「どうしてって、普通そうだろ」
『そうなんだ』
「よく分からないって顔してるな」
『わかんない』
「なにが分からないんだ?」
『ふつうがよく分かんない。ふつうってなに?』

 何を基準に普通と言えるの?
 普通なんて、誰かが勝手に決めた価値観の物差しじゃないか。

 ああ、他人と触れ合える理由がおれには分からない。
 他人は裏切るよ。どんなに愛し愛しても、最後は悲しい結末を迎える。
 おれのお母さんは恋人をとっかえひっかえしていた。お父さんも愛すべき妻と離婚したと聞いた。他人を愛したばかりに。他人なんて愛さなければ、傷付くこともなかっただろうに。
 他人を愛し合う、おれには分からない世界だ。他人と触れ合い愛し合う、その世界に本当の幸福はあるの? 兄さまは無いって教えてくれたよ。

『おれは兄さまとセックスをしたことがないです。だけど、兄さまがのぞむなら、べつにしてもいいと思っています。やったところで、おれ達はなにも変わらない』

 キスをしようが、手を繋ごうが、体を重ねようが、きっとおれも兄さまも変わらない。
 おれは兄さまの弟で、兄さまはおれの兄、それ以上も以下もない。愛し合う家族として、これからも一緒に生きていく。それだけだ。
 もしも、体を重ねることでおれ達が変わるというのなら、それはおれ達が変わるんじゃない。周りの目が変わるだけのこと。とっくに世間から見捨てられている、おれ達には関係ない話だよ。

 鳥井さんに気持ちを伝えると、好奇心を宿した眼を向けられた。

「ふうん、ずいぶんと兄貴から調教されてんなお前。兄貴をそこまで想えるのは、刷り込みの一種か? だとしたら、えげつねえな。下川治樹って男は」

 刷り込み?

「お前がやべぇくらい調教されているのは分かった。そして、そんなお前を上手く丸め込めば今後のためになることも、よーく理解した……はあっ、車中泊の間は風呂も入れねえのにな。仕方ねえ。これも仕事だ。小便漏らすなよガキ」

 前触れもなく助手席が倒された。
 またしてもおにぎりが座席の下に転がる。せっかく拾ったのに。なんて、思っている場合じゃない。

 覆いかぶさってくる鳥井さんから、体を押さえつけられた状態で唇を重ねられた。何が起きたか分からなかった。

(や、だっ)

 ぶわりと全身の産毛が逆立つ。気持ちが悪い。
 他人とキスするのが、ものすごく気持ちが悪い。
 拒絶反応が出る間も、生温かい舌が口内に入ってくる。もっと気持ちが悪い。
 生臭いナメクジが口の中に入り込んだような感覚に陥る。他人と触れ合うことが、こんなにも気持ち悪いなんて。

 むりだ。
 こんな世界、おれには不快過ぎる。

(やめろ。触るな、触るなよ!)

 力のかぎり鳥井さんの体を押して、叩いて、蹴っ飛ばして。
 ようやっと解放されたおれは口の中の唾液をぺっぺっぺっ、と吐き出し、べろを手の甲で何度も拭った。

 それだけじゃ飽き足らず、おれは鳥井さんの体を押しのけると、お茶の入ったペットボトルを持って車から降りた。電柱の前で膝をつくと、何度もお茶で口をゆすいで、酸いのある胃液と一緒にげぇげぇ吐き出した。

 想像を絶する不快感……お母さんもお父さんも、こんな世界で生きていたの? 理解に苦しむんだけど。

「重症だなこりゃ」

 後を追って来た鳥井さんから、予想以上の反応だと苦笑い。
 さすがにこの時ばかりは従順のいい子になれず、おれは鳥井さんを涙目で睨んだ。
 なんでこんなことをしたのか。目で訴えると、おれの気持ちを察したのか、鳥井さんは仕事だから仕方ないと返事した。ついでに興味本位でもあった、と付け加える。