美紗の病室には、誰もいなかった。先刻両親が帰ったところだと、顔見知りの看護婦が告げた。会ったらどう言おうかと、色々と考えてきたので気が抜けた。
 美紗の寝顔を見ていると、晶の最後の言葉が気になり出した。彼女は一体何を見たと思ったのか、と彼女は言った。見たか、じゃない。見たと思ったのか、と言った。
 未来の記憶。
 美紗が実際に何かを見たとは、限らない。眠りに逃げ込んでしまうくらい、恐ろしい未来を彼女は見たのかもしれない。今までの他愛のない未来ではなく。
 大地震か何かだろうか。日本沈没。地球の最期。まるでSFだ。もしくは、自身の死、か。
 もう大分暗くなった窓の外を見る。木々に阻まれているので、騒音は大したことはないが、大型の車が何台も通り過ぎている。彼女の実家もすぐ側なので、見える景色はほぼ同じだ。すっかり葉を落とした街路樹。少し先に見える工事中の高いビルの鉄骨。飴細工のようにとろとろと流れるテールランプ。
 すっかり考え込んでいて、ふと気づいて時計をみると約束の時間が近かった。慌てて上着を着こむ。名残りに美紗の顔を見たが、何の変わりもなかった。
 バイクに跨って、先刻窓から見た道を急ぐ。車が多い。大きなトラックの脇をすりぬけるように先を急ぐ。車だったら、間に合わないだろう。横が工事現場なので長い塀が続くが、歩道がないので鬱陶しい歩行者は反対側にしかいない。かなり大きなトラックの後ろについた。左の隙間は、ぎりぎりといったところ。実際、僕はかなりぼんやりしていたのかもしれない。
 追い抜いてしまおう。とアクセルをふかす。トラックの横に滑り込んでしまうと、前はほとんど見えない。中程まで来たとき、血の気が失せた。壁が接近している。トラックが右折しようとしているのだ。気づいた時は、もう遅かった。まきこまれる。
 後続の車のクラクションが甲高く響いた。がつんという衝撃。
 未来の記憶。
 混濁する意識の中で、僕はそんなことを考えていた。彼女が見たのは、この光景だったのかもしれない。地球や日本の終わりでも、自身の死でもなく、僕の死。
 何だか笑いたい気分だった。だけどそんな意識も長続きはせず、そのまま闇に引きずりこまれた。

 無個性な白い部屋。清潔なシーツ。ぽとぽとと単調なリズムでくり返される、点滴の音。枕許の花瓶には、そこだけ殊更に鮮やかなオレンジのガーベラ。
 既視感。いや、違う。これは実際に見た光景だった。美紗の、病室。
「目が、醒めたかい? 私は、いささか待ちくたびれたよ」
 聞き慣れた声に視線を動かす。ぼさぼさの髪。度の強い眼鏡。飄々たる表情。
「……晶」
「脳味噌は無事らしいな。ところで、私との約束は覚えているかい?」
 膝の上に分厚い洋書をおいて、晶は僕を覗き込んだ。頭が、朦朧としている。
「八時に……ブラッセリー……?」
「結構。しかし、事故るほど急げとは、言わなかったつもりだけどな。彼女に君のようなぼんやりした男はバイクになんて乗るななんて言われたことはないか?」
 事故。それで、ようやく記憶が再生した。では、僕は助かったのか。信じられない。
「美紗には、言われたことは、ない。けど、晶には、五回くらい言われた気がする……」
「そうか。では、六回目だな。もっともバイクのほうは君の身代わりに死んでしまったが。君ね、壁がトタンだったから助かったんだよ。コンクリなら、死んでたってさ。悪運の強い奴だね」
 乱暴な言葉と裏腹にひどく優しい顔で晶は言って、ちらりと時計を見て立ち上がった。
「じゃ、私は失礼する。もうすぐ母上が戻ってこられるし、帰りに医者に来るように言っておくから、しっかり養生したまえ」
