慌てて口を押さえたが遅すぎた。

「そう名前だけの奥さん」

 投げやりな女の言葉。

「浮気相手がたくさんいるのは貴女だって知っているでしょう?

 佳祐はあの性格でくるもの拒まずだから。

 別にそれは構わないつもりでいたのに‥‥‥

 どうしてこんなふうになったんだろう。

 それにここにいる私っていったいなんなんだろう?」

 泣き出しそうな奥さんの顔に貴代の心は張り裂けそうになった。

 佳祐の性格については貴代も気付いていたが、

 奥さんの立場は羨ましいと心の奥では思っていた。

 
  最後に佳祐の戻る場所は奥さんの元だと信じていたから、

 でも奥さんは私と違う悩みを抱えていたんだ。

 いくら佳祐にお金があったとしても。

 私は嫌になったらすぐにでも別れられるけど、

 もし私が佳祐の奥さんだったら我慢できるだろうか?

 それはきっと無理‥‥‥

 そこまで考えたら少しスッキリした気分になった貴代。

「ちょっといいかな?私、佳祐のこと奥さんがいるとしか知らないんだけど

 できたらもう少し詳しく教えてもらえる」

 何かを思いついたような貴代の言葉。

「教えたら今の私の現状に変化ある?」

「それは解らないけど、貴女の様子を見てくることは出来ると思うの」

「貴女じゃなくて、千絵って私のこと名前で呼んで」

笑った女の顔は、綺麗で印象的だった。

「千絵の家ってあそこのマンションだったんだ」

「知らなかった?佳祐と結構長く付き合ってたよね?」
 

「今まで気にしていなかったし‥‥‥

 それにお互いを干渉しない間柄だったから」

 
  投げやりな貴代の言葉は千絵に対して意地を張ったものだった。

 聞きたくても聞けなかった佳祐の家の場所。

 これ以上求めちゃいけない。

 歯止めを掛けていたもう一人の自分がいた。


「本当にいいの?」

 玄関先で、不安そうな千絵の顔を貴代はじっと見つめていた。

 妻が愛人に自分を確かめてきてなんて滑稽な光景。

「大丈夫だって安心して待ってて」

 貴代は精一杯の笑顔を千絵に向けた。

  俯いて今にも泣き出しそうなその姿は、

 確実に透けて見える。

 それを貴代が口にすることはなかった。

 立派なマンションのホール、

 そこには制服を着た警備員らしき男性が立っていた。

 その横を平然とした顔で通り過ぎた貴代。

 内心は心臓がバクバクだった。

 でもここまで来たら引き返せない。

 ちゃんと状況を確かめて

 千絵に教えてあげなきゃ貴代は義務感を感じていた。

 千絵に教わった通りの番号を入力する。

 そして専用のエレベーターに乗り込んだ。

 「嘘」

 勝手に漏れた自分の声に貴代は驚いた。

 教わった部屋の前まできて、部屋から出てきた人物に、

 驚きのあまり息を飲む。

 千絵そっくりな女性が部屋の中から出てきた。

 綺麗にメークされた顔もまったく千絵と同じもの。

 ‥‥‥貴女は誰?

「うちになんか御用かしら」

 訝しげな顔をした女性は千絵と同じ顔。

 貴代の見知らぬ女性に見える。

「すいません。ここって田中さんの御宅じゃなかったです」

 素知らぬ顔で考えておいた言葉を口にした。

「違います。きっと階を間違えたんじゃない?」

 親切に答えてくれた女性。

「ごめんなさい。私今急いでいて、良かったら下のロビーで聞いてみるといいわ」

 背を向け歩いていった。

 踵の低いパンプスの音がその場に一人立ち尽くした貴代の耳に
 
 いつまでも響いていた。

 渇いた大地に足を一歩付いたところで貴代は、

 今出てきたばかりのマンションを振り返り、見上げていた。

 
  今でも信じられない。

 それでも現実に千絵は存在していた。

 家で待っている千絵はいったい?

 背中に悪寒が走ったが‥‥‥

 脳裏を生霊が過ぎる。

 まさか?

 千絵に確かめてみなきゃいけない。

 本物が存在している以上貴代の知っている千絵は、きっと‥‥‥