僕は、前にもお話したように、数年前まで美大生でした。自分に絵の才能があるとはあまり思っていませんでしたが、描くことで生活できるようになれたらいいと思って、いつもこの海岸に来て、海や砂浜、遊ぶ子供たちをスケッチしていました。


当時の僕には、彼女がいました。名前は、ユリといいました。彼女はある女子大の文学部に通っていて、フランス語を習っていたせいか、友人たちからはブランシェと呼ばれていました。これはなかなかのネーミングだったと思います。彼女は実際、抜けるように白い肌をしていましたから。


ユリの両親は離婚していて、彼女は母親に育てられました。そして、母親の再婚相手というのがひどい男で、母親の見ていないところでユリに暴力を振るいました。裕福な男だったらしく、ユリもお嬢様として私立の女子大に通っていたのですが、そのことで恩を着せられていて、殴られても何も言えず、ただ耐えていたと聞きました。やがて母親が亡くなると、その義理の父親は、ユリを自分のものにしました。僕がユリと出会ったのはちょうどその頃で、彼女は暗く全てを諦めきったような顔をして、生傷の絶えない足や腕を、夏でも長い袖の洋服で隠していました。


ユリは、この海岸で遠くを眺めて、こういう岩場に座っていました。手には、読みさしの聖書を持っていました。僕が初めてユリを見かけたとき、彼女の境遇を何も知らなかったにも関わらず、彼女の二つの黒い瞳は、冷えきった御影石でできた墓石のようだと思いました。Yさんが買ってくださった僕の絵、あれはその頃描いた、僕の部屋から一望できる墓地なのですが、当時の僕は、希望通りの就職先が決まらず、かといって絵も売れず、とても憂鬱な気分に悩まされていて、死が頭をよぎることもありました。そうした心境だったので、僕は聖書を読む、死者のような彼女のたたずまいにひかれたのだと思います。



僕はユリにモデルになってくれるように頼み、それからすぐに親しくなりました。お互いが発する墓場の匂いが、仲を取り持ってくれたかのようでした。そして、ユリは徐々に自分の境遇、特に義父との暴力を伴った後ろめたい関係を話してくれました。涙をこぼしながら語る彼女の肩を抱き、僕はありったけの力で抱き締めました。そして、白状すると、正義感というのでしょうか、激しく燃え立つような、しかしその影にある種の英雄気取り、または自分はもっとましな人間だといううぬぼれを隠した感情が、めらめらと燃え立ったのです。僕は彼女の手を取り、


「君を幸せにする人間はここにいるよ。僕のところにおいで」


と、ゆっくり諭すような調子で言いました。すると、彼女はちょっと考えてから、ためらいがちに呟きました。


「でも」


あの、迷うような視線、男の胸に抱かれる猫のような、小さく震える肩。


「私が出ていったら、あの人はどうするの」


「何だって?」


僕は思わず声を荒らげました。


「君はこんなにされてまで、その男をかばうのかい。そんなやつ、見限ってしまえばいい。君はもっと大切にされるべきだし、それは僕にしかできない」


僕は自分の言葉に酔っていたと思います。そこに水を差されるような発言をされたことに、怒りを感じたのです。


「だって……私が悪いから、こうなったのだし……」


「君は悪くないよ。いいから僕のところへおいで。僕なら君を殴ったりしない。君はもう、傷を長袖やズボンで隠さなくていいんだよ」



そうして、僕は強引に彼女の家に行き、義父が留守の間に荷物をまとめさせて、僕の安アパートで一緒に暮らすことにしました。