少女は話しかけるんじゃなかったと思いながら、無意識に一歩下がっていた。

「…あら…また小さな女の子を誘拐して、ここに連れてきたの?」

何故か少女を下から上へ嘗めるように見た女は、後ろにいた男に気付き、話しかけた。

「違いますぅー!!ここに一人でいたから話しかけただけですぅー」

親しそうに話している二人を見て、少女は疑問よりも、悪寒を感じた。

…逃げなければ、もう一生、兄さんに会えないかもしれない…。

嫌だ、そんなのは嫌だ…そう思いながら、少女は唇を噛み締めた。

喧嘩したままもう会えないなんて…嫌だよ…。



少女と少女の兄が喧嘩したのには、訳があった。

今は9月、少女は中学一年生、少女の兄は高校一年生だ。

両親は、五ヶ月程前に、交通事故で亡くなった。

少女の兄が、バイトと学校と家事で毎日が忙しかったある日。

保護者会の出席と欠席のどちらかに丸をし、保護者の名前を書いて提出しなければいけなくなった。


家庭の事情を、学校は知らない。


それは仕方のない事だったが、少女は毎日忙しくて疲れている兄を、困らせたくなかった。

だから“隠した”のだ。

こんな紙切れ一枚で、兄さんが悩む必要なんてない。

そう思ったからこそ、兄を大事に思ったからこそ、少女は隠した。

しかし、毎日確認している連絡帳に、先生が赤ペンで書いていた。

少女にとって、余計なことを…と思わずにいられない内容を。

『保護者会のプリントを提出してください。期限が迫っています。』

連絡帳を、こんなノートを、こんなに恨む日が来るとは思わなかった。

少女は真面目にそう思ってしまった。

それを読んで、少女の兄が「………これ、どういうこと」と言ったのが、喧嘩の始まりだった。

少女は自分の思いを打ち明けたが、その言葉が少女の兄の逆鱗に触れた。

口論は続き、最終的には少女が家を飛び出したのが、少し前のことだ。



続きます

また、ただただ我武者羅に、少女は走った。

少女は学年で一番速いから、足には自信があった。

「あ、おい、待てよ!!」

それまでは少女達三人をチラチラ見ては立ち去っていく周りの人達。

しかし、立ち止まって何事だ?と逃げていく少女と追いかける男と別方向へ歩き出す女を見る者が続出した。

人の多い大通り、太陽ももう眠っているネオンの輝く夜の街。

今宵は新月だろうか。

しかし、本当に細い、月らしきものが、空にはあった。

だが、少女にそれを見る余裕はなかった。



急に後ろから腕を掴まれた。

「…やっ‼離してっ!!」

まさか追いつかれたのかと背筋が冷えた。

腕を振り回し、足で体で、前へ前へと逃げようと抵抗を試みた。

しかし突然名前を呼ばれ、その声も聞き覚えのあるものだったことから、抵抗をやめた。

少女は後ろを振り向くと、そこには数十分前に喧嘩した相手がいた。

そしてその後ろに、あの男がいないことを確かめて、漸く撒けたのだと安堵した。

だが、今向き合っているのは喧嘩したきりの自身の兄である。

本当はとても長い間離れていた気がしたし、怖い思いもした。

思いっきり抱き着いて、抱き締めてもらいたかった。

しかし、今の自分の年を考えると恥ずかしくて出来ないし、何より喧嘩したきりなのを考えると、無理だった。

兄に腕を掴まれたままの状態で、その場を沈黙が支配した。

「………悪かった」

少しの沈黙を破った兄は、目を泳がせていた。

必死に言葉を探しているのが、少女には分かった。

「…プリント!!…帰ったら、渡すね…」

最初は強めに言った言葉も、途中から小さくなり、語尾は蚊の鳴くような声で言った。

「…あぁ、帰ろう」

二人は家へ帰るために、並んで歩いて行った。

探してくれたのと、走っていたのにあたしだと気付いて、迷わず腕を掴んでくれた。


それでいい…それだけで、十分だ…。

それだけでも、嬉しかったんだ―――






【 先輩と後輩編 】


――遠い背中を、見つめ続けても




何も変わらないと、わかってたの――




『独占力』


見つめるだけなら…想うだけなら、自由でしょう?