 晶は本を抱えて扉のところまで行って、ふと思いついたように振り返った。
「眠り姫の伝言を忘れていたよ。ごめんなさい、とさ。彼女も明日ぐらいには来れるんじゃないかな」
「え……?」
 僕はその言葉に無意識に起き上がりかけたが、身体中を突き抜けた痛みに声も出せずにまた崩れ落ちた。
「ち、黙ってりゃ良かったな。君、ちょっとは棺桶に片足突っ込みかけてたこと、自覚したまえ。医者、呼んでくるよ」
「ちょっと……!」
 足早に出ていこうとする晶を、僕は懸命に呼びとめた。
「眠り姫、って……?」
 三秒ほど言おうか言うまいか、迷っていたようだった。しかし意を決したように、晶はベッドの傍らに戻って、椅子に腰かけた。
「目覚めたよ。僭越ながら、私が魔法を使わせて頂いた」
「魔法、って、まさか……?」
 眠り姫の童話を思い出して、唖然とする。その様子を見て、晶は噴き出した。
「してないよ。それは王子様の役目だろう? ま、正直な話、ちょっと好みではあったが。可愛い娘だね。君の好みはモモ組の幸子先生から、全然変わっていなくておもしろいよ」
「あのね……」
 くすくすと笑う晶に、僕は憮然とした。それで、ようやく晶は真顔に戻った。
「魔法の呪文はこうさ。『尚也くんの事故は結局大したことなかったよ』ってね」
「え、じゃ、やっぱり……」
 美紗は僕が死ぬと思って、眠りについたのか。
「未来の記憶、ねぇ。まぁ、信じたかったら、信じてくれ」
 晶は意味ありげに言って、ぼさぼさの髪をかきあげた。そう言えば、彼女は常々オカルトなんてものを否定していたっけ。
「違うのか?」
「彼女には、そう言っておいたよ。死に損なった分、尚也くんは長生きするだろうってね。別に嘘じゃない。大分、説明は割愛させて貰ったが」
「……どういうこと?」
 僕が聞くと、話すと長くなるんだけどな、と僕の顔色を見た。
「まぁ、手短に話そうか。君にはその方がいいだろう。彼女のいう記憶ってのは、実は多大なデータに基づく仮説なんだよ。例えば、そうだね、君が道でこけたというあるはずのない記憶があったとする。そして、実際に君がこける。ああ、あれは未来の記憶だったのか、と彼女は思う。けど、彼女はそれまでに無意識に君がこける要因をたくさん見ていたのだよ。例えば道に穴があって危ないなと思っていた。常々君の歩き方が不注意であると思っていた。その他もろもろの要因だね。それで君はいつかここでこけるだろう、彼女は無意識に考えていたわけ。それが夢にでも出たんだろう。そうすればもう確率の問題だ。そんな夢はかなりたくさん見ているはずだ。君が寝坊するとか、誰かに怒られるとか。その中で実際起きたのは君がこけたという出来事。十考えていて、そのうちの九までがはずれても残りの一が当たったら、残りのはずれはなかったものとなるんだ。占いの常套だね」
 彼女の例えは碌なものがなかったが、僕は少し口をとがらせて不満の意を伝えるだけで黙って続きを促した。
「で、今回の事故だけど、口にはしなくても彼女は君のバイクの乗り方にはかなり不安を感じていたらしいね。ぼーっとしていて、あまり周りをみない上に、スピードは出すからね。そして、あの道。聞いたけど、あそこではこの半年で三件事故が起きているよ。その内の一人は即死だった。これは確かニュースで見た覚えがある。これも別にあの場所が呪われているというわけじゃない。大型の車の後ろにつくと、バイクじゃなくても前はほとんど見えない。信号が見えないし、横は同じようなトタンの壁だ。先に十字路があることには気づきにくい。で、現場の入口が向こうだから、工事車両はあそこでは必ず左折するんだ。当然スピードは落ちる。