後藤は強気で、強引だ。絶対にひく気はないらしい。 今日子は静かに目を閉じた。
後藤のことは後で考えよう。今は、波の音と後藤の鼓動が聞こえ、心地良かったのだ。
 それからもずっと、後藤は今日子を離さず、また今日子も腕を取り払うことはしなかった。
鎌倉を後にして、自宅まで送ってもらえば深夜の1時を回っていた。

「今日は楽しかったです。ありがとうございました」

今日子は楽しかったと口にした。そんな単語があったことすらも忘れていた今日子だ。

「俺が、楽しかったんだ。ありがとう。……林……」

 助手席の今日子を名残惜しそうに後藤は抱きしめた。
 離したくない今日子の温もり。ゆっくりと手順を踏まなければだめだ。植草との約束だ。それが後藤には拷問のように苦しいが、仕方がない。
 今、自分に向けられている心をくすぐる嬉しい態度でも、今日子の様子で一変することもある。逸る気持ちを後藤は抑えた。

「部長」
「また、会社でな。ほらメガネ」

 名残惜しそうに体を離すと、ドアポケットに入れていたメガネを渡した。

「あ、ありがとうございます。おやすみなさい」
「おやすみ」

 今日子は車から降り、後藤の車が見えなくなるまで見送った。
アパートに帰ると、崩れ落ちるように座り込んだ。
 鎌倉でのことを思い出す。会話らしい会話はしていない。とにかくずっと後藤に身を寄せ、海を眺めていた。夜の闇に聞こえるのは波の音と、規則正しい後藤の鼓動だけだった。時間が止まればいい。そんな感情が今日子の後藤に対する壁が取り払われた瞬間だった。
 後藤が帰ろう、と言いだした時、素直に頷けずにいたが、帰りたくないとも言えない自分の性格が邪魔をした。
 両手で自分を抱きしめ、後藤の残した温もりを確認する。
 後藤の声、仕草、今日子に対する行動全てが気持ちを揺さぶり、鼓動が激しくなる。これは発作とは違う激しさだ。
 こんな体験は初めてだ。対応しきれない感情に過呼吸になっているに違いない。
 この苦しさから逃れるには、後藤を遠ざけるか受け入れるかのどちらかだ。
 その答えは今日子自身が出さなくてはいけない。
 それもまた今日子を苦しめた。