だからずっと、見つめていたけれど…ただ、虚しいだけだった。



クラスメイトの女子を迎えに来た、私の好きな人。

その子の名前を優しく呼んで、優しく微笑んだ先輩。


私の名前を呼んでほしい…私に優しく微笑んでほしい…。


何度も思った、叶うはずのないこの願い。

先輩の想いは、全てあの人に伝えられている。

…私にも、あの想いをぶつけてほしい。

何度…何度、叶うはずのないことを願っただろう。



先輩があの子以外の誰かに優しく接していたところを、私は偶然見てしまった。

見た瞬間に胸の奥から湧き出た黒い感情に、私の顔は険しくなっているだろう。

しかし、少し遠いところで同じように見ているクラスメイトを見つけた瞬間、思わず“良い気味だ”と思ってしまった。

いつも優しくて、あまり怒らないあの子の新しい一面を見ることができそうで、嬉しいとまで思っていた。

誰だって、強い独占力を持っている。

だから、嫉妬で歪む顔を見る事ができるかもしれないと、自分の黒い感情を忘れ、ワクワクしてしまった。

しかし、そんな私の期待を、あの子は簡単に裏切ってみせた。


あの子は悲しそうに、穏やかに微笑むだけだったんだ。


瞬間、訪れた虚無感。

どうすればいいのかわからない、この虚無感。

あの子に抱いた、この負の感情。

私はなんて…なんて、醜いのだろうか。

もう嫉妬などの想いは嫌だ…この虚無感から、抜け出したい。


この独占力、嫉妬の想いを、抑える方法はありませんか。


そう思ってしまった私はやっぱり、結局は先輩を好きでいたかったのだろう。

無くす、ではなくて、抑える、だったんだから。



いつものこと…家に帰ってすぐ、切なく嗚咽を漏らすのも。

そう、いつものこと…虚無感に苛まれるのも、涙で枕を濡らすのも。



助けてと、何度願っただろう―――




『卒業式』

校門の前に、看板が置いてあった。

どことなく哀愁を漂わせているのは、学校全体か、それとも…。



朝の10時、看板の上にポツポツ降ってくる水。

「…ぁ」

女はその光景を見て、反射的に呟いた。

幸い、卒業生が入場してきたところなので、その呟きは音楽と拍手に掻き消された。

(雨が…先輩の、卒業式なのに…)

拍手の手を止めず、卒業生の列に体を向けている女。

その女が視線だけ上にあげ、降り始めた雨を見つめていたなど、いったい誰が気付こうか。

そして眉を下げて悲しそうな顔をしているなど、誰が気付こうか。

女の憂いを帯びた瞳には、いったい“なに”が映っているのだろうか。

それはきっと、女にしか分からない…。



「三組の入場です」

その言葉に女はハッとして、卒業生が入ってくる入り口に目を向けた。

瞳だけが忙しなく動き、そして最後には、一人に向けられた。

悲しそうな顔は、一転して笑顔に変わった。



卒業式が終わった後の高校の正門前。

花を持った卒業生の男と、在校生の女が二人でいた。

「先に行って、待ってるから」

すぐに高校の事だと、女は気付いた。

「これ…うちの学校は、第二ボタンとか駄目だからね…」

渡されたのは、ハンカチだった。

(知ってる…これ、先輩のお気に入りの…)