バイクに乗ってる人間は苛々して、追い越しをかける。横についてしまえば、バイクにはウインカーは見えない。大体ああいう車はウインカーを出すのは遅いね。で、まぁ事故が多いのは、当然なんだ。本当に事故った人間は三人だけど、ニアミスはもっと多いと見る。恐らく彼女はそんな光景を見ていたんだろう。そして君があそこで事故を起こす夢を見た。その夢を窓の外を見て、思い出したんだ。問題は、その夢が実現すると思い込んでしまったことなんだ。はずれた記憶はただの夢として処理されるから、彼女にとっては未来の記憶は絶対だった。そして彼女は自分自身を眠りの世界に閉じ込めた、というわけだ。一番凄いのは、その思い込みだよ」
 僕は茫然と晶の話を聞いていた。その顔を見て、晶はいたずらっぽく付け加えた。
「現実を失うことよりも、君の死が怖かったんだよ。可愛いじゃないか。これからは、大切にしたまえ。聡明な彼女も。それから、自分もね」
 言って、彼女は立ち上がった。今度は、僕も止めなかった。彼女が扉に手をかけたところで、ようやく口を開いた。
「あの……ありがとう」
「別に。でも、そうだな。ありがたく思ってくれるなら、また実験室に来てくれ。一ヵ月もしたら、もう動けると、これは医者から確認ずみだ」
「晶にも、まだわからないことがあるのか?」
 僕は思わずげんなりとした。ぬるっとした薬品の感触が蘇る。しかし晶は嬉しそうに笑ってみせた。
「まだ、無意味な実験だと思っているのかい? 尚也君、世の中にはね、意味のないことはないのだよ。ただ、その意味を見つけるのが、結構骨なだけさ」
 晶は言って、いたずらっぽく笑った。
「君の拗ねている理由は判っているさ。眠り姫を目覚めさせたのが、私だということが不本意なんだろう」
「そんなこと、ないけど……。感謝もしているし。ただ……随分簡単なことだったんだな、と」
 図星を刺されて、僕は口ごもった。三ヵ月、ただ待ち続けた自分が馬鹿みたいだ。
「簡単、ね。確かに、君にはそう見えるのかもしれないね」
 晶は曖昧に笑った。
 そしてまた来るよとひらりと手を振り、そのまま部屋を出ていった。しばらくして入れ違いのように母親が入ってきた。しばらく見ない間に随分やつれたようだった。
「……ごめん」
 先手を打つように謝ると、母親は表情を決めかけたような微妙な表情を作り、そしてそれからようやく微笑んだ。
「本当に、心配かけて……。晶ちゃんなんて、責任を感じて毎日お見舞に来てくれていてたのよ」
「……毎日?」
 僕はぽかんと母親を見上げた。母親は心底呆れた顔をした。
 事故から今日でもう一週間、僕は眠り続けていたらしい。晶はその間、僕の病室と美沙の病室を日参していたという。そして美沙が目覚めたのが昨日、僕が目覚めたのが今日だったというわけだ。晶は他にも美沙の妹に話を聞いて、美沙の自宅にまでおしかけて部屋の外まで確かめたという。
「何か毎日のように美沙さんの耳元で何か囁いていたのですって。ご両親も何だか気味悪がってられたのだけど、それでも魔法のように美沙さんが目覚めて、今は凄く感謝してられるの」
「魔法じゃ、ないよ」
 僕がぽつんと呟いた言葉は、母親には聞こえなかったらしい。
 簡単、なんて言ってのけた自分が恥ずかしかった。目に見えている部分だけが真実ではない。判っていたつもりだったのに。
 そういえば、昔から散々引っ張り回されていたけど、それでも彼女は結局いつも僕を助けてくれていたっけと気づいた。
 僕にはもう彼女に何もしてやれないけれど、だからあのよくわからない実験にもつき合ってやろうと僕は思った。
 喜んで、とはやっぱり言えないけれど。

[END]