結婚式の当日、僕は苛々となかなか来ない花嫁を待っていた。始めは事故でもあったかと思った。しかし彼女の家に何度も電話をかけたが、何故か埒があかない。父親か母親がでて、行きます。すぐ行きますから、もう少し待ってください、とその繰り返し。彼女はまだ家にいるらしかった。来賓は騒ぐし、親戚は怒り出す。その場にいたたまれず、僕は白い式服のままふらりと外に出た。秋の晴天。空が高かった。そんなことをよく覚えている。
 そんな時に彼女の父親がタクシーでやってきた。美紗は乗っていなかった。母親と、妹も。彼は僕の顔を見るなり、土下座した。
「誠に、申しわけない」
 時代がかったその台詞に、僕は返事も出来ずに茫然と彼を見ていた。騒ぎを聞きつけて、来賓や親戚が出てくる。その全員に彼は平謝りした。
 美紗が、どうしても目覚めないのだと、彼は言った。呼んでも、たたいても、起きないのだと。だから今日の結婚式は中止にしてくれと、彼は更に頭を下げた。露になった薄い頭が、コミカルだった。話の内容も、コミカルだった。くすくすと笑う気配がした。
「つまり、逃げられたんだ」
 小さな声で言ったつもりだったのだろう。だけど聞こえてしまった誰かのその言葉が、胸につき刺さった。
 花嫁に、逃げられた。何て、間抜けなのだろう。
 茫然と立ちつくす僕に、誰も声をかけず、一人また一人と式場から姿を消した。残ったのは、烈火のように怒り狂った僕の両親と、まだ頭を下げ続けている彼女の父親。
「一体、どういうことなんですか!」
 普段、温厚な父親が声を荒げている。勝ち気な母親が泣いている。
「話にならん。尚也、帰るぞ!」
 乱暴に父親に腕を引かれて、ようやく僕は我に返った。
「美紗に、会ってくる。じゃないと……」
 納得できない。どうしてだろう。だって、あんなに楽しそうだったのに。式場を選ぶときも、新居の掃除も、招待状のあて名書きも。そう、前日に会ったときだって、明日からはずっと一緒にいられるね、と笑った。なのに、どうして?
 美紗は自宅近くの病院にいた。母親が運んだらしい。病院のベッドで、まだ美紗は眠っていた。病気なのだろうか、と僕は不安になりながらも、少しほっとした。それなら、判る。だけど医者は言い難そうに、身体には何の異常もないと告げた。恐らくは、精神的なものだろう、と。
「つまり、それほど、僕と結婚するのが嫌だってこと……?」
 僕の言葉に、茫然としていた美紗の家族が弾かれたようにこちらを向いた。笑いたいのか、泣きたいのか、座り込みたいのか、自分でも判らなかった。いっそこのまま僕も眠ってしまいたかった。
「それなら、どうして……!」
 握りしめた拳の行き場さえ、なくて。僕の声なんてまるで聞こえないように、美紗は安らかに眠っていた。
「尚也さん……」
 泣きそうな顔で、美紗の妹が僕を見た。僕は、その顔を見ないようにして、ドアのノブに手をかけた。口の中で呟いた言葉は、帰ります、だったかまた来ますだったか。それすらも、よく覚えていない。ただ、逃げるように、そこから離れた。