「…あり、がとう…ござっいますっ…‼」

何故かは分からない。


“想い”が…“涙”が、溢れて止まらなかった―――






【 その他 】


――好きになっても、言えない




けれど、ふとした時に口が動いて――




『生涯の伴侶』

朝の7時、あたしは今日も、貴方に会う為に学校へ行く。



「ばーか、それはyだよ。xは…」

チャイムと共に、あたしと彼の机を向かい合わせにする。

英語の授業の後の休み時間なら英語の予習をするように、今は数学の予習をしていた。

「お前、xとyを逆に覚えてたら、高校受験受かんねーぞ?」

悪戯っぽく笑う彼に、薄紅色になった頬を隠すように机に突っ伏した。

「うぅー…数学だけじゃなくて英語も絶対無理だよぉ」

「お前さ…ローマ字も打てないよな」

一瞬だけ自分の体が大きく震えたことが分かった。

「ひ、人には誰だって苦手な物があるの!!」

完璧な人なんていない、と言いかけてやめた。

…いるじゃないか、目の前に。

料理以外は何でも出来る、完璧な人が。

「確かに俺も…料理は無理だな…」

あたしの大好きな彼は、苦笑しながら言った。

「………そだね…」

「おい!!ちょっとくらいフォローしろよ!!」

一瞬なにかを考え込んだあたしは、瞳に憂いを宿していた。

彼の「おい!!」にハッとした時には、チャイムが鳴っていた。



国語の後の休み時間、つまり今は国語の予習の時間。

「…あれ?ひとみってどう書くんだったっけ?」

「え、なにいきなり?目の横に児童の童だよ?」

「あぁ、そっか!!あんま使わないとすぐ忘れるんだよなぁ」

彼の言うことは尤もなことだった。

使わないと誰だってすぐに忘れてしまう。

ずっと会っていなければ、その人の事も…じゃぁいつか、あたしの事も…?



続きます

あたしは、自分でも知らず知らずのうちに呟いていた。

「ずっと傍で、料理を作りたい…ずっと、勉強を教えて欲しいよ…」

目を見開いた彼の表情を見て、あたしはハッとした。

頬が一気に染まっていく…鮮やかな紅色に。

そしてまるで狙ったかのようなタイミングで、チャイムが鳴った。



次の授業が終わっても給食の時間だから予習はしないし、班の当番は配膳である。

これなら、意識すれば今日は関わらずに済む。

幸い四時間授業なので、学活が終われば走って帰ればいい。



そして給食が終わり、学活も終わったその時だった。

「さようなら」の掛け声と共に、教室を飛び出そうとした。

そう、飛び出そうとしたあたしの腕を、彼は掴んだ。

周りに学校の生徒どころか近所の方々、つまり人が誰もいない状況。

二人きりになってしまい、しかも腕を掴まれたまま…。

逃げることは出来ない。

なんせ、相手は男である。

女の自分が、男に力で勝てるはずがない、身長差だってあるのだ。

「………あ、の…」

恐る恐る彼の背中に声をかけてみたら、彼は体の向きを180度変え、自分と向き合う。

そこから出てきた言葉は、思いもよらない言葉だった。

真剣な表情をしながら、あたしに向かって言った。


「好きだ」


今度はあたしが、目を見開く番だった。

彼はあたしをからかってるのだろうか。

そんな疑問が心の中に生じた。


「君の人生を、俺にください」


中学3年生にして、生涯を誓い合った二人だった。

この二人に、神の御加護が有らんことを―――




『引っ越し』

少女は両手に荷物を持って、横断歩道の前に佇んでいた。

「お、重い…いや、早く帰ってご飯作らないと!!」



少女の母は仕事先で怪我をした。

箱を抱えて階段を下りていた少女の母。

その後ろに、箱を抱えずに蹴って運んでいる男の人がいた。

少女の母を避けるように方向転換を試みた男の人。

しかし、階段で落ちたその箱の行き先には…少女の母がいた。

少女の母の体、悪く言えば「いつ死ぬか分からない」だが、軽く言えば「別にどこも悪くない」である。

自分の家族を心配する者が、「別にどこも悪くない」と思えるだろうか。

答えは「思えない」だ。

それに少女の母は今、右腕が使えない。

その“事実”が有る限り、少女の家族(少女と少女の母以外には父だけだが)は全員「いつ死ぬか分からない」の方の考えなのである。

なので、少女は母親の身を案じていた。


「あ、青になった…」

ふぅ…と息を吐いて、少女は歩き始めた。

横断歩道を過ぎた時だった。

右手にあった荷物(エコバック三つ)の重さが消えたのだ。

少女は思わず右を見た。

柔らかく微笑んだ少年に、少女は目を奪われた。

「少しは軽くなった?」

微笑んだままそういう少年に、少女は「は、はい!!」と言った。

心の中では、少し軽くなったどころかかなり軽くなったよと呟いていたが、少年にそれを言う勇気を少女は持ち合わせていない。

家に着くまでの会話は、少年の道を聞く質問に「右に曲がります」などと答えるだけだった。



「あれ、ここなんだ」

「へ?あ、はい」

いきなり話しかけられて驚いたのか、声が裏返った少女に少年は言った。

「実は昨日、ほら、見えるよね?あそこに引っ越してきたんだ。あ、お袋がいる。ごめん、ここに置いておくよ」

そして少年は自らの家族の元へ駆けていった。



「……そっか、また…会えるんだ…」

薄く浮かんだ笑顔と、頬に浮かんだ桃色。

今日も太陽は沈んで行きます―――