世界は全て色を失っていた。真新しいアパートは、まるで他人の家のようによそよそしい。かといって、今更実家に戻るのも気が重い。会社に行けば、全ての人が僕を笑っているように思える。いや、実際に笑っているのかもしれない。結婚式当日に花嫁に逃げられた男を。現実を全て拒否するほどに嫌がられた男を。
 休日も、何もする気になれなかった。窓際でぼんやりと徒に煙をふかしていて、ふと見下ろすと見覚えのある二つの人影が見えた。美紗の両親だった。美紗の妹の言葉を急に思い出した。
 気がつくと、逃げ出していた。鉢合わせしないように、階段で外に出る。どうするべきか、考えていなかったので、会いたくなかった。行くあてもなく単車にまたがって、ふと思い出した。心理学を専攻していた、古い友人。確かまだ大学に残っていた筈だった。
 休日なのに研究室には学生がいて、地下の実験室にいると教えてくれた。気のせいか、僕の背中でくすくすと笑っているように思える。被害妄想気味なのかもしれない。
 教えられた実験室の扉を叩くと、弾かれたように扉が開いた。ぎょっとしていると、友人が満面の笑みを浮かべて立っていた。
「素晴らしい! 君はテレパシーでもあるのか!」
 相変わらずのぼさぼさの髪に度のきつい眼鏡。薄汚れた白衣の下はこれも着古したトレーナー。そして意味不明の言動。見ただけでは判りにくいが、晶という名前まで中性的な、彼女は一応女性だった。僕はここに来たことを早くも後悔し始めていた。
「まあまあ、ここにかけたまえ。気を楽にして、何も考えないでくれ」
 引きずられるように雑多な機械の中をすり抜けて、小さな個室に押し込まれる。中には椅子があって、その横に不気味なコードがいくつもぶら下がっていた。その椅子に無理やり僕を座らせて、晶は喜々としてそのコードを僕の頭に張りつけ始めた。
「ちょっと……! 何、するんだよ!」
「いやー、嬉しいね。今日中に何としても男性の被験者が欲しかったんだよ。何で判ったんだい?」
「違う! 僕は別に……!」
「まあまあ、落ち着いて。取り合えず、十分黙ってあの画面を見ていてくれ。別に電流が流れるわけではないんだから」
 言われてしぶしぶ僕は身体の力を抜いた。思い出した。学生の時はよくこうやって捕まっては訳の判らない被験者にならされた。
「話は後で聞くからさ」
 不器用なウインクを残して、晶は小部屋を出ていった。一畳くらいの狭い部屋は、電灯も暗く、窓もない。一人残されて、でもそこは妙に落ち着けた。やがてじーと鈍い音がして、椅子の前の画面に映像が映った。単純な線と丸で描かれた人間の顔。それが何秒かおきに提示される。それを僕は何も考えずにぼんやりと見ていた。十分足らずで映像は終わり、晶がのっそりと小部屋に入ってきた。
「何の実験?」
「今回は、脳波の測定。左右差を測るんだ」
「それで、何が判るわけ?」
「左右差がない、ってことさ」
 聞いて、判らないながら何となく絶句する。
「何か、意味があるのか?」
「世の中にはね、意味のないことなんて一つもないんだよ」
 友人は鼻唄交じりに、僕の頭からコードを外した。そしてエーテルを含ませた脱脂綿を投げてよこす。
「これで拭いておいてくれ。悪いね。助かったよ」
 言われて頭をなでると、妙にべとべとする。
「何、これ?」
「電気を流れやすくする、薬。別に害はない」
「害はなくても気持ち悪いよ」
「気にするな。細かいことだ」
 しゃらっと言ってのけて、彼女は部屋を出ていった。そしてコーヒー入った紙コップを二つ手にして戻ってきて、小部屋の外へ促した。
 小部屋の外のテーブルの上の薬品なんかをざっと避けて、カップを二つ載せる。さっさと自分の分を手にして、彼女はにっと笑った。
「最初に言っておくが、私は専門外だぞ」
「な……何が?」
 見透かされているようで、僕はどぎまぎとまだ熱いコーヒーを口にした。
「眠り姫の噂は、聞いてる。まぁ、興味深い症例ではあるけど、そりゃ医学の領域であって心理学の領域じゃない」
「……判ってる」
「結構。しかし、君の話を聞くことくらいは、私にも出来る。どう?」
「どう、って?」
 僕が顔を上げると、彼女はすっと手を伸ばして僕の頬を軽くはたいた。
「しっかりしろよ。悩みがあるから、ここに来たんじゃないのか?」
 言われて初めて気づいた。昔通りの乱暴な口調。それが胸に染みて、不覚にも涙が出そうになった。泣きはしなかったけど、まるで愚痴めいた話をぽつりぽつりと僕は話し始めた。式当日のこと、それからのこと、そして未来の記憶のこと。
「未来の記憶、ね」
 黙って僕の話を聞いた後、彼女は眉を寄せて呟いた。ぼさぼさの髪を無造作にかきあげて、じっと考え込んでいる。僕は話すだけ話したので、何となくほっとして、ぬるくなった不味いコーヒー飲み干した。
「ま、助言は三つかな」
 やがて彼女は言って、指を三つ立てた。そして指を折りながら、口を開いた。
「明日は会社を休んで、医者に行くこと。出来たら溜まっている有給全部使うつもりで旅行にでも行くこと」
「医者? 美紗の、病院?」
 思いがけないことを言われて、僕はきょとんと彼女を見返した。
「自分で気づいてないのか? 重症だな。ほら、先刻から時々みぞおちを押さえてる。無意識か? 神経性胃炎だろう。さっさと胃薬でも貰ってこい。君ね、大分参っているって、自分で気づいてないのか?」
 言われて、気づいた。僕は自分で自分の右手を押さえて、苦笑した。
「で、あと一つは?」
「今夜、暇かい? もっとましな、コーヒーでも飲みに行こうじゃないか。久しぶりなんだから、私に夕食でも奢りたまえ」
 真顔で言って、彼女はコーヒーを飲み干して、顔をしかめた。僕は仕方なく笑った。本当に、相変わらずの傍若無人さだ。
「OK。どこに行く?」
「そうだな。君、どうせバイクだろう? 私もデータ入力だけしてから行くつもりだから、八時にブラッセリーでどうだ? 君は、その間に眠り姫の顔でも拝んで来たまえ」
「……それも、助言?」
 美紗については、結局彼女は何も言わなかった。僕が聞くと、彼女はいたずらっぽく笑った。
「諦めるつもりなら、悩んだりしない。そうだろう? ま、気長に待つんだね」
「……ありがとう」
 礼を言って立ち上がると、彼女は肩をすくめて見せた。そして立ち上がって扉まで送ってくれる。
「そうだ。女の子が、騒いでたよ。聞こえたかい? 君、格好いい、ってさ。帰りに愛想でも振ってやってくれ」
 急に思い出したように彼女は言って、くすくすと笑って手を振った。それで彼女らは笑っていたのか。やっぱり被害妄想気味だったな、と何となくほっとした。手を振り返すと、彼女は真顔で一人言みたいに呟いた。
「ところで彼女は、一体何を見たと思ったのかな」