わたしの友達から」
「そう。今日もね、それで病院行ってんだ。って言っても検査結果なんて毎回同じで、ただ先生とおしゃべりしに行ってるようなものなんだけどね。ハナにとってはさ、いつだってはじめましてなのに、なんでか仲良いんだよあのふたり」
お兄さんがカプチーノに口を付けたから、わたしも倣ってミルクティーを少し飲んだ。
温かい、とは、感じた。味なんて、わからなかった。
胸の奥が、ゆっくりと鼓動を強めていく。
……つまり、治る見込みがないってことだ。
検査結果は同じ。変わらない。いつまでも、ハナの持つ記憶の障害は、このまま。
「…………」
お兄さんは、わたしが考えたことに気付いたみたいだった。
でも何も言わなかったし、わたしも、口に出しはしなかった。
「食べていいよ?」
お兄さんが、まだ来たときのままのわたしのミルフィーユを目で示す。
「ありがとうございます」
とわたしは答えて、そっと、三角の先端のところにフォークを刺した。
オープンテラスに座っていたのはわたしたちの他に一組だけ。
それでも、テラスの前の大通りはますます賑わいを増していて、静かとは程遠い騒々しさの中にいた。
だけどたったひとり、ハナのお兄さんだけは、不思議ととても静かな空気の中に佇んでいるような感じがした。
同じ場所に居て、でも、彼だけが違うところに居るような。
──ハナと同じだと思った。
ハナと同じで、どんなところに居たって自分の世界をつくれる人。
反発するんじゃなく馴染ませるようにじわじわと。世界の中に自分の小さな世界をつくる。
それから、それを人に伝染できる人。
「ハナが、」
ふいにお兄さんが口を開いた。
無意識にじっと見つめていたせいでちょっとびっくりしたけれど、お兄さんが通りを眺めていたおかげで、それが知られなかったのは幸いだ。
お兄さんはそのまま、わたしを見ないままで、続ける。
「ハナが最近、きみのことをよく話すんだ」
わたしに目を向けたその動作は、ほんのわずかな動きだった。
でもとてもゆっくり、はっきりと、わたしの目には映る。
「楽しそうに、まるでちっちゃい子どもみたいにね、俺にきみのことを話してくれるんだよ」
向き合ったその視線が、あまりにも温かく、あまりにも、そっくりだったから。
会いたいなあ、なんて、唐突に、無性に思う。
「ハナはきっと、きみのことがすごく好きなんだろうね」
優しい声だった。
じわじわと体の奥が熱くなる。
それでいて泣きたくなる。
「あいつの側に居てくれてありがとう」
わたしの顔は、たぶん、真っ赤だったに違いない。
その反応だけでわたしのハナに対する思いの全部が、知られてしまいそうなくらいに。
とてもじゃないけどもう、目なんて合わせられなかった。
それでもお兄さんが微笑んでいるんだということは、見なくても、わかった。
側に居てくれてありがとう。
それは、わたしが受け取るべき言葉じゃない。
ありがとう。
そんなことを言いたいのは、本当はわたしの方なんだ。
くだらないことばかり考えて、何も見ないで、何も聞かないで、どんどん淀んだわたしの世界が、きみに見つけられたあの日。
ほんの僅かかもしれない。気休めかもしれない。何も変わっていないかもしれない。でも、確かに。
確かにきみの側に居るときだけは、わたしの見る景色は、きみの居る世界と同じに、あんなにも、綺麗に。
カシン、と小さな音を立てて、お兄さんのフォークがお皿に乗った。
ミルフィーユはまだ、半分くらい残っている。
「きみとならあいつは、ひとりにならないで済むのかな」
「え?」
つい、顔を上げてしまった。
恥ずかしさのあまり勢いで食べていたミルフィーユの、最後の一口を飲み込んだところだった。
お兄さんはやっぱり、わたしをじっと見つめていて。
「セイちゃん、もしもきみがよければ……きみの気の済むまででいいから、ハナの側に居てやって」
くしゃりと、笑う。
笑いながらも、どうしてか、今にも泣きそうにも見える顔。
でも、決して泣かない顔。
「…………」
少し、違和感があった。違和感、というか、疑問、というか。
ハナにはわたしが必要なんだって、お兄さんは言っているみたいに感じる。
わたしが居なければハナはひとりきりなんだって。
でもそんなことはない。逆なんだ。
きっとわたしたちが一緒に居るのは、わたしがハナを必要としているから。
すごく身勝手なことかもしれないけれど、わたしが自分のために、ハナと居たくて、ハナと居る。
だからハナがわたしの側に居てくれている。わたしがひとりにならないようにと。
ただそれだけ。ハナはわたしが居なくても、いつもの、あの、ハナで居られる。
それにハナはいつだって、孤独ではないはずなんだ。
だって、ハナには。